1940年10月7日付け、マッカラム覚書『日本に最初の一撃を撃たせる』ための8項目の提案。『経済制裁は戦争行為』であり、『侵略』したのは米国の方だった。

アンチ「ルーズベルトの対日開戦陰謀論」半藤一利著『「真珠湾」の日』を読む

 

「あの時代の日本と日本人の行動や感情や心理を、できる限り丁寧に描き出そう」とした著者の意図は、成功していると思う。しかし、「Day of Deceit」のスティネットが発掘した『対日開戦促進計画』文書の価値を、「何でいまさら」の一言であっさり片付けたことには首をかしげる。

日本に勝算の無い戦争を始めさせた直接の原因の一つ、ABCD包囲網を「日本を『挑発して』あからさまな戦争行動を『先に』起こさせるための計画」の一環として提示したこの文書は、「ルーズベルトのお気に入り」海軍情報部極東部長マッカラムによって書かれた物である。

チャーチルの要請を受けてヨーロッパ戦線に参戦したいが、「戦争はしない」とした選挙公約の手前、日本に第一撃を打たせて国民を説得する必要がある、とルーズベルトが考えていたことを傍証する政府・軍関係者の証言はいくらもある。その点「何をいまさら」なのは本当だが、半藤氏が『この文書が対日参戦への許しがたいシナリオとは到底思えない。』というのは的外れだ。なぜなら、この文書が証明するものは、そこにはっきりと書かれているとおり、「日本を『挑発して』戦争行為を起こさせる」意図とそれを実行に移す意思が米国にあった、ということである。

すなわち、真珠湾奇襲によって確かに日本は戦争を「始めた」が、それは「挑発されない戦争行動」、即ち東京裁判が断定したような、国際法上に言うところの「侵略戦争」ではなかった、ということに他ならない。

スティネット本は2万以上に及ぶ、反論不能なほどに出所の明確な政府内資料とインタビューによって構成されている。(日本語版はどうか知らないが、英語版には百ページ以上の詳細なリストが巻末にある。)半藤氏がうそぶくように「確証の無いこと」などではないのだ。

日本に有利な新情報が出る度に『陰謀説』『リビジョニスト』のレッテルを貼って鼻で笑って無視するような態度もいい加減にしたらどうかと思う。

米国側の行為は単に「日本を経済的に窮地に追い込み、『先手必勝』に賭けさせ最初の一撃を打たせた」だけではない。ルーズベルトは1919年に立案された対日戦争計画「オレンジ」に則って、彼の所謂「日本の『宣戦布告せず交戦する技術』」に「宣戦布告せず経済制裁する技術」を以て対抗した。

  • 1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」
  • 1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告
  • 1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
  • 1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効
  • 1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
  • 1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
  • 1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
  • 1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
  • 1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令
  • 1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

(「ABCD包囲網」Wikipediaより)

明治維新以来、欧米列強に対抗する為の「富国強兵」策の地盤固めとして欠かせなかった重工業の継続的発展が、これら一連の禁輸措置によって「停滞」するどころか、「日本に1000万人から1200万人の失業者を生じさせるおそれがあった」(1951年5月3日、米国上院軍事外交共同委員会におけるマッカーサー証言)すなわち、

「日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(Security)によるものだった」(同上)

「日本のアジアでの戦争は『パリ不戦条約』違反の侵略戦争」とカン違いしている左翼の御仁が多いが、不戦条約=ケロッグ・ブリアン協定の一角である米国国務長官ケロッグは、米国議会上院の不戦条約批准の是非を巡る討議(1928年12月7日)に於いて、

「経済封鎖は戦争行為そのもの」と断言した。

また、不戦条約では「その戦争が自衛かどうかを決定するのは各国の判断に委ねる」としており、日本が「大東亜戦争は自衛戦争であった」、或いは「大東亜全域の欧米列強の侵略・植民地化に対する集団的自衛権の行使だった」と事実を述べることに対して反論する権利は本来どの国にも無いはずである。

侵略国は米国の方だった。

70年前の一つの戦争における「戦勝国」という地位を限りなく拡大解釈し、国連安保理常任理事国という独裁的地位に居座り、民主的淘汰を「拒否権」によって拒絶する5人のギャング達に、その事実を認めさせ、国際社会を「人治」から「法治」に変える。世界の平和はそのことによってしかもたらされないであろう。

325機のB29爆撃機が投下した、36万1855発のナパーム弾により、26万7171軒の建物が消失、100万8千人がホームレスに。8万3793人が死亡、4万918人負傷。1945年3月10日夜の東京大空襲。

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『東京大空襲―B29から見た三月十日の真実』を読む

東京大空襲

著者・E.バートレット・カーは、朝鮮戦争にも従軍経験のある戦史家である。元軍人らしい緻密で正確な描写で、1945年3月10日の東京大空襲とそれに至るナパーム弾M-69や戦略爆撃機B-29の開発過程、爆撃作戦の立案と遂行という「報告書」を作成した。

M-69が如何に日本中を火炎地獄に陥れるのに効果的であるかの説明はもちろんのこと、この都市爆撃案を支持していたのが軍人ではなく、NDRC(国家防衛調査委員会)やCOA(作戦分析者委員会)の顧問等民間人であった、という事実に戦慄した。グアムの基地の病院に新鮮なミルクを提供するため乳牛数十頭を本土から運ぶとはさすが物量のアメリカ、等と感心しているどころではない。

訳者の計算によると、東京大空襲における「焼夷弾の雨」とは、36万1855発のナパームが325機のB-29から2時間15分に亘って降り注いだものだそうだ。一夜にして26万7171件の建物が焼失、100万8千人の家が奪われ、8万3793人が死亡、4万918人が負傷したことを思えば、2時間15分「も」なのか「たった」なのか、言葉を失う。合掌。