「善意」と「利他心」が満ち溢れる「幸福な世界」の実現は、「正しい貨幣・経済・政治システム」の存在を「知る」ことから始める__『幸福の「経済」 支配の「金融」』②[嚆矢の章 其の壱_「正の社会制度」「不正の社会制度」]

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1.地球環境と世界人類の危機・苦境は、「不正の社会制度」の「意図的な放置」によってもたらされている

全ての「社会制度/思想」には「正」と「不正(負・邪・悪)」があります。

問題は、「社会制度は人間が作った」という真理が曖昧にされていることです。人間社会に「善」を為す「正の社会制度」は、「皆を幸福にしたいという『善意』と『利他心』で作られる」ので、善良な設計者たちは謙遜して「私達が作ったのではない、『自然発生的に』出来上がったものだ」というかもしれません。しかし、「不正の社会制度」は全て、「『支配の道具』として、特定の人間の『悪意』と『利己心』によって作られたもの」です。

「すべての社会制度には『正』と『不正』がある」__これは「社会制度の真理」です。しかし、このことを「社会制度には『正と不正の二面性』がある」と解釈することは間違いです。「正の社会制度」と「不正の社会制度」は、同じ名前を持つ別物だと考えなければ、「不正の社会制度」がもたらす諸問題を、解決することはできません。なぜなら、「不正の社会制度」とは、一つの社会制度の「悪用法」に他ならないからです。

「社会制度には『正と不正の二面性』がある」という考えからは、「そういうものなのだから仕方がない、どうしようもない」という「思考停止」しか導き出されません。そして、世界の諸国民を「思考停止」させて「民を愚かに保つ」ことこそが、「支配の道具」として設計された「不正の社会制度」の「設計者/支配者」の、そもそもの狙いです。

ヘーゲル「弁証法」的に言えば、まず「社会制度/思想」の「基本機能」を「テーゼ(正)」とし、それの「悪用法」としての「不正の社会制度」を、「正の社会制度」とは「制度設計者」の違う別物、「アンチテーゼ(不正)」としてきっちりと分けたうえで検証し、その社会制度/思想の「『正しい』、本来の用途」を「公共・共存共栄」の視点から「衆知」を集めて模索[止揚]する。そうして得たものが「ジンテーゼ(合)」_真に「正/善の社会制度」と呼べるものなのです。

「不正の社会制度」の「設計者/支配者」は、常に「社会制度/思想は『難解』なものであり、『専門知識・専門技術』を必要とする。『専門家・学者』(即ち『設計者/支配者』とその共犯者/幇助者)に任せなさい」といって「不正の社会制度」への庶民の素朴な疑問・疑念を矮小化・無視します。しかし、「不正」とは「歪み」__「不正の社会制度」は、所詮は「正の社会制度」の「偽制」、世界の諸国民を「支配」するための「おためごかし」に過ぎないので、その「専門知識・専門技術」も「虚構」です。『裸の王様』の詐欺師の仕立屋が「『バカには見えない織物』の素材や織り方・仕立て方についての『専門知識・専門技術』は難解すぎて一般人には理解できないから、説明しても無駄だ」というのと同じです。

「社会制度」が「一般人に分かるように説明することが不可能なほどに難解な理論で作られた」ということは、「民主主義」の誤謬を「衆愚政治」で片付けるのと同じ「説明責任の放棄」_「自家撞着」「自己破綻」です。「奴隷制度」を「不正」と認める「民主制度」を奉じるというなら尚更、全ての「社会制度」の制度設計者・運営者は、全ての国民の全ての疑問・疑念に答え、納得させる義務があるはずです。それが為されない「社会制度」を、信用してはなりません。それは「サギ」「犯罪」であると、告発すべきなのです。

2.フランス革命「自由・人権と民主主義」が「奴隷制度」存続に加担している

フランス革命「自由と人権」「立憲主義・人民主権」をスローガンとする近現代「民主主義」は、「正しく、崇高な思想」の体を取っているだけに、「奴隷制度」そのものよりタチの悪い、「不正の社会制度」の最悪のものの一つです。

「民主主義」の核心は、「世界の諸国民みんなが幸福に暮らせる社会を、みんなが納得する制度によって築く」ことのはずです。しかし、現実には戦争・貧困・格差・差別は根絶されるどころか拡大する一方。そして世界は、「主権者」であるはずの世界の諸国民の望まない、「カネと権力」の暴力が横行する理不尽なものになり果てています。

「『民主主義・法治主義』『自由主義・人権主義』は、『奴隷制度』やその一種である『絶対君主制』等の『支配・被支配』の構図を打ち破るため、社会的弱者と大多数の『普通の人々』のために作られた」と、世界の諸国民は信じています。「そのように信じ込まされている」のです。

「『自由』と『人権』『立憲民主主義』は、『民衆』が起こした『革命』によってもたらされた(『民衆』の手によって、『自然発生的に』作られた)思想・社会制度である」という、現代にも受け継がれる「社会通念」をもたらしたフランス革命の思想的支柱「啓蒙主義」には、しかし、「全ての人間は『自由と人権』を生まれながらに有する。ただし、奴隷・有色人種とその混血・女性は、魂を持たない『半人間』であるため、『自由と人権』の恩恵にあずかれない」という、「普通の人々」は見落としてしまいがちな、「生命保険」まがいの「細則(small print)」がついていました。

「国民を苦しめた『支配者』国王」を倒し、その「カネと権力」を「民衆」の為に使うはずの「革命」は、実際には、打倒した国王から簒奪した「カネと権力」を、「新しい指導者」=「革命政権」に与えました。「民衆の代表」と思われた「革命政権」は、事実上の「新しい支配者」に過ぎなかった__「支配者 vs 被支配者」の構図は、邪悪の社会制度「奴隷制度」が初めて作られた古代バビロニアと相も変わらぬ形で継承されたのです。

フランス革命、イタリア統一運動(バチカン政権転覆)、明治維新(江戸幕藩体制転覆)、ロシア革命、文化大革命__近代以降の全ての革命は、そのような「支配者交代劇」「茶番」に過ぎませんでした。

フランス革命以来、革命・戦争惹起を「生業」としてきた国際共産主義(コミュニズム・インターナショナル)国家社会主義(ナチズム)が、第二次世界大戦・東西冷戦で「正義の連合国(=国連)」に「打倒」されたあと、その「悪の代表国」であるロシア・中国・ドイツ・日本が、「旧『世界の敵』」でありながら、揃いも揃って世界トップ・レベルの金持ち国となり、「1%が99%の富を独占する」世界「ねずみ講」カーストの頂上付近にその座を得たことが、その証拠です。しかし、ロシアも中国も、ドイツも日本も、実は「支配者の下僕」に過ぎず、「支配される側」にいます。250年前から、全ての戦争・革命は「社会制度設計者」による「出来試合=自作自演=ヤラセ」だったのです。

3.「不正の『世界』社会制度」を作る者が、世界を支配している

「奴隷制度」を生んだ古代「文明」社会以来、近世まで、世界の「支配者」は、支配される者の「目に見える」帝王・領主や宗教団体などでしたが、近現代社会では、「カネと権力」という「匿名性」の陰に隠れて「支配の為の『世界』社会制度」を「設計」し、私設した国際機関と世界の諸国家の政府を「フロント組織」として「使役」して、その「社会制度」の「法整備・施行・運営」をさせる、「世界にその存在を知られていない極少数」が「世界の本当の支配者」です。世界の諸国民がそれと知らないうちに、「支配・被支配」の構図が「変質」したのです。実際、世界の諸国民に「奴隷」とされている自覚は全くありません。

「グローバリズム」という「不正の社会制度」、「『ねずみ講』型『新』奴隷制度」を、「立派な、素晴らしい政治経済手法」として数世紀にも亘って世界の諸国政府が推進してきた結果、今、「世界に遵守させることができる『社会制度』を作る者が、世界を支配できる」仕組みが完成しています。

「一国の『憲法』を作る者、その憲法よりも優先する『国際条約』を作る者」が、現在「真に世界を支配」しているのです。

私達世界の諸国民は、「私達は『国民主権(民主主義)』の国に住んでいるから、私達の国の『憲法』は私達(の代表の国会議員)が作った」と思い込んでいますが、そうではありません。

『日本国憲法』「日米安保」は誰が作りましたか?__第二次世界大戦で日本を「征服」した「連合国(=国連)」です。『国連憲章』という、世界の殆ど全ての国が調印し、「遵守」することになった「国際条約」は、誰が作りましたか?__私達世界の諸国民は、「(世界は「民主主義」なのだから)国連加盟国全員が話し合い、合意して内容が決められた」となんとなく「善意に想像」していますが、もちろん違います。しかし、実際問題として、『国連憲章』を誰が作ったか、「文責者」を問うことは世界の諸国民にはできない仕組みになっています。

例えば、『日本国憲法』は、「第二次世界大戦における日本の『戦争犯罪』と、それを惹き起こした『非民主主義的』国体(つまり、『天皇制』という『絶対君主制度』)を『改善』するために『正義の連合国GHQ』が作って与えてくれた」ことになっていますが、「南京大虐殺」や「中国侵略」「慰安婦『性奴隷』化・強制連行」など「日本の戦争犯罪」は全て「冤罪」であったことが証明できます。(*1)ということは、『国連憲章』「敵国条項」も、「東京裁判」も『日本国憲法』も、「サンフランシスコ講和条約」も「日米安保条約」も、戦後日本の「国連(=米国)至上主義」政策も、全て「誣告・名誉棄損・脅迫による強制」という犯罪だということになります。(*2)しかし、「制度設計者=支配者」側の国連を告発する「法的手段」は、「被支配者」である日本と世界の諸国民には与えられていません。

これは、本書が提示する「世界の諸国民は『不正の民主主義』で騙されている」ことの、多くの証拠の一つです。

18世紀にフランス革命を裏で指揮して「『自由・人権・民主主義・資本主義』が正義」という「洗脳」を全人類に施した者が、20世紀に国連を「私設」し、『国連憲章』「敵国条項」で日本を「敗戦奴隷」に仕立て上げ、戦後の日本搾取を「法的に」正当化し、全人類を「奴隷支配」しています。

その支配の実態を認知・理解するためにはまず、私達は「『不正の社会制度』の『近代化』の真実」「『支配者』によってタブーにされた『お金』の真理・真実」を知らなければなりません。

(次稿『幸福の「経済」 支配の「金融」』③[嚆矢の章 其の弐 封印された「正の貨幣制度」]に続きます)

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(*1)「『南京大虐殺』の虚構」の完全証明 ①東京裁判と「南京安全区国際委員会」そして南京の人口 

ロスチャイルド国際連合は、『日本国憲法』と日米安保条約によって、日本の主権と独立を簒奪し、日本民族の名誉と尊厳を蹂躙している__『日本国憲法』無効確認が世界から戦争と貧困を根絶する[総合版3/5]

「慰安婦『強制連行・性奴隷』説」は完全に破綻している__慰安婦には「職業選択・廃業・外出・外泊の自由」があった。__唯一客観的に検証された朝鮮人元慰安婦・文玉珠の体験記を精読する①

(*2)「日本国憲法改正」「日本国憲法無効論封殺」「天皇譲位特例法対応」は日本の本当の支配者・米国防省の命令だ!__近衛文麿、吉田茂、岸信介の裏切りと亡国の罪を、今改めて問う__『日本国憲法』無効確認への道①

東京裁判と対で、天皇と日本人を虐待し侮辱する『日本国憲法』の「改正」では、日本の「主権と独立を喪失した敗戦奴隷」の立場は変えられない__『日本国憲法』無効確認への道②

ロスチャイルド国際連合は、『日本国憲法』と日米安保条約によって、日本の主権と独立を簒奪し、日本民族の名誉と尊厳を蹂躙している__『日本国憲法』無効確認が世界から戦争と貧困を根絶する[総合版3/5]

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「南京大虐殺」「中国侵略」「慰安婦=性奴隷」………………ロスチャイルド連合国史観の誣告罪放置が、世界で戦争・テロ・国際間不信・不和を創出している

ロスチャイルド「新世界秩序」は非民主主義、エセ人道主義のグローバリズム帝国主義「戦争金融サギ」世界基地植民地奴隷制度

ロスチャイルド金融テクノクラート独裁体制下、ロスチャイルド金融軍産複合体の米国務省・米国防総省の下部組織「日米合同委員会」が、国民が誰も知らないままに、ロスチャイルド日銀とともに、戦後日本を奴隷支配している

日米合同委員会の決定は、『日本国憲法』に優先する

「植民地統治法」に過ぎない『日本国憲法』を、「憲法」という最高法規として戴く日本は、独立主権国家ではない

「『象徴天皇』で日本は国体を護持した」「『日本国憲法』で国民が『主権者』となり、日本は『民主主義』国家となった」「サンフランシスコ『平和』条約で、『連合国の日本占領』は終わった」という大嘘を信じ込まされた「戦後日本」の国民は、ロスチャイルドによって同様にたぶらかされた世界の諸国民とともに、虚偽の「繁栄」とまやかしの「人権主義」、奴隷の「自由と平和」の中で、長く緩やかな滅亡への坂道を下っている………………

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東京裁判法廷_市ヶ谷の旧陸軍士官学校

【PHASE 6(1945-1951)_東京裁判、『日本国憲法』、日米安保条約と日米合同委員会[War Guilt Information Program ]】

  • 1945年8月15日_昭和天皇の「鶴の一声」玉音放送により、日本8000万の民が武器を置き、「停戦」成る。[「奴隷化」を意味する「敗戦」を「終戦」と言い換えて日本国民を油断・脱力させる]
  • 1945年8月28日_ロスチャイルド国際連合(米国と英連邦=オーストラリア・ニュージーランド・英領インド)による日本本土進駐開始
  • 1945年8月30日_連合軍総司令官マッカーサー元帥一行(ロスチャイルドCIA/『Newsweek』)来日_[誰も知らないままに、ロスチャイルド国際連合の「日本占領」=「終わらない日本植民地統治」始まる]

日本と世界の諸国民は、ロスチャイルド「新世界秩序」の世界基地植民地化の嚆矢「日本占領」によって、ロスチャイルド国際連合の「戦争金融モノポリーゲーム」の「駒」にされた

ロスチャイルド「新世界秩序」の「世界金融モノポリー・ゲーム」は、互いに互いを「悪」と呼び合う「国際共産主義 vs 国家主義・民族主義・保守主義」の基本対立軸上で進行する。

ロスチャイルド国際金融テクノクラートは、「世界金融モノポリー・ゲーム」の「銀行」役であり、ゲームの創始者であるから、「元締め独り勝ち」は最初から決まっている

第一次と第二次、二つの世界大戦によって、世界はロスチャイルド国際金融連合によって、「世界金融モノポリー・ゲーム」に強制参加させられた

第二次世界大戦によって、世界の領土は、ロスチャイルド国際共産主義陣営とロスチャイルド資本主義陣営とに、二分された

ロスチャイルド国際金融テクノクラートは、国際共産主義者に「ソビエト連邦」という名で隷下の共産主義諸国を「衛星国」=「植民地奴隷」化させ、資本主義・保守主義者にはロスチャイルド中央銀行「政策委員会」・御用経済学者を使って「自由貿易」「証券株式市場主義」「グローバリズム経済」「金融ビッグバン」「プライマリー・バランス重視」「難民・外国人労働者受け入れ」など、ロスチャイルド「新世界秩序」に都合の良い政策を行わせて、結局両陣営・全世界が「基地植民地」化、「債務奴隷」していく「ゲーム」をプレイさせた。

「国際共産主義の脅威」に対抗して、「サンフランシスコ対日平和条約」に参加・調印した「民主主義・資本主義国家群」が、東西冷戦対立軸の「西側陣営」としてロスチャイルド国際連合「国連」が盟主となる「サンフランシスコ体制」を構築するためにこそ、ドイツと日本は「悪のファシズム枢軸」でなければならなかった。そして、「ロスチャイルド国際連合の正しい導きによって改心した敗戦国」ドイツと日本は、「正義の国際連合」の監視のもと、国連憲章「敵国条項」に縛られながら、それぞれ「NATO 北大西洋条約機構」と西側陣営の極東の要衝に位置する最前線基地として「国際社会に復帰」する。

「『邪悪なるファシズム枢軸』ドイツと日本が、『ホロコースト』『南京大虐殺』『世界侵略共同謀議』という『平和に対する罪』『人道に対する罪』を犯した」_それは「世界大戦の勝者」であるロスチャイルド「新世界秩序」が書いて世界に与えた「正しい歴史認識」である

この「ロスチャイルドによる『正しい歴史認識』」を世界中に浸透させるため、ロスチャイルド国際金融連合は「War Guilt Information Program 」という名の戦争贖罪認識誘導「洗脳プログラム」で、日本国民だけでなく世界の諸国民全体を「思想教育」した。

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【War Guilt Information Program_東京裁判、検閲・焚書・洗脳、『日本国憲法』、国連憲章「敵国条項」】

  • 1945年9月2日_ポツダム宣言受諾により約束されたはずの「有条件降伏」(占領は「保障占領」であるべき)が、「無条件降伏」(デベラチオ=戦亡・征服として、「被占領国は占領国に何をされても文句を言えない状態」)に書き換えられた卑怯なる降伏文書に、米軍艦ミズーリ号上で日本が調印させられる

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  • 1945年9月10日_GHQが「言論統制」を示唆した「新聞報道取締方針」「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」( 連合国軍最高司令官指令 SCAPIN-16 )を発令
  • 1945年9月18日_朝日新聞が、1945年9月15日と9月17日の二つの記事について二日間の業務停止命令( SCAPIN-34 )を受ける

「『正義は力なり』を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反の戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」_鳩山一郎、1945年9月15日付 朝日新聞

「求めたい軍の釈明 『比島の暴行』発表へ国民の声___ほとんど全部の日本人が異口同音にいってゐる事は、かかる暴虐は信じられないといふ言葉である」_朝日新聞 1945年9月17日

  • 1945年9月21日_ロスチャイルドGHQが「Press Code for Japan 日本に与うる新聞遵則」(SCAPIN-33)発令
  • 1945年9月22日_同「Radio Code for Japan 日本放送遵則」(SCAPIN-43)発令

これはロスチャイルド国際連合による事実上の言論弾圧検閲_「言論の自由」も日本人の「基本的人権」も踏みにじった全体主義独裁体制であった

(GHQの検閲30項目の詳細については、拙ブログ別稿[「日本人の魂の武装解除」:GHQ検閲リスト30項目で連合国が隠したかったこと]もご覧ください)

検閲は連合軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)参謀部のうち情報担当のG2(参謀2部)所管の「Civil Censorship Detachment(CCD)民間検閲支隊(GHQスタッフ370名、日本人嘱託5700名)により実施された。新聞記事の紙面全てがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日5000本以上であった。(プレスコード wiki

  • 1945年12月8日_ロスチャイルドGHQ版「正しい歴史認識」の日本国民への刷り込み『太平洋戦争史』が全国の新聞紙上で全10回の連載開始。NHKラジオ第一・第二では『真相はこうだ』が1945年12月9日から10回に亘り放送。その後『真相箱』『質問箱』と名を変えて1948年1月まで継続
  • 1946年4月_『太平洋戦争史』が高山書院から聯合軍総司令部(GHQ)民間情報教育局資料提供、中屋健弌として刊行_「黒塗り」された学校教科書の補助教材として使われる[学校児童のロスチャイルド国際連合史観による洗脳]

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1937年9月、占領した中国北部・保定地区を行進する日本軍

大東亜戦争で、中国と東アジア諸国を、「植民地奴隷」の地位から解放せんと日本が戦った「本当の敵」は、第二次世界大戦時には「アジア・アフリカ・南北アメリカの有色人種全体の『奴隷主』」となっていたロスチャイルド国際金融カルテルであった

ロスチャイルド国際連合GHQは、「検閲30項目」によって、実際の戦場に赴いた日本兵―殆どが農村出身の「普通の日本人」―にとって、真に「植民地解放の戦争」であった大東亜戦争の呼称を禁じ、「満州事変・支那事変で始まる『15年戦争』=太平洋戦争」という「東アジアに対する日本の侵略戦争」という捏造された歴史とすり替えて、本当はロスチャイルド国際連合が負うべき東アジア諸国への賠償を、まんまと日本に肩代わりさせたのだった。

だが、「南京大虐殺」など無かった

【「南京大虐殺」がロスチャイルド国際金融軍産複合体によって捏造された虚構である証拠】

1.「南京安全区国際委員会」はロスチャイルド「スカル&ボーンズ」キリスト教宣教師 とロスチャイルド国際軍産複合体の巣窟、『南京安全区国際委員会報告書』は、中国国民党監修の「反日戦争プロパガンダ」であった

「虐殺派」が「客観的な立場の虐殺目撃者」「決定的な南京大虐殺の証拠」ともてはやす南京安全区国際委員会のメンバーは、中国国民党に雇われた「南京の日本軍の残虐行為」宣伝工作員と、米・英・独・ベルギー・デンマークの石油・貿易・保険会社―ロスチャイルド国際金融軍産複合体の権益利得者達で構成されていた。

本Documents on Rape of Nanking1903年の「Yale in China」(イェール大学ディヴィニティ・スクールの支援で中国各都市へのキリスト教学校、病院の設立)開設以来、キリスト教伝道の名の下で、中国の巨大な人口を、世界一の収穫量を誇る「アヘン農園」の奴隷労働力として使用するため「民は生かさず殺さず、愚かに保て」の共産主義をソ連ともども支援してきた「スカル&ボーンズ」イェール大学は、「Yale in China」の学生であった毛沢東を「スカル&ボーンズ」に取り立て、漢民族の「復興・自立と発展」を目指す「三民主義」孫文の国民党を冷たくあしらうようになっていた。国民党に雇われた南京のアメリカ人宣教師たちが必死で「反日プロパガンダ工作」に励んだのには、このような背景_本国からの支援途絶の可能性という、深刻な金銭問題があった。(『南京安全区国際委員会報告書』及び国際委員会メンバーの日記、書簡などのアーカイブは全て、イェール大学ディヴィニティ・スクール図書館に所蔵されている)

■1937年12月12日_熾烈を極めた南京攻略戦のただ中に、南京北部の揚子江で起きた、日本軍艦による二つの米英軍艦の「誤爆・誤沈」事件(「パネイ号事件」「レディバード号事件」)は、そもそも米英軍艦が、退却する中国軍兵を自国旗の下に多数匿っていたこと[米国の「中立法」違反]に起因していた。しかも、米海軍砲艦パネイ号はロックフェラーの「スタンダード・オイル」のタンカーを、英海軍砲艦クリケット号とスカラブ号はロスチャイルド「ジャーディン・マセソン」の倉庫船を護衛航行中であった。

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中国国民党・蒋介石とその妻・宋美齢、アメリカ陸軍准将スティルウェル、1937年頃

[1937年6月の、蒋介石の妻・宋美齢の要請に応じた米空軍「義勇部隊」(「フライング・タイガース」_日米戦争開戦後の1941年設立、と「公称」)の設立とともに、再三の「中立法」違反]

■南京安全区国際委員会会長ジョン・ラーべ_ドイツの武器商「ジーメンス」南京所長(孫文のころからソ連の政治顧問・軍官学校教官を受け入れていた国民党は、1928年からドイツ軍の軍事顧問団を招聘して兵士の訓練、トーチカの構築など軍の「近代化」を任せていた)[ドイツのヴェルサイユ条約違反、日独伊三国同盟違反]と、

本 Eyewitnesses to Massacre

米国人宣教師たち_国際委員会秘書ルイス・S・C・スマイスジョン・G・マギー牧師、南京大学教授マイナー・シャール・ベイツ、医師ロバート・O・ウィルソン、南京大学病院理事ジェイムズ・H・マッカラム、YMCA書記ジョージ・A・フィッチ、金陵女子文理学院教授ミニー・ヴォートリンら_は、市民になりすまして[国際法違反の「便衣兵」]安全区に潜んだ国民党軍宣伝工作部隊の中国人が持ち込む「日本軍の悪行」を検証もせずそのまま『南京安全区国際委員会報告書』にまとめ、随時日本大使館へ抗議を行うほか、上海にいる国民党宣伝工作員『New York Times』ティルマン・ダ―ディン『What War Means』著者ハロルド・ティンパーリーなどへ資料として抗議文書を回送、また家族や友人たちへの手紙で「南京の悲惨な状況」を訴えたりしていた。

「[1936年12月の「西安事件」の時]南京の米国人YMCA書記[フィッチ]は、南京放送で『蒋介石は共産党軍に殺された』『西安は共産党軍に占領され、略奪・強姦事件が多発している』などという[国民党を利する、反共産党の]荒唐無稽な捏造報告をおこなっていた」と、「ゾルゲ事件」の時、尾崎秀実とは深い関係にあったコミンテルン・スパイで、当時毛沢東の共産党・八路(パーロ)軍と行動を共にし、西安事件の現場にもいたドイツ『フランクフルターツァイトゥング』紙の特派員アグネス・スメドレーは、1943年の自著『Battle Hymn of China』に書いた。

スメドレーはまた、「あまりにも多数の八路軍兵士が[プロパガンダ工作のため]日本兵の軍服を着ている」と1937年12月5日のジャーナルに書き込んだ。(『China Fights Back』London Victor Gollancz, 1938)

NYT 4 JAN 1938 B

「元中国軍将校らが米国人の難民キャンプに:大佐とその部下達 南京での犯罪を日本軍のせいにしていたと白状」

「南京に留まって国際難民救済委員会を結成していた米国人大学教授達には非常に不面目なことに、彼ら自身の難民キャンプに敗軍の将校とその6人の部下を匿っていたことが発覚。」「しかも、あろうことかその大佐を、難民キャンプの幹部に据えていた。」「彼らは南京防衛戦で退却の際、軍服を捨て去り、大学構内に潜伏していた。」「彼らは、日本軍の掃討部隊に、建物内に隠匿した6丁のライフルと5丁の回転式拳銃、砲台から外した機関銃と弾薬を発見された後、自分たちの真の身元を白状した。」「これらの元中国軍将兵たちは、南京で略奪を働いたこと、そして或る夜、難民キャンプから女の子達を暗闇に引き摺り込み、翌日この暴行を日本軍のせいにしたことを、米国人をはじめとする外国人の面前で告白した」「この元将兵たちは逮捕された。そして軍法会議にかけられ、おそらくは処刑されることであろう。」(『New York Times』1938年1月4日付け、拙訳:ブログ筆者)

南京 ヒスイ勲章

特に「活躍」したベイツとヴォートリンは、そのプロパガンダ工作員としての功績を讃えられ、南京陥落の翌年、国民党・蒋介石から「秘密裏に」ヒスイ勲章を授与されていた

(『American Goddess at the Rape of Nanking』掲載の左写真のキャプションに「1938年7月、国民党政府からミニーに、秘密裡に授与されたヒスイ勲章『The Order of Jade』、写真撮影Dr. Chia-lun Hu 」とある)

2.南京の人口「20万人」は、南京陥落後2週間で「25万人」に、1年後には「40万人」に増加していた

本 ラーベ日記

1937年11月28日(日本軍の南京城外到達は12月10日)、南京警察長官王固磐(ワン・コーパン)が「南京には[貧乏で他市へ疎開することもできなかった]中国人難民が20万人残っている」と繰り返し発表している、と国際委員会会長で「名誉市長」のジョン・ラーべが日記に書く。そして、ラーベは「13日に[日本軍により]南京が陥落した時点で、我々[安全区国際委員会]は殆ど全ての市民[20万人]を、日本軍の爆撃で殆ど損傷の無かった安全区に、集めていた」と、1937年12月17日付日本大使館宛ての手紙に書いた。

1938年1月14日の外交官補・福田篤泰に宛てた手紙では、ラーベは「[1937年のクリスマス前後に始まった]日本軍の中国人難民への『良民証』登録・発行により、南京在住の中国人難民の数は25~30万人となった」と書いた。

また、東京裁判では1946年8月29日、「南京大虐殺」に関する審議において、被告側弁護人レヴィンが、ウェッブ裁判長に対し南京で30万人が殺されたという証言があるが、当時の南京には20万人しかいなかったはずであります」と質し、ウェッブが慌てて「あなたはその証拠を持っているかもしれないが、今はそれを提出する時ではない」と退ける一幕があった。「その証拠を提出する」機会は、決して訪れることはなかったが………。

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(p. 4,551,  “The Tokyo Major War Crimes Trial: the Transcripts of the Court Proceedings of the International Military Tribunal for the Far East” Edited by R. John Pritchard)

「[1937年12月13日の]陥落当時25万人だった南京の人口も、今では40万人に増えた。[………]最近の帰還者は主に市外への避難者だ。(戦場となる)南京市から安全を求めて避難したにも拘らず、匪賊が過酷な取り立てを行う不安定な僻地で、お金を(そして多くの場合は着る物も)使い切ってしまったのだ。」_マイナー・シャール・ベイツ、1938年11月29日付の「友人への手紙」、『Eyewitnesses of Massacre』p.44

日本軍占領下の南京は、陥落から数か月で、わずか1600人の日本軍によりインフラも復旧され、商売するにも安全であったから、「良民証」を保持した中国人市民と、婦女子を含む600人の日本人居留民の、南京城内外の自由な往来があった。

そして何より、中国の良民は、「清野作戦」「三光作戦」など、匪賊同然の無法を同胞に働く中国軍をむしろ恐れ、正しい規律と軍隊としての頼もしい強さで、それらから守ってくれる日本軍を、慕っていた。

「何人かの中国人は、『略奪・強姦・放火は中国軍がやったのであって、日本軍ではない』と証明する準備がある、とまで言っている」時々、我々(外国人)は狂人や白痴を相手にしているのかと思うことがある……」_ジェイムズ・H・マッカラム、1938年1月9日、『Eyewitnesses of Massacre』p.238

3.南京国際委員会の外国人の誰も、日本軍の「不法殺害」を一件たりとも目撃していない

東京裁判で、国際委員会/南京国際赤十字会会長のマギー牧師は、自分自身で目撃した「日本兵による中国人の殺害」は、「日本兵の誰何に答えず、脱兎のごとく逃げ出した男が撃たれた」という、「戦場では当たり前の、合法的殺害」ただ一件である、と証言した。(Pritchard 前掲書、p.3,929)

南京安全区報告書も、国際委員会クルーガーとハッツが目撃した「日本軍による便衣兵の合法的処刑」(第185件)以外は全てが伝聞であり、しかも、たった数件の例外を除いた殆ど全ての報告は「検証すらしていない、また聞き」であると告白している。(『Documents of the Rape of Nanking』p.78)

4.東京裁判は、[南京大虐殺を]命令・認可・許可したという「訴因54」では、中支那方面軍司令官・松井石根大将を不起訴にするほかなかった

そのかわり、「戦時国際法の徹底遵守・違反行為の防止義務の無視」という「訴因55」ただひとつで、松井大将を死刑にした。(他の殆どの被告が有罪とされた「連合国・各国への侵略謀議」の全てでも、不起訴となった)

「妊婦を強姦してその腹を銃剣で裂き、胎児を引きずり出して空に放り投げ、それを銃剣で突き刺せるかを競うゲームに、皆で興じた」などという荒唐無稽なエピソードが満載の連合国版「南京大虐殺」は、司令官の命令なしに、一般の日本軍将兵=普通の日本人が、暴走して起こした、と東京裁判が判定し、世界は今もそれを「正しい歴史認識」として信じている。

(詳しくは、拙ブログ別稿「『南京大虐殺』の虚構」の完全証明をご覧ください)

「〔東京裁判の〕多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」_________東京裁判オランダ判事B・V・A・レーリンク、1948年7月6日、友人の外交官への手紙

ロスチャイルド国際連合の「日本と世界の諸国民に対する政治プロパガンダ・洗脳装置」に過ぎなかった東京裁判は、国際法史・人類史の汚点である

【東京裁判は、日本の「中国侵略」も証明していなかった】

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奉天の張作霖爆殺事件直後の現場検証

満州事変の発端といわれる「張作霖爆殺事件」(1928年6月4日)と「柳条湖事件」(1931年9月18日)も、支那事変の発端「盧溝橋事件」(1937年7月7日)も、その前年の「西安事件」(1936年12月12日、国民党・蒋介石を、父親を殺そうとしていたという話もある張作霖の息子・張学良と共産党が拉致監禁、「国共合作」を強要)も、全て国際共産主義者・コミンテルンがその謀略の中心であったことが明らかになっている。

そもそも、1927年3月24日、蒋介石らの国民革命軍が南京の外国領事館などを襲撃した「南京事件」も、コミンテルンのミハイル・ボロディンが主導したものであった。孫文、蒋介石による国民党「北伐」は中国共産党を「討伐」しての中国統一が目的のはずであったが、1928年に始まる「第二次北伐」は、ソ連のヴァシリー・ブリュヘルの下で計画されるなど、「世間知らず」の日本にとっては、「欧州情勢」のみならず、中国情勢も十分に「奇々怪々」であった。

日本が「侵略戦争」を始めるまでもなく、中国は既に、国民党、共産党、軍閥、匪賊にソ連・コミンテルンと麻薬・鉄道利権に群がる米英ロスチャイルド連合が入り乱れて、路傍に死体が転がっているのが日常の、前世紀から続く血生臭い時代の中にあった。

誰が誰の「敵」か「味方」かは関係ない_誰もがロスチャイルドの銀行に金を借りて戦争をしていた_武器、工業資源、麻薬_世界のどこでもそうであるように、中国で商売をするものが、中国ロスチャイルド連合を通さずに商売をすることは不可能であった

「5.15事件」(1932年)「2.26事件」(1936年)は、ドイツのヒトラー・ナチス台頭と同様、日本に「ファシズム台頭」の「前科」を与えるためにロスチャイルド戦争金融がバックについた、ロスチャイルド作「世界戦争の世紀」の二つのエピソードに過ぎなかった

近衛文麿と吉田茂は、コミンテルン・スパイ尾崎秀実の明らかな外患誘致「ゾルゲ事件」に、コミンテルンとロスチャイルドの両側から深く加担していたから、近衛・吉田の「昭和維新」実行委員会、ロスチャイルド連合「ヨハンセン・グループ[ヨシダの反戦グループ_特高警察が命名]」に火の粉をふりかける可能性のある「外患誘致」が適用されないまま、1944年11月7日、尾崎は、治安維持法などの罪状でリヒャルト・ゾルゲとともに主犯格で死刑となった。(近衛の「華族仲間」で尾崎秀実同様の近衛内閣嘱託であった西園寺公一は逮捕され、懲役1年6か月、執行猶予2年の判決を受け、保釈されるも公爵家廃嫡となった。同事件の他の懲役受刑者たちは、1945年コミンテルンGHQによって釈放されている。)

コミンテルン近衛とロスチャイルド吉田は「共作」の「近衛上奏文」で、「悪いのは国際共産主義者」と昭和天皇に「言い逃れ」の上奏をした。

日本の保守も左翼も、同じ「ロスチャイルド穴のムジナ」であった

『日本国憲法』は、ロスチャイルドの国際連盟設立のために「14か条の平和原則」を書いたルイス・ブランダイスの弟子、GHQ民政局次長チャールズ・ケーディスが指揮して起草され、ロスチャイルドの忠実な下僕・吉田茂によって世に出された

日本国憲法公布原本

【『日本国憲法』の真の機能】

『日本国憲法』の制定そのものが、日本の憲法制定権力=国家主権の簒奪 [ワイマール憲法を停止させ、ヒトラー・ナチスに無制限の立法権を与えた「全権委任法」同様の、大日本帝国憲法停止=「立憲政治」「『御前会議』のある議会制民主主義」の抹殺と、ロスチャイルド国際連合人事の自民党「戦後55年体制」「戦後レジーム」独裁体制の基礎を確立]

「象徴天皇」による、天皇の国家権力のチェック機能=「至高の権威」を補完する不裁可権力・拒否大権の簒奪

「国民主権」による、天皇の統治権の簒奪[国体の改変]と、天皇の権威の矮小化[天皇を、ロスチャイルドが統制する内閣の下に置いて「偽りの主権者=国民」とその代表者「国会」ともども支配する]

「第88条」による、天皇の「禁治産者」_[日銀の株の半分を含む天皇の私有財産を、ロスチャイルド内閣の管理下に置く_天皇の非権力化

「第9条」による、日本の「国家防衛の権利と義務」=主権の放棄

「前文」による、東京裁判史観(ロスチャイルド国際連合史観)の踏襲と、ロスチャイルド国際連合への永遠の隷従の宣言_[ロスチャイルド「新世界秩序」下の国際社会―米英仏ロ中―に日本国民の生殺与奪の権を与える_日本民族の名誉・尊厳・誇り・基本的人権を蹂躙]

日本は、卑怯卑屈な『日本国憲法』を最高法規として戴くことで、主権国家であることをやめ、ロスチャイルド国際連合の「植民地奴隷」となった

偽憲法『日本国憲法』を「憲法」としていただくことの真の意味を知りながら、吉田茂はロスチャイルド国際連合から恥知らずな「偽憲法」をうやうやしく承り、それを日本国民に押し付けた。

吉田茂は、『日本国憲法』を、国際法(1907年ハーグ陸戦法規)違反、大日本帝国憲法違反の不法な「占領統治法」「日本に主権と独立を放棄させる『国家転覆法』」である、と告発し、『日本国憲法』の無効確認・廃棄と、同時に大日本帝国憲法の現存確認で、日本の主権と独立、名誉と尊厳、民族の誇りを回復すべきであった講和条約締結時に、それを「故意に」しなかった


◆真珠湾攻撃を「卑怯撃ち」の「(侵略戦争の)第一撃」にした、外務省の故意の「宣戦布告」手交遅延

◆日本を植民地奴隷化した『日本国憲法』の制定と、その邪な正体を隠蔽しながらの護持

◆日本全土基地化・日本全土治外法権化、統一指揮権で「完全植民地化」を図った日米安全保障条約・協定密約

◆「新GHQ」として「戦後日本」をロスチャイルド国際連合に統制させる、ディロン・リード米国務省・国防総省の下部組織「日米合同委員会」設置提案


吉田茂が殆ど一人で遂行した「昭和維新」は、どんな極刑でも償わせることが不可能な、あまりに巨大な、現在・過去・未来の日本と日本国民への裏切りであった

「ジャーディン・マセソン」横浜支店を「庭」として幼年時代を過ごしたのち、「誰も知らない『昭和維新』」の志士となった吉田茂は、ロスチャイルドの明治維新の志士たち、実父・竹内綱と養父・吉田健三からロスチャイルドの金脈と人脈を相続した、「生え抜きのロスチャイルドの下僕」であった

吉田茂
吉田茂

■吉田茂は、「真珠湾の卑怯撃ち(対米英戦争の第一撃=対米英『侵略戦争』の開始)」が日本によってなされ、日本が「負けるとわかっている無謀な戦争」に飛び込んでいくよう、外務省待命大使として裏側から在米国大使館を指揮して工作した

日本軍の、物量における圧倒的不利をはねかえすための渾身の真珠湾奇襲攻撃を、「卑怯撃ち」にしてしまった「日米交渉打切り(事実上の宣戦布告)文書」の「米国務省への手交遅延」、その「A級戦犯」三人、「英語が苦手であったにも拘らず、フランクリン・D・ルーズベルトと旧知の仲であることで在米大使となった」野村吉三郎は戦後参議院議員を二期も務め、井口貞夫奥村勝蔵は1951年と1953年、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約締結の重要局面に、吉田茂によって外務官僚トップである外務次官に抜擢されている。奥村勝蔵は、通訳として、「天皇・マッカーサー元帥初会談」でも通訳に抜擢、古参官僚を尻目に何故か「たった一人で」同席した。井口貞夫は、講和条約交渉の際、ダレスと吉田の「窓口」を務め、西村熊雄ら他の外務省条約局スタッフが誰も知らない「裏の事情」を只一人知っていた。

■1950年5月_吉田茂は、側近・池田隼人大蔵大臣を米国務省へ派遣(所謂「池田ミッション」)し、GHQ経済顧問ジョゼフ・ドッジに秘密裡に「私信」を手交させ、「占領終了後」の「米軍の駐留」(=明白な「植民地」状態)を「日本が自ら、積極的に希望すること」「それを約した条約・協定[日米基地協定・日米地位協定・統一指揮権密約]の締結」「これらが『日本国憲法』に違反しないよう研究すること」を「”オファ”した(申し出た)」

「池田氏は、政府はできるだけ早い平和条約を願っているという吉田首相からのドッジあて次のような私信を持ってきた。そうした条約は、米軍の駐留条項を確保する必要があるから、もしアメリカ政府がそうした条件を提案することを躊躇するようであれば、日本政府が何らかの方法をみつけて提案してもよい〔と吉田は言っている〕。憲法の角度から研究して、そうした米軍基地を存続させるために、条約が必要であれば条約を結んでもよく、また基地の継続を申し出ても『日本国憲法』に違反しない、そうした条項は条約それ自身か別の協定でもよい、と」___________ジョゼフ・ドッジ報告書、1950年5月2日 主題 日本の池田大蔵大臣との平和条約に関する討議、機密(宛名なし)_Joseph N. Dodge, May 2, 1950. Subject: Discussion of Japanese Peace Treaty with Mr. Ikeda, Finance Minister of Japan. Top Secret. RG59, Office of Legal Advisor, Office Assistant Legal Advisor Eastern Affairs, Subject Country Files, 1941- 1962, Box 2)__末浪靖司『9条「解釈改憲」から密約まで 対米従属の正体 米公文書館からの報告』(日本語訳と〔 〕註、末浪靖司) 

■吉田茂は、「60%の日本国民が、『講和条約を結んで主権回復』後は(米軍が撤退し、日本の自前の軍隊で)再軍備を望んでいる」ことを示す、自ら実施した世論調査結果を握りつぶして、「日本国民は『日本国憲法』(9条)を大切に思っている(だから再軍備は出来ない。だから米軍の駐留継続は仕方がない)」という嘘をついて、「米国講和交渉団代表ダレスの再軍備の要求をはねつけた」(=「愛国的・平和的行動をとった」)とみせかけながら、その実、ロスチャイルド国際連合の「基地植民地化」を積極的に推進した

■吉田茂は、「日本全土米軍基地化・完全自由使用(=日本全土治外法権)」を確定する「事実上の植民地統治法」日米安全保障条約に、たった一人で(売国行為を隠蔽しながら)署名した

サンフランシスコ講和条約
サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂

「安保条約に対する第一の疑問は、これが平和条約のその日、わずか数時間後、吉田首相ひとりで調印されていることである。という意味は、半永久的に日本の運命を決すべき条約のお膳立てが、まだ主権を一部制限され、制限下にある日本政府、言葉を変えていえば手足の自由をなかばしばられた日本政府を相手に、したがって当然きわめて秘密裏にすっかり取り決められているのである。」

「いいかえれば、[日米安保条約は]決して独立国の条約ではない」

________________寺崎太郎(天皇の側近であった寺崎英成の兄で、1946年5月、第1次吉田内閣における外務次官)『寺崎太郎外交自伝』(私家版)


【明治維新の核心④】_「八紘一宇」の祭祀王・天皇がその「至高の権威」を以て任命する征夷大将軍・徳川将軍家が、「プリムス・インテル・パーレス_同輩中の第一等位」的に統率する、「失政の責任を取って切腹」「不適格な将軍・領主を家老衆合議の上『押し込め』」が有り得る封建諸侯の疑似「連邦制度」・江戸幕藩体制の転覆

ロスチャイルド国際金融カルテルが中央銀行を通じて国家を経済支配する、切腹どころか「国民への説明責任」すら持たない金融テクノクラートの密室独裁政治体制こそが、ロスチャイルドの「『通貨発行権』簒奪による世界金融侵略」の核心であった

  • 1952年4月27日_日米合同委員会が、対日講和条約、日米安保条約、日米行政協定(現・日米地位協定)発行に伴い、発足

日米合同委員会

[日米合同委員会] 〔本会議 米国代表〕在日米軍司令部副司令官、〔代表代理〕在日米大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海軍司令部参謀長、在日米兵隊基地司令部参謀長

〔本会議 日本代表〕外務省北米局長、〔代表代理〕法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米局参事官、財務省大臣官房審議官

議事録完全非公開の秘密会議「日米合同委員会」で、在日米軍「副」司令官が、外務省「北米局長」をトップとする日本の官僚たちにディロン・リード米国務省・米国防総省の「上意」を「下達」する

「日米合同委員会の公式議事録は、日米両政府に属する公式文書として、見做され、日米双方の合意がない限り公表されない。合同委員会の会合や活動に関するプレス・リリースも、日米双方の合意がない限り発表されない」________在日米軍司令部内部文書『合同委員会と分科委員会』

「新GHQ」日米合同委員会の決定は、天皇と日本国民が隷従させられている日本の最高法規『日本国憲法』に優先する

「協議」「合意」と言いながらその実態は、秘密会議で米軍が「要求」し、「憲法をも超越する会議に所属する自分」の姿に自己陶酔した日本官僚が嬉々として従い、「日本全土米軍基地・治外法権化」等、『日本国憲法』と、国会で正規に成立した日本の全ての法律に優先する「合意事項」=「密約」を乱発している

■日米合同委員会が、官僚の「長」であるはずの行政府・内閣の上位にある

■「戦後」日本の総理大臣、最高裁長官、検事総長は、米国務省・米国防総省が選んでいる

  • 軍隊のシビリアン・コントロール
  • 国民が政治意思を託して選出した国会議員による、公開される国会における立法
  • 国民が正しく政治判断をする為の、十分な情報の開示
  • 政策決定過程の全てを建設的批判にさらす可視性・透明性

明治維新でロスチャイルドが規制した、健全な民主主義の発展に必要なものを、「戦後」日本はロスチャイルド国際連合によって完全に奪われた。

「国民への説明責任」を持たないロスチャイルド国際銀行金融連合の日本銀行「政策委員会」が経済面で、ロスチャイルド国際金融軍産複合体の在日米軍=米国防総省・米国務省「日米合同委員会」が軍事面で、「戦後」日本の政治・外交権力を統制・支配している

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ディロン・リード会長クラレンス・ダグラス・ディロン

日本を事実上の「米国の基地植民地」とし、日本が主権と独立を喪失することと同義である「日本全土治外法権」を米軍に与える日米安全保障条約は、ディロン・リード社長ジェイムズ・フォレスタル米国防長官と、占領軍経済政策最終決定権を持っていた同社副社長ウィリアム・ドレイパー陸軍次官が書いた

対日講和条約交渉の米国側代表であり、『国連憲章』起草者の一人であるジョン・F・ダレスの下で働いていたディロン・リード会長クラレンス・ダグラス・ディロン(1959年から国務次官、財務長官を歴任)が、自衛隊(警察予備隊、保安隊)発足前後に米国の軍事産業要人を引き連れて来日し、三菱重工などディロン・リードが解体中止させ再編成した日本の軍事産業を、米国ロスチャイルド連合に統合した。

クラレンス・ダグラス・ディロンはまた、株式会社「日本技術生産協力会」(後に「日本兵器工業会」_1988年に解散後は社団法人「日本防衛装備工業会」)を設立、戦後日本の兵器・軍需装備品の生産・販売・購入がディロン・リードを通して行われるシステムを構築した。


ロスチャイルド国際金融連合の「日本占領」を以て、「全世界の敵・悪の枢軸ファシズム国家ドイツ・日本・イタリアとの戦争に勝利した『連合国』即ちロスチャイルド国際金融連合のフロント組織『国連』が、『世界統一政府』的・世界の指導者的立場に立ち、世界の諸国から『拠出金』という税金を吸い上げながら、『東西冷戦体制』『対テロ戦争体制』の舵取りをする(=世界戦争経済で儲ける)ことの正当性・正統性」が捏造された

「東京裁判史観」とは、ロスチャイルド国際金融連合の世界戦争経済支配に「正義の国連」という「化けの皮」を着せるために為された日本への誣告である

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真珠湾で日本軍に撃沈される米海軍艦ミズーリ号

日本は中国・米国を侵略していない

日本では通常「侵略戦争」と呼ばれる、国際法における「War of Aggression」とは、「正当防衛によらず、領土の獲得や他国民の支配を目的とし、『自発的に』起こした戦争」のことである。中国とソ連の国際共産主義者・赤軍の度重なる挑発で始まった満州事変や支那事変、ルーズベルトの謀略の「ABCD包囲網」__数千万人の失業者が発生すると予測された石油・屑鉄などの禁輸等、米国務長官ケロッグも「戦争行為」と呼んだ経済制裁__で撃たされた「真珠湾への第1撃」、それを「卑怯撃ち」にして米国民の怒りを煽った吉田外務省の「日米交渉打切り文書(宣戦布告)の故意の手交遅延」で始まった「太平洋戦争」は、断じて侵略戦争ではない。

「共同謀議」で裁かれるべきは、ロスチャイルド国際連合の方であった

(拙ブログ別稿「原爆と真珠湾:あの戦争の真実を、オバマ広島演説の自己欺瞞が覆い隠している」をご覧ください)

「[……]日本は産品が、蚕を除いてほとんど何もありません。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じるであろうことを、日本は恐れていました。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした____ダグラス・マッカーサー元帥、総司令官解任後の1951年5月3日から開催された米国上院議会「軍事外交共同委員会」における証言

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日本軍将兵を追いかけて川を渡る慰安婦  (日本の慰安婦 wikipedia)

戦場慰安婦は「性奴隷」などではなく、「強制連行」など無かった

朝鮮での女性の月給が20円だった時代に、「月収300円以上」の戦場慰安婦(生活のため「醜業」に従事した職業婦人)は、新聞広告や口コミで応募者が殺到、大がかりな軍事行動を伴う「強制連行」など、必要も意味も全くなかった

本 Moon Oku-chu Ianfu Book

軍票でもらえる給料のほか、宴会などでもらったチップ(現金)を戦地郵便貯金に貯め、ほんの数年でダイヤモンドやワニ革バッグを買ったり、東京に家が5・6軒建てられるほども稼いだ、文玉珠の例もある。文玉珠は、酔って日本刀で切り掛かってきた客の日本兵を、逆に刺し殺してしまったが、軍法会議で「正当防衛」が認められ、無罪放免となり、馴染み客の日本兵たちから「よかったな」と喜んでもらっていた。それのどこが「性奴隷」なのか?

(拙ブログ別稿「「慰安婦『強制連行・性奴隷』説」は完全に破綻している__慰安婦には「職業選択・廃業・外出・外泊の自由」があった。__唯一客観的に検証された朝鮮人元慰安婦・文玉珠の体験記を精読する①」をご覧ください)


日本の主権の放棄を意味する『日本国憲法』と日米安保条約のそもそもの根拠とされた、独り日本を「悪玉」扱いする東京裁判史観「南京大虐殺」「中国侵略」と「慰安婦=性奴隷」の誣告は、ロスチャイルド国際連合による原爆投下を正当化すると同時に、日本と世界の国民を思考停止させ、「戦争の総括」「貧困・格差の原因究明」がなされることを阻止して、戦争金融サギ・グローバリズム帝国主義「新世界秩序」による全人類奴隷支配という、ロスチャイルドが問われるべき「世界平和と人道に対する罪」を隠蔽している

少し調べればわかることを調べもせず、日本人は自分達の祖父を、父を、兄を、「侵略者」「虐殺者」「強姦魔」と決めつけて、無実を信じてあげることも、それを証明する努力も、怠ってきた。

日本国民は、『日本国憲法』が、私達の祖父、父への冤罪を根拠に制定された事実、『日本国憲法』を「憲法」として戴くことで、私たち自身を「永遠に更生不可能な前科者」としてなぶり続けているのだ、という事実から目を背けたまま、70年余も過ごしてしまった。

日本人の思考停止は、しかし、世界の諸国民にも思考停止をもたらした。特に100万もの無辜の民を殺害した原爆投下や東京大空襲など全国無差別焼夷弾爆撃の是非を今も問い続けるアメリカ合衆国の国民にとっては、欺瞞のロスチャイルド国際連合史観の蔓延は、むしろ歪んだ「戦争贖罪認識」となって、日本同様にその国民精神を蝕むことになった。

「日本人は第二次世界大戦時に『中国侵略』『南京大虐殺』をしたのだから、原爆を落とされても仕方がない。(それにくらべたら、日本兵の頭蓋骨を置物として故郷で待つガールフレンドに贈るのくらい、可愛いものじゃないか!)」(http://time.com/3880997/young-woman-with-jap-skull-portrait-of-a-grisly-wwii-memento/)

「日本人は『20~41万人』の朝鮮人、中国人、フィリピン人などアジア各国及びオランダの女性・少女を拉致して性奴隷にしたのだから、北朝鮮が数人の日本人を拉致したことを非難する資格はない」(https://en.wikipedia.org/wiki/Comfort_women)

戦争の真実を知らなければ、戦争を総括することは出来ない。総括なしには、真の反省もあり得ない。戦争を始めたのは、本当は誰なのか。その目的は何だったのか。その真実を知って初めて、戦争を永遠に、本当に、「放棄」することへの第一歩が踏み出せる

(以下、「『日本国憲法』無効確認が世界から戦争と貧困を根絶する[総合版4/5]」に続きます

ロスチャイルドの「通貨発行権」統制により、日本と世界の庶民は「新世界秩序」カーストの「無自覚の債務奴隷」にされた__『日本国憲法』無効確認で世界から戦争と貧困を根絶する[総合版1/5]

FRB設立・世界金融大恐慌からナチス台頭、原爆投下と日本の敗北・占領、東西冷戦を経て対テロ戦争へ………「世界戦争の世紀」のシナリオはロスチャイルドが書いた___『日本国憲法』無効確認が世界から戦争と貧困を根絶する[総合版2/5]

を既読でない方は、こちらからどうぞ)

フィリピン人「元慰安婦」の語る「性奴隷(?)生活」……「見張り」の日本兵は一人だけ、そしていつも慰安婦の代わりに四つん這いになって床をゴシゴシ掃除してくれた……。

マリア・ロサ・へンソン “Comfort Woman: A Filipina’s Story of Prostitution and Slavery Under the Japanese Military” を読む

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兵隊さん達が毎朝の体操の時いつも「見よ東海の空明けて!」と叫んだとか、終了後には「万歳三唱」したとか、またヘンソンさんが「強制連行」されたのち無理やり「慰安婦」にさせられたという「慰安所」が「日本軍司令部の2階」にあったとか、少々不思議な記述にも出くわすが、まっさらな気持ちで読めば、1943年当時のフィリピンでの慰安所の様子がわかって興味深い。

ヘンソンさんは当時、フィリピン最大級の反日共産ゲリラ、「フク」の一員として医薬品や武器・弾薬を密輸送する役目を果たしていた。ヘンソンさんの村は丸ごとゲリラ或いは親ゲリラであり、「フク」のリーダーはヘンソンさんの母親の従兄弟であった。へンソンさんは1943年4月、 (「知らずに」とへンソンさんは言うが) トウモロコシの袋に隠した銃や弾丸を牛車に乗せて、ゲリラのアジトに運んでいて日本軍の検問に引っかかった。

へンソンさんは「検問は無事パスしたかに見えたが、呼びとめられて一緒にいた男の人は帰され、私だけ日本軍の『司令部』に連れて行かれた」という。

「尋問された」「拷問された」とへンソンさんは言うが、ゲリラの疑いをかけられていたのならそれは当然尋問するだろう。「拷問」「強姦」に関しては、日本軍に敵対していた共産ゲリラであるから、共産主義者の常套手段である「プロパガンダ」の線は常に疑ってかからなければならない。

とにもかくにも、このケースを「強制連行」「集団強姦」「性奴隷」として見ようとするには、矛盾が多過ぎる。例えば、

  • へンソンさんは「司令部の2階」で「午後2時から10時まで」「外で順番待ちする兵隊に」「強姦された」といっているが、毎回終了後は「熱いお湯で局所を洗い」「毎週水曜日に日本人軍医が検診に来た」「時々はフィリピン人の医者も来た」「生理の時には4・5日休みをもらえた」とも言っている。
  • 食事は一日三食。ご飯と黒豆、たくあん。時々茹で卵。小さなフライド・チキンがつくこともあった。時々黒砂糖の塊がもらえた。「私はそれをキャンディのようにしゃぶったり、ご飯にまぜたりした。すごくうれしかった。私はそれを自分の部屋に取っておいた」
  • 「見張りの兵隊」は「私達が欲しい時はいつでもお茶を持ってきてくれた」「お茶で顔を洗うとすべすべになるよと教えてくれた」「彼は(そこにいた7人の)全ての女達に優しかった」「朝食後はいつも部屋の掃除をしたが、彼は時々手伝ってくれた。ベッドをきれいに直し、床を消毒薬でゴシゴシ拭いてくれた。」
  • 新しく来た「タナカ大尉」はへンソンさんに「2年前フォート・マッキンリーで会ったことがあった」(慰安所か?だがへンソンさんは「2年前に『強姦された』人だ」という)「前に会ったことがあったね」といって、「タナカ大尉」はへンソンさんに優しくしてくれた。よく話すようになり、へンソンさんを「バラ(ロサ)」と呼んだ。病気になった時には自分の部屋にへンソンさんを寝かせ、薬を飲ませてくれた。上司の大佐がそれを知り、その日は休んでよいと言ってくれた。

「タナカ大尉」はへンソンさんに日本語も教えてくれ、とても優しかった。へンソンさんはその後自分の娘や孫にも「タナカ大尉」の話をした。彼女らはへンソンさんの事を本名のロラ・ロサでなく「ロラ・バラ」と呼んだ。どうみてもロマンティックな関係だったとしか思えない。

その「タナカ大尉」もある日の朝(営業時間外に)へンソンさんを急に抱き締め、「レイプ」し、「ありがとう」と言って去った。この描写はまるで恋人同士の逢引のようだが、へンソンさんは「レイプ」だったと強調する。

ヘンソンさんの母の、金持ちの地主ドン・ぺぺによる強姦被害、その結果としてのヘンソンさんの私生児としての辛い少女時代はこの上なく悲惨な身の上だ。日本兵に輪姦されたのも気の毒だ(本当なら)。

しかし、副題 [A Filipina’s Story of Prostitution] がいみじくも言うように、「慰安所」での体験はヘンソンさんが言うような「強姦」ではなく、「売春」だったのではないか?

1945年に、同じ共産ゲリラであり、その父も共産ゲリラで日本軍に殺されたというドミンゴから結婚の申し込みを受けたとき、日本兵に「強姦」されたことは打ち明けても「慰安婦」になったことだけはどうしても言いたくなかったのは、そのせいではないだろうか?

「セカンド・レイプ」だと非難されそうだが、これだけ不審な点が揃えば、鵜呑みにする前にまず検証してみるべき、と主張することは常識の範囲であろう。

ちなみにこの本が出版される2年前ヘンソンさんは民間支援団体から一時金として百万円もらっているが、そのことに言及はない。

この本の前書きを、南京大虐殺ものや「日本軍の太平洋戦争における悪行」ものでも有名なYuki Tanaka氏が書いている。へンソンさんのこの本はマニラを本拠地とするNGOのAsian Women Human Rights Councilや、Task Force on Filipino Comfort Womenなど左翼活動家集団の支援によって作られた。

慰安婦の強制連行・性奴隷状態を証明し、旧日本軍の罪を裁くのなら、彼らはまず「被害者の言うことは100%正しい」「検証の必要もない」という思い込みを捨て、へンソンさんの供述が完全に正しいことを証明しなければならない。

(2016年10月10日編集)

「慰安婦『強制連行・性奴隷』説」は完全に破綻している__慰安婦には「職業選択・廃業・外出・外泊の自由」があった。__唯一客観的に検証された朝鮮人元慰安婦・文玉珠の体験記を精読する①

慰安婦募集記事 良

「慰安婦急遽大募集」「『軍』慰安婦急募」

この募集広告をみて「カフェのウェイトレスの仕事だ」と勘違いするほど世間知らずの女性は、そうはいないだろう。なにしろ約束された給料は「月収三〇〇円以上(前借三〇〇〇円許可)」、朝鮮半島では女性の月収20円の時代に、である。(右側写真『京城日報』1944年7月26日付広告)

日本では公娼制があり(1958年全面廃止)、旱魃等に見舞われた貧しい農村部での娘達の「親孝行」の手段としての身売りは珍しいことではなかった。

ビルマ戦線楯師団の慰安婦だった私大東亜戦争当時、大日本帝国の一部であった朝鮮半島、大邱出身の文玉珠(ムン・オクチュ)も、両親が両班(ヤンバン、李氏朝鮮の貴族・支配階級)ながら、父が亡くなった後の食うや食わずの貧乏暮しに耐えかね、子供時代から「キーセン(妓生)になって、歌や踊りをじょうずにすれば金持ちになれる」と考えていた。「そのころは、女が金を稼ごうと思ったら、家業を手伝うか、このキーセンになるか、それとも身を売る女郎になるくらいしか方法はなかった」からである。

金を稼ぐため」、文玉珠は年若い時から3度、母親にも内緒で故郷を離れ働きに出ている。

文玉珠の「ビルマ戦線楯師団の『慰安婦』だった私」は、河野談話の根拠となった元慰安婦たちの証言の中で、唯一客観的検証がなされている、希少で詳細な、重要証言である。

文玉珠を1992年から3年半インタビューした森川万智子は、ビルマでの現地調査で、オクチュが「慰安婦として属していた」楯師団及び慰安所「オトメ」を知る、現地人協力者(通訳)のウ・サンぺ氏や朝鮮人慰安所経営者朴氏の証言などから、文玉珠の証言の裏付けをとった。

この資料こそを、外務省は「慰安婦合意」の際提示すべきであった。

何の検証もされていない北朝鮮の「元慰安婦」の、「日本兵は強姦して殺した慰安婦を煮て食べた」などと言う荒唐無稽な証言や、それに全面的に依拠して書かれた『クマラスワミ報告』をきちんと否定せず、「性奴隷」「強制連行」を国際社会に定着させた「日韓慰安婦合意」は、日本軍将兵と日本の名誉を棄損し、日本人全ての人権を侵害している。

以下は「ビルマ戦線楯師団の『慰安婦』だった私」から抜粋した、文玉珠の三度の「慰安所」体験の顛末である。

日本軍の「強制連行」「性奴隷」の罪の挙証たりうるか、よく考えながら読んでほしい。

1.朝鮮人夫婦に「学校に行かせる」「嫁に出す」と言われて大牟田で「子守に」

  • 一度目は12歳のとき。九州の大牟田で料理屋をしているという朝鮮人夫婦が家に訪ねてきて「商売が繁盛していて人手が足りない。子守に来てくれれば学校にもやってゆくゆくは自分の家から嫁にも出してやる」と申し出た。母は「行くな」とだけ言った。オクチュは「食べるものも満足に無い家にいるのはごめんだった」ので、釜山の役所に一人で行って「大人びた言葉遣いをして」年上に見せてまで、日本行きの許可を貰った。結局そこは、日本人経営の遊郭街にある、唯一つの朝鮮人経営の、日本人の芸者が来て働く売春宿であると判明。13歳のとき、何年か後には自分も身を売らされると知って貯金を持って逃げて帰る。

2.日本人と朝鮮人の憲兵二人と朝鮮人の刑事に道で呼び止められてそのまま満州へ

  • 二度目は16歳のとき。歩いて20分のところにある朝鮮人の友人アライハルコの家に遊びに行った帰りに、日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事に「ちょっとこい」と呼びとめられ、憲兵の詰め所に連れて行かれる。事務所の椅子に座らされ「住所、名前、家族」の事を聞かれた。刑事達はあちこちに電話していた。そのまま椅子に座ってうたた寝しながら夜を明かした。翌朝もう一人の朝鮮人少女と共に汽車に乗せられ、丸三日かかって満州北部の東安省(トアンショウ)へ。中国側国境の安東(アンドン)ではパスポートもなかったが、「見張り」の日本人憲兵と朝鮮人刑事、中国人警官が話をつけ、何事もなく通過できた。朝鮮人の主人のいる「グンポール」という名の「慰安所」に着き、オクチュと同じく朝鮮・大邱からきた20人ほどの女達と日本兵相手の「慰安婦」に。17歳になり、煙草を吸い酒を飲むようになり、心が荒んでいく。オクチュを特別に可愛がってくれている、帰省許可証明書を発行する権限を持つ憲兵に「母が病気だから大邱に帰って看病したい」と嘘をつき、証明書を発行してもらう。肺病を病んだ二人と仮病を使った一人と4人で列車に乗った。「兵士に貰った天皇陛下の菊のマーク付きの煙草をふかし、大声ではしゃいで笑いながら」旅していると、憲兵がしょっちゅう見回りに来る。仮病の女はばれて連れ戻された。安東(アンドン)あたりでオクチュも逃亡を疑われ詰め所に連れて行かれるが、「目の澄んだ」若い日本人憲兵が自分の家に連れ帰り、1週間一緒に過ごすことで見逃してくれた。

3.満州の慰安所で一緒に働いた友達の朝鮮人姉妹に誘われてビルマに

  • 三度目は18歳のとき。普通は3年かかるキーセン学校を1年半で修了し、お座敷やヌードモデルを経験したのち、「トアンショウのグンポールで働いたときの友達で、その時は近所に住んでいた」朝鮮人・ヒトミとキファの姉妹が「日本軍の食堂に働きに行こうよ、金もうけができるよ」と誘いに来たのだ。「その頃は、朝鮮人もみんな先を争って軍属になりたがっていた。」「軍隊の食堂で給仕か皿洗いをすれば、決まった収入があって、母に少しは仕送りできるかもしれない。キーセンよりは絶対に堅実な仕事だ。」「二日後、母には言わず、ヒトミとキファと三人で列車で釜山に向かった。いえば反対されるにきまっている。」指定された旅館に行ってみると、トアンショウで一緒だった別の二人の友達、アキミとヒフミがいた。奇遇を喜び合った。顔見知りのマツモトという朝鮮人の男と60歳過ぎの朝鮮人の男とその甥の三人が引率をした。1942年7月10日、釜山の軍専用の岸壁から150人から200人ほどの娘達(15~20人くらいに一人か二人、マツモトのような中年男がついていた)と、他に商売人のような朝鮮人の男女数十人、日本の娘5,6人、軍人6人と一緒に南洋へ向かった。船酔いに苦しむ他の女達を助けながら台湾(台湾バナナを初めて買って食べる)、シンガポール(3,4時間上陸して辺りを見学)からビルマ・ラングーンへ着いたのは2カ月後。オクチュ達マツモト・グループはマンダレーへ行くことにくじ引きで決まり、兵隊の運転するトラックで将校1人、下士官1人とともに移動。マンダレーでは庭付きの、高床式の大きな木造民家。翌朝軍人たちが大工道具を持ってきて「アッと言う間に器用に」大きな部屋を半分に仕切って部屋数を多く作り直した。その中に朝鮮人兵士がおり「だまされたんだなぁ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ」と教えてくれた。娘達は仰天し、泣いたが、オクチュは「驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうか、と妙に納得した」。マツモトは泣いている娘達に「軍人の相手をすれば金になるのだから我慢して働くこと、軍人は切符を持ってくるからそれを受け取って、一日分ずつを自分に渡すこと、朝鮮に帰るときに切符を合計した額を四分六に分けて、六分をわたしたちに渡すからしっかり働くように、等と説明した。」「まだ泣いている娘もいるけれど、わたしはもう泣かなかった。いくら泣いても同じだという事はわかっている。」「ああ、ここで戦争をやっているんだな、だから軍人たちの為に慰安所があるんだな、と思った。」

この三度の体験のうち、最初と最後は文玉珠自身の意思で行ったことが明白である。最後は「食堂で働く」と言う嘘には引っ掛かったが、オクチュもいうように、薄々気づいていたのだ。誘ってきた友人も「慰安所」経験者であり、その手口に全く不慣れなウブな娘たちではない。

問題は「憲兵たちに道で呼び止められて連れて行かれた」=「連行」という体をとっている二度目のケースだが、

  1. 「連行」=「誘拐」ならば、「憲兵隊の詰め所で『住所・名前・家族』について聞かれ、女の子たちを椅子に座らせたまま、憲兵たちはあちこち電話連絡していた」事の説明がつかない。(ケース3のときに、ヒトミとキファ姉妹について「トアンショウで『働いた』時の友達」と説明している。)
  2. 最初から最後まで、賢く、機転が利き、度胸もあるオクチュが逃げる努力をしている様子も、憲兵側が二人の少女が逃げないよう監禁・監視している様子もない。
  3. 「病気の母の看病のため帰郷したい」という希望は「オクチュを可愛がってくれていた憲兵」によって簡単に叶えられた。オクチュは他の3人の慰安婦仲間と一緒に堂々と列車に乗り「煙草をふかし、はしゃいで笑い」他の乗客から奇異の目で見られている。

つまり、オクチュは憲兵によって「連行」されたのではなく、「契約によって働いていた」のであり、「休暇を取る許可をもらって」慰安所を脱け出し、二度とそこへ帰るつもりはなかった。

オクチュら慰安婦は「外出・外泊の自由」「廃業の自由」があり、外泊許可をもらってそのまま慰安所に帰らない慰安婦を、日本軍はそれと知りつつ見逃してやっていた。

娼婦稼業という「醜業」を、「お金のため」と割り切って、逞しく働く慰安婦と、それを寧ろ優しい眼差しで見つめる日本兵の姿が、ここにはある。

 

(この文章は、2016年9月11日に一部改訂、2017年8月14日に改題しました。)