「慰安婦『強制連行・性奴隷』説」は完全に破綻している__慰安婦には「職業選択・廃業・外出・外泊の自由」があった。__唯一客観的に検証された朝鮮人元慰安婦・文玉珠の体験記を精読する①

慰安婦募集記事 良

「慰安婦急遽大募集」「『軍』慰安婦急募」

この募集広告をみて「カフェのウェイトレスの仕事だ」と勘違いするほど世間知らずの女性は、そうはいないだろう。なにしろ約束された給料は「月収三〇〇円以上(前借三〇〇〇円許可)」、朝鮮半島では女性の月収20円の時代に、である。(右側写真『京城日報』1944年7月26日付広告)

日本では公娼制があり(1958年全面廃止)、旱魃等に見舞われた貧しい農村部での娘達の「親孝行」の手段としての身売りは珍しいことではなかった。

ビルマ戦線楯師団の慰安婦だった私大東亜戦争当時、大日本帝国の一部であった朝鮮半島、大邱出身の文玉珠(ムン・オクチュ)も、両親が両班(ヤンバン、李氏朝鮮の貴族・支配階級)ながら、父が亡くなった後の食うや食わずの貧乏暮しに耐えかね、子供時代から「キーセン(妓生)になって、歌や踊りをじょうずにすれば金持ちになれる」と考えていた。「そのころは、女が金を稼ごうと思ったら、家業を手伝うか、このキーセンになるか、それとも身を売る女郎になるくらいしか方法はなかった」からである。

金を稼ぐため」、文玉珠は年若い時から3度、母親にも内緒で故郷を離れ働きに出ている。

文玉珠の「ビルマ戦線楯師団の『慰安婦』だった私」は、河野談話の根拠となった元慰安婦たちの証言の中で、唯一客観的検証がなされている、希少で詳細な、重要証言である。

文玉珠を1992年から3年半インタビューした森川万智子は、ビルマでの現地調査で、オクチュが「慰安婦として属していた」楯師団及び慰安所「オトメ」を知る、現地人協力者(通訳)のウ・サンぺ氏や朝鮮人慰安所経営者朴氏の証言などから、文玉珠の証言の裏付けをとった。

この資料こそを、外務省は「慰安婦合意」の際提示すべきであった。

何の検証もされていない北朝鮮の「元慰安婦」の、「日本兵は強姦して殺した慰安婦を煮て食べた」などと言う荒唐無稽な証言や、それに全面的に依拠して書かれた『クマラスワミ報告』をきちんと否定せず、「性奴隷」「強制連行」を国際社会に定着させた「日韓慰安婦合意」は、日本軍将兵と日本の名誉を棄損し、日本人全ての人権を侵害している。

以下は「ビルマ戦線楯師団の『慰安婦』だった私」から抜粋した、文玉珠の三度の「慰安所」体験の顛末である。

日本軍の「強制連行」「性奴隷」の罪の挙証たりうるか、よく考えながら読んでほしい。

1.朝鮮人夫婦に「学校に行かせる」「嫁に出す」と言われて大牟田で「子守に」

  • 一度目は12歳のとき。九州の大牟田で料理屋をしているという朝鮮人夫婦が家に訪ねてきて「商売が繁盛していて人手が足りない。子守に来てくれれば学校にもやってゆくゆくは自分の家から嫁にも出してやる」と申し出た。母は「行くな」とだけ言った。オクチュは「食べるものも満足に無い家にいるのはごめんだった」ので、釜山の役所に一人で行って「大人びた言葉遣いをして」年上に見せてまで、日本行きの許可を貰った。結局そこは、日本人経営の遊郭街にある、唯一つの朝鮮人経営の、日本人の芸者が来て働く売春宿であると判明。13歳のとき、何年か後には自分も身を売らされると知って貯金を持って逃げて帰る。

2.日本人と朝鮮人の憲兵二人と朝鮮人の刑事に道で呼び止められてそのまま満州へ

  • 二度目は16歳のとき。歩いて20分のところにある朝鮮人の友人アライハルコの家に遊びに行った帰りに、日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事に「ちょっとこい」と呼びとめられ、憲兵の詰め所に連れて行かれる。事務所の椅子に座らされ「住所、名前、家族」の事を聞かれた。刑事達はあちこちに電話していた。そのまま椅子に座ってうたた寝しながら夜を明かした。翌朝もう一人の朝鮮人少女と共に汽車に乗せられ、丸三日かかって満州北部の東安省(トアンショウ)へ。中国側国境の安東(アンドン)ではパスポートもなかったが、「見張り」の日本人憲兵と朝鮮人刑事、中国人警官が話をつけ、何事もなく通過できた。朝鮮人の主人のいる「グンポール」という名の「慰安所」に着き、オクチュと同じく朝鮮・大邱からきた20人ほどの女達と日本兵相手の「慰安婦」に。17歳になり、煙草を吸い酒を飲むようになり、心が荒んでいく。オクチュを特別に可愛がってくれている、帰省許可証明書を発行する権限を持つ憲兵に「母が病気だから大邱に帰って看病したい」と嘘をつき、証明書を発行してもらう。肺病を病んだ二人と仮病を使った一人と4人で列車に乗った。「兵士に貰った天皇陛下の菊のマーク付きの煙草をふかし、大声ではしゃいで笑いながら」旅していると、憲兵がしょっちゅう見回りに来る。仮病の女はばれて連れ戻された。安東(アンドン)あたりでオクチュも逃亡を疑われ詰め所に連れて行かれるが、「目の澄んだ」若い日本人憲兵が自分の家に連れ帰り、1週間一緒に過ごすことで見逃してくれた。

3.満州の慰安所で一緒に働いた友達の朝鮮人姉妹に誘われてビルマに

  • 三度目は18歳のとき。普通は3年かかるキーセン学校を1年半で修了し、お座敷やヌードモデルを経験したのち、「トアンショウのグンポールで働いたときの友達で、その時は近所に住んでいた」朝鮮人・ヒトミとキファの姉妹が「日本軍の食堂に働きに行こうよ、金もうけができるよ」と誘いに来たのだ。「その頃は、朝鮮人もみんな先を争って軍属になりたがっていた。」「軍隊の食堂で給仕か皿洗いをすれば、決まった収入があって、母に少しは仕送りできるかもしれない。キーセンよりは絶対に堅実な仕事だ。」「二日後、母には言わず、ヒトミとキファと三人で列車で釜山に向かった。いえば反対されるにきまっている。」指定された旅館に行ってみると、トアンショウで一緒だった別の二人の友達、アキミとヒフミがいた。奇遇を喜び合った。顔見知りのマツモトという朝鮮人の男と60歳過ぎの朝鮮人の男とその甥の三人が引率をした。1942年7月10日、釜山の軍専用の岸壁から150人から200人ほどの娘達(15~20人くらいに一人か二人、マツモトのような中年男がついていた)と、他に商売人のような朝鮮人の男女数十人、日本の娘5,6人、軍人6人と一緒に南洋へ向かった。船酔いに苦しむ他の女達を助けながら台湾(台湾バナナを初めて買って食べる)、シンガポール(3,4時間上陸して辺りを見学)からビルマ・ラングーンへ着いたのは2カ月後。オクチュ達マツモト・グループはマンダレーへ行くことにくじ引きで決まり、兵隊の運転するトラックで将校1人、下士官1人とともに移動。マンダレーでは庭付きの、高床式の大きな木造民家。翌朝軍人たちが大工道具を持ってきて「アッと言う間に器用に」大きな部屋を半分に仕切って部屋数を多く作り直した。その中に朝鮮人兵士がおり「だまされたんだなぁ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ」と教えてくれた。娘達は仰天し、泣いたが、オクチュは「驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうか、と妙に納得した」。マツモトは泣いている娘達に「軍人の相手をすれば金になるのだから我慢して働くこと、軍人は切符を持ってくるからそれを受け取って、一日分ずつを自分に渡すこと、朝鮮に帰るときに切符を合計した額を四分六に分けて、六分をわたしたちに渡すからしっかり働くように、等と説明した。」「まだ泣いている娘もいるけれど、わたしはもう泣かなかった。いくら泣いても同じだという事はわかっている。」「ああ、ここで戦争をやっているんだな、だから軍人たちの為に慰安所があるんだな、と思った。」

この三度の体験のうち、最初と最後は文玉珠自身の意思で行ったことが明白である。最後は「食堂で働く」と言う嘘には引っ掛かったが、オクチュもいうように、薄々気づいていたのだ。誘ってきた友人も「慰安所」経験者であり、その手口に全く不慣れなウブな娘たちではない。

問題は「憲兵たちに道で呼び止められて連れて行かれた」=「連行」という体をとっている二度目のケースだが、

  1. 「連行」=「誘拐」ならば、「憲兵隊の詰め所で『住所・名前・家族』について聞かれ、女の子たちを椅子に座らせたまま、憲兵たちはあちこち電話連絡していた」事の説明がつかない。(ケース3のときに、ヒトミとキファ姉妹について「トアンショウで『働いた』時の友達」と説明している。)
  2. 最初から最後まで、賢く、機転が利き、度胸もあるオクチュが逃げる努力をしている様子も、憲兵側が二人の少女が逃げないよう監禁・監視している様子もない。
  3. 「病気の母の看病のため帰郷したい」という希望は「オクチュを可愛がってくれていた憲兵」によって簡単に叶えられた。オクチュは他の3人の慰安婦仲間と一緒に堂々と列車に乗り「煙草をふかし、はしゃいで笑い」他の乗客から奇異の目で見られている。

つまり、オクチュは憲兵によって「連行」されたのではなく、「契約によって働いていた」のであり、「休暇を取る許可をもらって」慰安所を脱け出し、二度とそこへ帰るつもりはなかった。

オクチュら慰安婦は「外出・外泊の自由」「廃業の自由」があり、外泊許可をもらってそのまま慰安所に帰らない慰安婦を、日本軍はそれと知りつつ見逃してやっていた。

娼婦稼業という「醜業」を、「お金のため」と割り切って、逞しく働く慰安婦と、それを寧ろ優しい眼差しで見つめる日本兵の姿が、ここにはある。

 

(この文章は、2016年9月11日に一部改訂、2017年8月14日に改題しました。)