「日本国憲法改正」「日本国憲法無効論封殺」「天皇譲位特例法対応」は日本の本当の支配者・米国防省の命令だ!__近衛文麿、吉田茂、岸信介の裏切りと亡国の罪を、今改めて問う__『日本国憲法』無効確認への道①

『日本国憲法』・GHQ『皇室典範』とサンフランシスコ平和条約・日米安保条約__全ては国民がその本質を知らされないまま結ばれた日本の主権を売り渡す「密約」。戦後日本政治は「講和条約締結後も、日本は主権を回復できていない」=「占領が継続している」という真実を、国民から隠し続けることに邁進してきた

「戦後レジーム」とは、ナチスの「全権委任法」によるワイマール憲法停止にも似た、『日本国憲法』による大日本帝国憲法「停止状態」のことである

戦後日本の本当の支配者は米国防総省ペンタゴン__「議事録絶対非公開」の日米合同委員会において米軍が要求し、日本外務省北米局長が受け入れて「政府間合意」とする、日本国憲法にも優越する異常な「密約法体系」で、戦後日本は日本国民が知らないうちに、立憲主義も法治主義も民主主義さえも、ドブに捨ててきた

「占領」を「安保」と呼び換えただけ__『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』を軸にしたGHQ占領法体系は「ペンタゴン立法」の安保法・密約法体系が加わって引き継がれ、実質占領は継続している

米軍関係者は、法的に『日本国憲法』の上位にある。日本当局の管理を全く受けることなく出入国でき(スパイ天国)、日本国民を殺しても罪に問われない

自衛隊の最高司令官が内閣総理大臣であるというのは表向きで、統一指揮権が在日米軍司令官にあり、自衛隊を米軍の手足として、世界のどこででも自由に使える権利(rights)・権力(power)・権能(authority)を持っている、というのが真実である

憲法改正で自衛隊を「国防軍」と呼ぶことになっても、日米安保と「統一指揮権密約」により、有事の際「日本の軍隊」は米軍に完全従属し、「日本のため」でなく、在日米軍と米軍基地を守るために戦う

既に自衛隊は、米軍とリンクした兵器・装備で「米軍の指揮下でしか動けない」「大規模新設の第442日本人部隊」になっている

朝鮮半島有事は目前__日本に主権がないことすら国民から隠す政府は、拉致被害者奪還・在半島邦人救出体制どころか、最も基本的な意味での「国家防衛」義務を放棄している上、自衛隊のシビリアン・コントロールも外して非民主的米軍支配体制を幇助している


「憲法とは権力を縛るもの」?『日本国憲法』は、「国民の代わりに権力を縛る」天皇の権威を簒奪・排除して、実権力者=日本政府・官僚の売国の暴走を許してきた。日本国民が国民投票で決める「『日本国憲法』の改正」は、「影の支配者」米国防省が望む「米軍による日本の軍事支配=日本の主権簒奪状態永続の、日本人自身による承認」となる


「象徴天皇」は「『天皇制』存続」に見せかけ国民を騙し、実質天皇と皇族を弾圧し、皇統断絶に至らせるためのまやかしである

GHQ『皇室典範』は無効であり、それを改正しても「特例法」に対する「恒久法」にはならない。『日本国憲法』とともにGHQ『皇室典範』を無効確認により即刻廃棄し、政府と官僚の売国行為を国民に代わって糺せる唯一の「至高の権威」立憲君主の天皇を、大日本帝国憲法・明治の皇室典範現存確認で取り戻す


天皇 お言葉

「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しない」

2016年8月8日の「お言葉」のなかで、天皇陛下は、「戦後70年」「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇」という言葉とともに、この言葉を、畳みかけるように最後に述べられた。また、「天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」ともおっしゃった。このことから、陛下がお望みになっている、「国民の理解すべきこと」の肝要の部分とは、天皇陛下はお立場上具体的に仰ることはできないが、「制度としての『日本国憲法』下の『象徴天皇』とは何か」ということであろうとおもわれる

天皇陛下のご意思が「『日本国憲法』絶対尊重」にあるのであれば、「憲法に抵触しかねない」この「お言葉」は、そもそも最初から、発せられることはなかったはずである。私たち国民は、『日本国憲法』の「国民主権」「象徴天皇」そのものに問題がある、という点に議論の始まりを置くべきだということだろう。

天皇陛下の「お言葉」を拝し、大多数の国民が天皇陛下のお考えの通りに、「恒久的な方法で譲位」していただくことを支持した。

「『日本国憲法』第一章 天皇」には、「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、当然この天皇陛下の譲位のご意向がかなえられることを支持した大多数の国民は、政府が畏まって速やかに譲位実現に向けて行動を開始することを期待した。

しかし、政府と政府の設置した有識者会議の保守側の人々は、国民が唖然とするほどに頑迷に、「天皇の意向の表明により、政府が譲位実現に向けて動く」ことへの抵抗を示した。

『日本国憲法』が「天皇は国政に関する権能を有しない」と規定しているからだが、それがどうしたというのだろう?そもそもこの条文に妥当性、正当性はあるのか?

「特例法」対応を積極的に支持した元官房長官・石原信雄は「(退位の恒久化は)結論を得るのに時間が掛かりすぎる」というが、「結論」ならとうに出ている。

天皇が「天皇の務め」を果たすことの実際的問題点について最も熟知する人間は、過去30年近く天皇位に在る今上陛下を除いて、他にはあり得ない。2番目、3番目は皇太子殿下、秋篠宮殿下であり、だからこそ天皇陛下も「皇室の将来については皇太子・秋篠宮が話し合って決めるのが重要」と、何度も仰っている。

その陛下が10年も前から考え抜き、宮内庁参与会議という「天皇陛下が国民の意見を聞く諮問機関」=「天皇の有識者会議」での6年間の文字通りの激論を経たうえで、「全身全霊で務めにあたることのできるものが天皇位にあるべき」「譲位すべきであって、公務軽減・公務代行や摂政設置では駄目」と仰った。これが国民が拝すべき「天皇陛下の結論」である。

政府がこの上新たな有識者会議を設置し、それが出す新たな「結論」を元に対応を考えるとしたことは、有り体に言えば「天皇の有識者会議の軽視」即ち「天皇の権威軽視」である。

実際の「議論」の中身を見れば、そのことは更に明白になる。東大名誉教授・平川祐弘は、「国民の安寧と幸せを祈ること」「時として国民の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」を「天皇の務めの最も大切なこと」とされた天皇陛下のお言葉を、「陛下の個人的解釈による象徴天皇の役割」と「指摘」し、「少し休んでいただいても象徴としての意味は薄れない」と言って事実上退けた。

国学院大名誉教授・大原康男は、「同じ天皇のご存在の継続そのものが国民統合の要」だから摂政での対応で十分、とした。

この者たちは、「親に口答えをするな」という躾は受けなかったのだろうか?「親・目上の者に口答えをしない」のは、左翼がいうような「体制への絶対服従のため」などではない。議論相手への礼を尽くすと同時に、自分の発言の前に一呼吸置き、冷静に自分の考えを反芻し、相手の言い分も再度考えなおして、両方の意見のメリット・デメリットについて再考したうえで議論を構築していくための、公議公論の基本原則なのである。「親や目上の者に口答えして、生意気の誹りを受けてまでも発言する価値のある正しい意見」なのか、よく考えて発言せよ、ということである。

然るに、この者たちは、「日本国の象徴」たる天皇の、命を削る激論の末到達した「結論」に対し、何の敬意も払わなかった。

それだけでも、目も眩むような恐ろしい不敬である。

だが、この者達にも、政府にも、国会にも、メディアにも、天皇陛下の譲位のご意向表明以来の一連の対応全てが「不敬」だという自覚がない。

「『日本国の象徴』たる天皇への不敬の無自覚」こそが、「『日本国憲法』統治下の戦後日本の『心の病』」=「主権喪失」なのであるが、その自覚すらもないのが今の日本の本当の危機である。

政府の有識者会議で「保守派のオピニオン・リーダー」と呼ばれる人達が、国民の面前でこぞって天皇陛下に「口答え」して、その「権威」を踏みにじるという暴挙に及んだことは、その「日本の危機」を端的に表し、問題の本質をかえって鮮明にすることになった。

やはり「退位に反対」で、天皇の権威低下を促進する「摂政設置」を支持する人気保守ジャーナリスト・櫻井よしこは、「陛下への配慮は必要だが、国家の在り方とは分けて考える必要がある」と述べている。

つまり、これら保守系学者・ジャーナリスト達と、彼らが支持する安倍晋三政権の考える「日本という国家の在り方」は、「日本国の象徴」たる天皇陛下への配慮を二の次にしなければ成り立たない、ということである。

神の意を白す万世一系の天皇が、古代より実権力者の上に「至高の権威」として君臨してきたという歴史の事実こそが、日本を日本たらしめている。

これは「日本の歴史の真実」である。だからこそ、天皇は尊いのである。

「万世一系の天皇」とは「日本の永続性の象徴」であり、皇位の継承それ自体が、日本という国の歴史の体幹を成している。

そのことと「日本という国家の在り方」は分けて考えることなどできないはずだ。それを敢えて「分ける必要がある」ということは、この者たちの中で、「日本の国体」というものは既に変容している、ということではないのか?

天皇陛下の譲位のご意向の表明が、安倍政権によって「天皇陛下の我儘・(そんなことよりもっと大切な)憲法改正の邪魔」扱いを受けていることは、「天皇には政治に関与する権限がないだけでなく、一人の日本人として当然『日本国憲法』が保障する筈の自律権=自分の人生設計を自分で決める権利すらも、ない」という冷厳な事実を国民に示した。

「政治に関与する権限・権力をもたない」というのであれば、歴史と伝統に照らして、天皇の在り方として寧ろ正しく日本的であると言える。だが、この天皇譲位問題で国民が見た政府や有識者会議の、特に「保守派」の人々の傲慢とさえいえる態度は、まるで「天皇には権力だけでなく『権威』もない」といっているかのようだった。

そのことが、国民に深いところで安倍政権への疑念を生じさせている。そのことにも、安倍政権は自覚がないのであろうか__。

象徴天皇という表現は、私たちがその場でふと思いついてつくった」という、占領当時「新憲法」草案起草の実務責任者であったGHQ民政局次長チャールズ・ケーディスは、1981年4月9日、ニューヨーク・ウォール街のケーディスの法律事務所における、産経新聞ワシントン駐在客員特派員の古森義久とのインタビューで、次のようにいっている。

《「〔マッカーサーに宛てて出された『国務・陸軍・海軍調整委員会 State-War-Navy Coordinating Committee、通称SWNCC=現在のNSC米国国家安全保障会議』からの指令の中にも〕天皇の身柄、あるいは天皇の在位に関する限り、(天皇制廃止や天皇の廃位などの)提案はまったくありませんでした。ただ天皇が国家や政府の大権を行使しないようにするという点は明白にされていたと思います。」(「象徴天皇は私たちがつくった:チャールズ・ケーディスの証言」古森義久『WILL』2016年11月号)》

古森の記事の中のケーディスの言葉の端々には、「占領軍は天皇を殺しはしなかった。新憲法に『象徴』という、素晴らしい、日本人の思う天皇像にマッチした形として残してやった。有り難く思え」という恩着せがましい雰囲気が醸しだされている。信じられないことに、日本人であり、しかも保守と称されるはずの古森自身も、ケーディスに同意し、GHQが「象徴天皇」を日本に「与えてくれた」ことに感心してさえいるかのように、こう言う。「皇室に関して日本古来の伝統だとばかりにみえた特徴が実は占領米軍による加工の結果だったという側面もあるのである」「『神聖で不可侵な統治権』を奪われた〔が、〕それでも天皇制も皇室も、その変化の奔流を柔軟に受け入れ、新しい地位へと移行した。そして新しい環境にふさわしい形で立派に存続することとなった

天皇陛下の譲位についての議論のなかには、「天皇はそこに存在するだけで有り難い。だから公務が大変なら宮中で静かに座っていてくれるだけでいい。退位する必要ない」などという、おためごかしの無礼な「退位反対論」がみられたが、それとこのケーディス(古森)の言い草はそっくりだ。

立憲君主・天皇がその「神聖不可侵の統治権」を簒奪されることで、日本国はその主権を奪われたのだ。「『日本国憲法』に『天皇制』が残された」という欺瞞を、日本国民は正しく「嘘」として認識しなければならない。

「象徴天皇」とは、外国の軍隊に支配された戦後日本の異常な「政治的真空状態」に掛けられた擬製の覆いにすぎない。それが真実である。

「象徴天皇という新しい地位」を与えられたことが単に「時代の変化」であり、『日本国憲法』に天皇条項があることを以て「天皇制が立派に存続している」という言説は、連合国の主権簒奪の事実を覆い隠し、本当は誰が日本を支配しているか、という問いから国民の目を逸らさせようとするものだ。

『日本国憲法』が規定する「権能を簒奪された天皇」「象徴でしかない天皇」では、国体護持のための「国民意識の統合=国民の政治意志の統合」を成しえない。

現に今、「『日本国憲法』の規定よりも天皇陛下の譲位のご意向が優先されるべき」という国民の「総意」は無視されている。議会制民主主義は機能していない。

「天皇陛下のご意向表明は『立憲主義』に悖る」といった学者がいたが、それはまったく逆の話である。

「立憲君主」たる天皇が手足を縛られ口を塞がれ、「国民の代表」の立場を悪用して権力を濫用する政府・国会を総覧し、改善を促す「至高の権威」を発動できない現在の状態では、立憲政治は行えないのだ。

「象徴天皇」「国民主権」で日本を実質共和制にした『日本国憲法』こそが、ナチスが悪用した共和制のワイマール憲法と、それを機能停止させるための「全権委任法」同様に、立憲主義を蹂躙するものである。ワイマール共和制憲法が「至高の権威」として憲法の上位に置くものは「神」であるが、残念ながら「神」は独裁者の暴走を止めることができなかった。

GHQの太鼓持ちである戦後憲法学者に「政府の言いなりに判子を押すロボット」とまで侮辱された「権威・権能のない象徴天皇」は、「実体のない、物言わぬ神」と同様、権力の濫用者にとって、無視できる「都合のよい存在」なのである。しかも「象徴天皇」と持ち上げて御輿に乗せておけば、国民は「天皇陛下がそこにいらっしゃる」と満足して大人しくしている。「ポツダム緊急勅令」のように、「これは天皇の命令だ」といえば、実はそれがGHQの要求と知らずに日本国民は素直にいうことを聞く。権力を濫用する者たちにとって、これ以上に都合のよい存在はないであろう。

かくて、立憲主義国家・日本の大日本帝国憲法は、『日本国憲法』の無効事実を無視する者たちによって、「憲法停止」状態になっている。

『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』は、天皇の統治者としての権能を簒奪したばかりでなく、天皇と皇室の自治権・財産権始め、「全ての国民が享受する」はずの「自由と権利」の一切を、非人道的なまでに剥奪した。だがそのことを、国民は知らない。

『日本国憲法』と同時に施行するための皇室典範「改正」調査会討議中、憲法学者の佐々木惣一は、「実質的には(従来の)天皇制は廃止された」とし(井上亮「『女帝』『退位』で激論:新『皇室典範』は三カ月半で作られた」『文藝春秋SPECIAL 今こそ考える皇室と日本人の運命』)皇室典範「改正」案は、天皇の肩書のみ残して実質「国民以下の地位」に貶める『日本国憲法』の趣旨に則って、その内容が白紙から検討された。GHQ『皇室典範』の内容が明治の皇室典範と殆ど変わらないというのは真っ赤な嘘である。

昭和天皇の、皇室典範改定案を皇族会議で審議したい、との希望も、当然の如く否定された。

また、「典憲」という言葉が示すように、明治の皇室典範は皇室の家憲であって憲法と同等、日本の国体を体現する天皇とその継承者を律する規範国体の表出であるがために、その改正には臣下による議会の容喙を許さないものであったが、占領軍はその皇室典範を国会による発議で改正される「一般法」に貶め、天皇と皇室を侮辱した。

一方、その名称は『皇室典範』のままにおいた。議会の中からも、「一般法ならば『皇室法』と呼ぶべき」との声も上がったにも拘らず、さしたる議論もなく名称が『皇室典範』とされたのは、当然、それが「憲法と同等の典範である」と国民に勘違いさせるためのGHQの指令である。

江崎道朗によると、ケーディスは、日本政府がGHQ草案を日本語口語体に翻訳して公表した「憲法改正草案」の字句について異議がある、と佐藤法制局長を呼び出し、激しい口調で言った。

《「第三条と第七条にあるapprovalを日本政府は同意と訳しているが、この言葉の意味について日本人に聞いたところ、同意は対等な二者の間で用いられるようだ」

「しかしGHQの意図は『内閣が天皇の上に立つ』という意味だ

そして右の拳を高く挙げて「これが内閣」、左の拳をその下の方に置き、「これが天皇」といった。》(江崎道朗「白洲次郎は何と戦ったのか」『WILL』2016年11月号)

そして勿論、「天皇の上」に位置する内閣の上には、国民の目に見えない「上」があった。

2015年8月14日に出された「戦後70年首相談話」で、「戦後レジームからの脱却」を実現してくれると国民が期待した安倍首相は、結局「村山談話」を踏襲した。その裏には、「日中共同宣言によって村山談話の踏襲が約束されている。村山談話の否定は許されない」という外務官僚からの指示があったという。

投票によって国民が選出したのではない高級官僚らが、国民の代表である内閣の上位にあり、内々に首相に「指示」して、国民がそのために支持した内閣の「救国の政策」を変更してしまう……。

だが、内閣総理大臣の行動をも統制するその官僚たちの上にも、更にまた目に見えない「上」があった。

それが、「日米共同委員会」という議事録非公開の秘密会議で、日本の官僚たちに「相談」と称する「命令」を下す戦後日本の本当の支配者、在日米軍とそれを指揮する米国防総省である。

pentagon 3

日本は、未だに米軍によって「占領」され、実質「植民地化」されている。

「米軍関係者」は、日本当局の入国管理を全く受けることなく、日本全国にある「米軍施設」を通って日本に出入りできる(「横田ルート」等)。「米軍関係者」が日本人を殺害しても、日本はその犯人を裁くどころか、拘束することもできない(「在日米軍裁判権放棄密約事件」)。

主権に関するあらゆることが、日本国民に知らされないまま「日米合同委員会」において取り決められ、それは『日本国憲法』に優先する

これが「占領軍がくれた立派な憲法、『日本国憲法』がもたらした素晴らしい国民主権・議会制民主主義」の正体だ。ナチスの「全権委任法」が行政府(内閣・官僚)に立法権を含む権力を与えたように、『日本国憲法』は、天皇から簒奪した主権を国民に与えておいて、その実占領軍=米軍がその国民の代表者=統治権の主体である政府・官僚を支配する、という「植民地間接統治法」なのである。

ずっと、「日本は『まるで』未だに米国によって占領され続けている『かのようだ』」「日本は米国の植民地である『かのようだ』」と思っていたら、「本当に」そうだった。

2016年刊の二冊の本、矢部宏治著『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』と、吉田敏浩著『「日米合同委員会」の研究:謎の権力構造の正体に迫る』、そして2015年刊の末浪靖司著『機密解禁文書にみる日米同盟』は、米国側の機密解禁文書によって、サンフランシスコ平和条約と旧・新日米安保条約、日米行政協定と日米地位協定__即ち「GHQ占領法体系」を引き継いだ「安保法体系」がどのように成立したのか、吉田茂、岸信介、佐藤栄作ら日本の首相らがそれにどのように関わっていたのかを詳らかにしてくれる。

天皇弾圧・国体破壊の『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』は、日本の主権簒奪・戦後日本支配の「装置」の「一部」に過ぎなかった。

平和条約と安保条約の制定過程を知れば、なぜ戦後の歴代日本政府が『日本国憲法』無効論を封殺してきたのか、その理由が明らかになる。なぜ天皇陛下の譲位が速やかに実現されないのか、その理由が明らかになる。

日本の主権は、日本人自身の手によって売り渡されてきた。

占領下の日本は、米ソ冷戦の戦場だった。

表向きの「連合国」の一枚看板の裏で、ソ連=国際共産主義者が主導する極東委員会とGHQ=米国軍部が、極東覇権戦略の要衝である日本の支配権をめぐって激突していた。

ロシア国内のユダヤ人救済のためにロシア革命を支援した、米国のユダヤ人国際金融資本家達に動かされたルーズベルトが始めた日米戦争は、「連合国」というよりも米軍の圧倒的物量・軍事力によって米軍の勝利に終わった。

スターリンと個人的親交のあったルーズベルトは、国際共産主義・国際金融資本主義をバックに世界覇権を狙っていたが、1945年4月12日、対日勝利を目前に死亡。共産主義陣営の世界制覇戦略に影を落とす。

占領下、日本に押しつける「新憲法」の制定競争で、GHQは新憲法制定について「最終決定権」を持っていた極東委員会を完全に出し抜き、10日足らずで草案を作成して『日本国憲法』制定を強行した。このことを以て「『日本国憲法』は、共産主義者の極東委員会の『共和制憲法』よりはマシだった」という者がいるが、『日本国憲法』は、ルーズベルトの社会主義政策「ニュー・ディール政策」の体現者たちに主導されたGHQにより制定された「国民主権」の実質「共和制植民地法」であり、「宗主国」米国に隷属する「植民地・日本」か、ソビエト連邦の「極東の衛星国・日本」か、という違いしかなかった

「ソ連の衛星国になるよりは、民主主義国・アメリカの植民地でまだしも良かった」などと、日本人は誰も言わないはずだと信じたい。

GHQは、『日本国憲法』で、実権力の暴走に「拒否大権」で歯止めをかけることのできる天皇の「至高の権威」を簒奪・排除した。

そうしておいて、『日本国憲法』自体が禁ずる検閲と洗脳という人権蹂躙を犯して日本国民を騙し、『日本国憲法』と国連憲章の「平和主義」を隠れ蓑に、「民主主義」も「人道主義」も冒瀆しながら、講和締結=戦争完全終了の後も、「日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利を獲得する」(1950年9月8日、トルーマン大統領の対日平和条約基本原則。p.111、矢部同上)とする事実上の占領継続を実現した。

それは戦時国際法、国連憲章、ポツダム宣言、バーンズ回答の全てに違反していたが、トルーマンが対日平和条約交渉責任者に任命したダレスは、勿論そのことを充分承知していた。

《1951年1月26日、来日した翌日のスタッフ会議で、〔ダレスは〕

「この条約の最大の目的は、われわれが望む数の兵力を、望む場所に、望む期間駐留させる権利を確保することである」と、自分にあたえられた使命を復唱しながらも、つづけて、

しかし日本がそのような権利をアメリカにあたえた場合、日本の主権を侵害する条約をむすんだと必ず攻撃されるだろう。この提案を受けいれさせるのは非常にむずかしい」と、珍しく弱気な発言をしていた》(p.111、矢部同上)

だが、ダレスは国際法を熟知した(即ち「法的トリック」を自由自在に駆使できる)ウォール街きっての凄腕弁護士であり、国連憲章の重要な執筆者の一人であった。ダレスは国連憲章の条項と、SCAP=連合国軍最高司令官や、GHQ=連合国軍最高司令官総司令部の名称等にみられるような、ある時は「連合国軍=米軍」、またある時は「連合国軍≠米軍」という字句的混乱を最大限に利用し、日本に「主権侵害の条約」を結ばせることに成功する。

ダレスがアイゼンハワー大統領の下で国務長官を務めたほぼ同時期にCIA長官であった実弟アレン・ダレスとともに、「戦後世界の設計者」「冷戦構造の構築者」(矢部同上)と呼ばれたのは伊達ではなかった。

ダレスの作成した対日平和条約基本方針には次の二項があった。

■軍事上の具体的な問題については、平和条約とは別の二か国協定で決定する

■その二か国協定の条文については、国務省と国防省が共同で作成する

条約・協定の条文作成は本来、国務省(外務省)の役割である。そこへ敢えて「二か国協定(=旧安保条約)は「国防省と共同で」という条件を付けたのは、ダレスが「二か国協定(=旧安保条約)は米軍部自身に書かせる」ことに決めた、ということだった。(p.211、矢部同上)そして、米軍の要求とは、次のようなものであった。

「在日米軍の法的地位は変えない部分的講和(Partial Peace)」(陸軍次官ヴォーヒーズ、p.151、矢部同上)

「政治と経済については日本とのあいだに『正常化協定』を結ぶが、軍事面では占領体制をそのまま継続する」(バターワース極東担当国務次官補からアチソン国務長官宛の報告書/1950年1月18日_p.152、矢部同上)

1949年8月、ソ連が核実験に成功。同年10月には中国共産党の中華人民共和国が成立。1950年2月には中ソ軍事同盟成立。それとともに、米中ソの合意に主眼を置いたマッカーサーの「国連軍構想」と、米国務省の太平洋協定(Pacific Pact)などの集団防衛条約」による日本独立オプションの蓋然性が薄れ、国防省の部分的講和(Partial Peace)」構想に勢いをつけていた。

そして1950年6月25日、スターリンの指示に従った金日成の北朝鮮軍が、ソ連軍を後ろ盾に国境を越えて南下、朝鮮戦争が勃発朝鮮半島を舞台にした米ソ冷戦の「熱い代理戦争」の火蓋が切られ、これで日本から米軍が撤退する可能性はほぼ消滅した。

以下は、当時の陸軍省・占領地域担当特別補佐官マグルーダー陸軍少将による旧安保条約原案の、第14条「日本の軍隊」の第三節(①)から五節(③)までである。

この協定〔=旧安保条約〕が有効なあいだは、日本政府は陸軍・海軍・空軍は創設しない。ただし、それらの軍隊の兵力、形態、構成、軍備、その他組織的な特質に関して、アメリカ政府の助言と同意がともなった場合、さらには日本政府との協議にもとづくアメリカ政府の決定に、完全に従属する軍隊を創設する場合は例外とする

戦争または差し迫った戦争の脅威が生じたと米軍司令部が判断したときは、全ての日本の軍隊は、沿岸警備隊を含めて、アメリカ政府によって任命された最高司令官の統一指揮権のもとにおかれる

③日本軍が創設された場合、沿岸警備隊をふくむそのすべての組織は、日本国外で戦闘行為をおこなうことはできない。ただし、前記の〔アメリカ政府が任命した〕最高司令官の指揮による場合はその例外とする

(1950年10月27日付 米国防省による旧安保条約原案 対訳・番号は矢部氏による p.126矢部同上)

マグルーダー原案10.27⑥第14条345節

左がその原文であるが、米国務省の「Office of Historians」サイトで閲覧できる。https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1341(最後4ケタの数字はページ数。「マグルーダー原案」はp.1336からp.1342まで)

「日本は軍隊を自己裁量によって持つことは許されないが、米国政府がその必要があると判断したとき、米国政府の助言と同意がともなった場合に限り、軍隊を持つことができる。その軍隊は、米国政府の決定に完全に従属し、米国政府によって任命された最高司令官=在日米軍最高司令官の『統一指揮権』の下に置かれる。その軍隊は日本の自衛権の発動としての軍事行動は取れないが、在日米軍最高司令官の指令に従って世界中のどこへでも行って戦う」……

これでは日本は完全な属国、植民地である。この条件下では「日本の軍隊」は、第二次大戦中に米軍の一部としてドイツ戦線で奮戦し、勇猛の名をはせた「日系人部隊」と同じである。

しかし、国民は誰も知らなかったが、このマグルーダーの原案通りのことが、平和条約・安保条約を締結する前に、既に現実となっていた。

朝鮮戦争が始まるとすぐに、マッカーサーの要請によって75,000人の警察予備隊の組織が始動した。(成立は2か月後の1950年8月)

本 Inoffensive Rearmament

(GHQ軍事)顧問団が事実上の警察予備隊の本部とな」り、「(朝鮮に出撃した米軍の)各基地には、日本人の隊員1,000人につき1名、ひとつの基地ごとに最大2名の少佐級の米軍将校」が配属された。「そうした米軍の将校たちは、日本人の新入隊員達を基地に収容し、衣食住を与え、大隊に編入し、また新入隊員の中から部隊長を選び出し、(米軍の武器を使って米軍将校によって)早速軍事訓練を開始した」それはまさしく「米軍を小型にしたようなものになった」「(それが)軍隊であることに、疑問の余地はなかった」(警察予備隊創立責任者、GHQ民事局副官フランク・コワルスキー大佐。日本語訳矢部 p.198)

更に、1950年10月2日、米海軍参謀副長バークからの掃海艇派遣依頼」が、大久保武雄海上保安庁長官に発令された。大久保長官から相談を受けた吉田首相は、「国連軍に協力するのは日本政府の方針」としてこれに同意した。同月6日、米海軍司令官のジョイ中将から山崎運輸大臣に指令が発せられ、海上保安庁の特別掃海艇部隊が朝鮮水域へ出撃。実質戦闘参加し、戦死者1名、負傷者18名を出した。

この時、船長判断で3隻の船が一旦戦線を離れて帰港した。岡崎勝男官房長官に、掃海作業の継続の是非(=新憲法の不戦条項との整合性)について「政府の最高方針を承りたい」と問うた大久保長官に対し、吉田首相は「日本政府としては、国連軍に対し全面的に協力し、これによって講和条約(=平和条約)をわが国に有利に導かねばならない」との回答を与えている。(矢部同上p.205)

(後述するが、吉田が「連合国占領軍=米軍」を「国連軍」と呼んでいるのには深い訳があった。)

上述の原案起草者マグルーダー陸軍少将は、ダレスの交渉団の一員であり、彼が同じく交渉団の一員であったアリソン国務省北東アジア部長(1938年1月26日の、日本軍占領時の南京における「アリソン殴打事件」のアリソンである)と調整作業を行い、国務省担当者ラスクと協議し、トルーマンの承認を得たものに一部修正を加えたものが、1951年2月2日に日本側に提示された『日米安全保障協力協定案』であった。上記の三項は、その第8章にあたる。

この米国側協定案の中で、「基地権」の問題の箇所は「安全保障軍〔=米軍〕は、占領終了時に占領軍の管理下にあった施設〔=基地〕に駐留する」となっていた。

この『協定案』を見た日本側交渉団・条約局長西村熊雄は、「駐屯軍の特権的権能があらわに表示されているため、一読不快の念を禁じ得ない物であった」(『平和条約の締結に関する調書』〔外務省 2002年公開〕)と、後世に残る公文書に記すにしては珍しいほど強い言葉で『調書』に書き残した。(p.100 矢部同上)

この米国案への対応を協議するため、西村らは翌日2月3日に神奈川県大磯の吉田首相の別邸を訪ね、結果4点の修正案が出されることとなった。

《①【再軍備と指揮権の問題】日本の再軍備と統一司令部(=統一指揮権)について書かれた第8章は、丸ごと削除してほしい

②【基地権の問題】(a)占領の継続という印象をあたえないため、在日米軍の持つ特権については条文に具体的に書かないでほしい。(b)占領が終わったあと米軍が使用する基地は、現在の基地をそのままつかいつづけるのではなく、必要なものに限り両国の合意によって決めるというかたちにしてほしい。

③【基本原則の問題】この協定(旧安保条約)が「両国の合意にもとづく」ものだという原則をまもるため、米軍の日本への駐留については、「日本が要請〔request〕し、アメリカが同意〔agree〕する」という表現ではなく、「両国が同意〔agree〕した」と変えてほしい

④【平和条約の問題】米軍が平和条約の発効後も日本に駐留することについては、平和条約の条文には書かないでほしい。》(p。102、矢部同上)

「一読不快の念」を持つという点では、この日本側対策案も同様であった。

「米国案は『占領終了を宣言し、日本が主権と独立を回復するための講和条約』に付随する協定の文面とは言い難い」「占領継続などもってのほか」「対等な二国間が結ぶ条約・協定は『両国の同意』のみにて作成されるのが当然」と非難するのではなく、寧ろ「国民に知られてまずいことは条約には書かず、書くとしても『もっと人聞きの良い言葉』に変えてほしい」と哀願している。

この根底にあるのは、「見た目だけ『主権回復』『独立回復』になっていれば、実情が『占領継続』『敗戦奴隷状態』でも構わない__そのほうが『奴隷村の村長』として他の奴隷どもを支配するこちらに都合がよい」という吉田の卑しい売国奴根性だ。

講和締結後にも占領継続、指揮権無しの再軍備強要は主権侵害だ。到底受け入れられない」と断固撥ねつけるのが当然であったが、売国奴の吉田にとって、日本が主権を持っていようがいまいが、関係なかった。

そうでなければ、「ドイツには許した『占領憲法拒否』と『自主的再軍備』を、日本にだけは許さないという人種差別。世界中どんな小国でも持っている『自衛権』『交戦権』を日本にだけ許さず、そのうえ『天皇の統治権を簒奪して日本の国体を改変』した『日本国憲法』の制定強要。その無法を正当化するために行われた東京裁判を始めとするGHQの『War Guilt Information Program』という名の日本人と国際社会両方の洗脳プログラム__占領軍が行った数々の主権侵害・人権蹂躙を告発する」と強く出ることもできたはずだ。

「占領軍はこんな無法を働いた」「米国はこんな要求をしてきた」と国民に周知すれば、国民は黙っていない。現に、ダレスら米国側交渉団はそれを恐れていた。「国民に言うぞ」だけでも効果はあったはずだ。

『日本国憲法』の制定強要根拠となったカイロ「宣言」・ポツダム宣言のいう「日本の侵略戦争・世界征服の共謀」「台湾・朝鮮の奴隷支配」は、東京裁判でも全く立証されることのなかった、完全なる誣告であった。

「連合国の占領政策の数々の無法に対する日本からの賠償請求は、敗戦の代償としての連合国への賠償と相殺することにしてもよい。ただ歴史の真実だけは取り戻させてもらう。こちらは粛々と『日本国憲法』無効宣言と大日本帝国憲法現存宣言をして占領前に原状復帰するから、まともな平和条約を締結しよう」と、寧ろ日本側が強気に出られる場面のはずだった。

ところがそうはならなかった。なぜか?それは、「講和締結後も米軍が駐留継続」は吉田茂首相自身の以前からの計画であったからだ。

「日本政府はできるだけ早い時期の平和条約締結をめざしている。その場合、米軍を日本に駐留させる必要があるだろうが、もしその希望をアメリカ側から言い出しにくければ、日本側からオファーすることを考えてもいい」

1950年5月3日、吉田茂首相はこの極秘メッセージを、マッカーサーの頭越しに、米国政府に伝えていた。密使を務めたのは側近の池田隼人大蔵大臣である。

同時に、吉田は「外国軍の駐留を平和条約そのものに書いておく」ということも提案していた。《日本の学者たちに検討させたところ、そうしておけば、「米軍の駐留継続は憲法違反だ」という批判に対して、「平和条約は憲法に優先する」という論理で押し切れるという判断になったから》だった。(p.163, p.103 矢部同上)

『日本国憲法』9条2項を根拠に「日本は軍隊を持てないから米軍の駐留が必要」と誤魔化しながら、日本政府自らがそれを望んだという売国の事実を国民から秘匿するまやかしの密室政治・密室外交によって『日本国憲法』の「国民主権」を死文化させ、民主主義までも愚弄している。

「平和条約は憲法に優先する」?__吉田の真意は、「自分が手を結んで日本を支配させている米国防省の意向が、その支配者が敗戦奴隷・日本に持たせている『奴隷の宣誓書・日本国憲法』に優先するのは当然」であったのではないか?

最終的に、条文は「平和条約の発効後、すべての占領軍は90日以内に日本から撤退するが、その規定は二国間協定にもとづく外国軍の駐留をさまたげるものではない」という表現になった。

そもそも吉田は、西村らが「一読不快な」米国側条約案を見せられる前の1月29日、第一回吉田・ダレス会談において、「日本が自尊心を傷つけられずに承認できるような条約をつくってもらいたい」と言っていた。最初から、日本の米軍による占領継続は、吉田の頭の中では決定事項だったのだ。

「日本が」と言いながら、その実「(私〔=吉田〕の立場が悪くならないよう、次の総選挙でも勝てるよう)体裁の良い条約を作ってくれ」としゃあしゃあといい、「日本の自尊心が傷つかない」どころか、己の私利私欲のために日本の主権と誇りを売り飛ばしたのだ。

実際、協定発効後の米国務省への報告書で、ダレスらも「次期総選挙で最も親米的な吉田政権が敗北することを避けるため、日本側に条文のことで譲歩した」と言っている。(p.114 矢部同上)

しかしながら、日本側修正案③の、「条約は両国間の同意に基づく」という国際社会の常識的基本原則は、あっけなく突っぱねられる。ダレスは、米国交渉団の日本到着時の羽田空港でのスピーチで、「日本は『交渉(negotiate)の相手』ではなく『相談(consult)の相手』」と表現して、勢い込んで迎えた日本の外務官僚達の出鼻を挫いてみせていた。(p.98矢部同上)勿論、この場合の「相談」には日本における「目上の者に相談」のニュアンスはない。「交渉」においては、対等な二者の「合意」に向けた「妥協」の余地が有りうるのに対し、占領軍=米国が被占領国日本に「相談」といえば「要求とその確認」であり、それが覆る余地は全くなかった。

条約条文を外交官でなく軍人に書かせたことといい、ダレスや米国政府は「日本に対して『人種偏見』を持っていた。有色人種として『普通の白人主権国家と対等』とみなしてはいなかった」といえる。

吉田達は、しかし、第8条の再軍備についての条文の削除を頼む一方で、「非常に重要な提案をふたつ、アメリカ側に文書でつたえることにした。」

《「〔第8条のような〕文書は削除したい。しかし、それは日本が軍備をもち、交戦者〔=戦争をする国〕となることを拒否するという意味ではない」と、それまでの公式見解を180度転換し、同時に「再軍備の発足について」という別の文書をとどけて、自衛隊の前身である保安隊(5万人)の発足を約束した。つまり正式に「軍隊」を発足させることを、アメリカ側に約束した》のだった。(p.104 矢部同上)

吉田はここで、「再軍備密約」をした。『日本国憲法』施行以来最初の、日本政府による9条2項の「解釈改憲」であった。

さらに、2月3日、自宅で吉田が西村達に強調した、米国側原案の第8条を削除してもらう代わりに日本側が行った米国へのもう一つの提案とは、「こうした問題には共同委員会〔=のちの日米合同委員会〕を大いに活用すべきである」「とくに再軍備の計画や、緊急事態または戦争への対応について徹底的に研究し、計画を立てるさせるとともに、駐留軍の基地や経費、法的地位についても研究させることにする」ということであった。(p.106 矢部同上)

米軍の「占領継続」を受け入れることを前提としていた以上、ここで吉田がいう「研究」「計画」とは、「日本の独立・主権回復のために」ではなく、日本国民をうまく騙しながら、言いくるめながら、実際に米軍の要求通りに便宜を図るにはどうすればよいかを、秘密裏に話し合う」ということに他ならない。

この「願ってもない」吉田の提案をダレスが受け入れ、この後、平和条約及び安保条約の交渉は、全てこの「基本方針」に沿って進んでゆくことになる。

(『日本国憲法』+GHQ『皇室典範』+)「サンフランシスコ平和条約」+「旧安保条約」/「60年安保条約」+「行政協定」/「地位協定」+「日米合同委員会での密約」「交換公文や口頭での密約」=「米軍主権」という方程式ができあがったのである。

『日本国憲法』の「象徴天皇」「国民主権」が国民を欺いたように、「非常に公正寛大」な平和条約の陰で、それ自体が巨大な密約だった「国辱の」旧安保条約には「吉田一人が調印」して、日本国の主権を売り渡し、事実上の占領継続状態が実現した__「戦後日本の米軍による支配と日本政府・官僚による売国の密約外交」=「戦後レジーム」が、ここに誕生したのであった。

結局、「占領軍=米軍が講和締結後も日本に駐留し、特権を享受する」ということは、平和条約にも安保条約にも書かれず、あまり国民が目を通す機会のない「日米行政協定」に書かれた。

「日米行政協定」(1952年)第3条1項

合衆国は、施設及び区域(facilities and areas)〔=米軍基地〕内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のため必要なまたは適当な権利(rights)、権力(power)および権能(authority)有する(shall have)

合衆国は、また、前記の施設および区域〔=米軍基地〕に隣接する土地、領水および空間または前記の施設および区域の近傍において、それらの支持、防衛および管理のため前記の施設および区域への出入りの便を図るのに必要な権利、権力および権能を有する。本条で許与される権利、権力および権能を施設および区域外で行使するに当っては、必要に応じ、合同委員会を通じて両政府間で協議しなければならない。》

前半部分は「アメリカは米軍基地の中で、何でもできる絶対的な権力を持っている」ということであり、後半部分は、「アメリカは米軍基地の外でも自由に動ける権利=基地にアクセスするための絶対的な権利を持っている」、つまりは「日本当局の関知しないところで、日本中どこでも自由に出入りし、動き回れる絶対的な権利・権力・権能をもっている」=「在日米軍基地内だけでなく、日本のどこでも在日米軍そのものには日本の主権が及ばない」=「米軍が日本の主権を握っている」ということなのである。

また、「支持」は意図的誤訳で、「軍事支援」の意味である(矢部)から、この第3条1項は「アメリカは、軍事行動を行ううえで必要な、在日米軍基地へアクセス(出入り)するための絶対的な権利を持っている」ということも言っているのである。(pp.74-78 矢部同上)

この「行政協定」は「秘密協定」として、その条文は公表されない(ダレス→吉田、1951年4月18日)ことになってはいたが、「これでは占領継続と一緒だ」という声が、いつしか国民の中から上がるのも当然だった。そこで、1960年に岸信介によって、この「日米行政協定」は改定され、「日米地位協定」となった。上記の第3条1項は、以下のように変わった。

「日米地位協定」(1960年)第3条1項

合衆国は、施設及び区域〔=米軍基地〕内において、それらの設定、運営、警護および管理のため必要なすべての措置を執ることができる(may take)

日本国政府は、施設および区域〔=米軍基地〕の支持、警護および管理のための合衆国軍隊の施設および区域への出入の便を図るため、合衆国軍隊の要請があったときは、合同委員会を通ずる両政府間の協議のうえで、それらの施設および区域に隣接し、またはそれらの近傍の土地、領水および空間において、関係法令の範囲内で必要な措置を執るものとする合衆国も、また、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で前記の目的のため必要な措置を執ることができる。》(pp.74-78 矢部同上)

「権利・権力・権能を有する」という表現が「必要な措置を執ることができる」と柔らかい表現に変わり、主語が「合衆国」から「日本国政府」に変わった。合衆国が譲歩し、日本政府が法的コントロールを取り戻したのか?岸信介の謳った「対等な日米新時代」がやっと来たのか?

そうではなかった。米軍の要求する「絶対的な権利」はそのままで、日米合同委員会において「関係法令」の方を改正または解釈変更して、日本国民のあずかり知らぬところで、密約によって辻褄を合わせる、というカラクリであった。

「対等な日米新時代」は、やはり見せかけだけのまやかしだったのだ。

60年安保闘争 国会前

1959年4月、60年安保改定交渉時、岸信介首相と、首相と個人的にも親しかった藤山愛一郎外務大臣の二人と、帝国ホテルの一室で密談を続けていたマッカーサー駐日大使(連合軍総司令官マッカーサーの甥)からワシントンの国務長官に宛てた極秘電報は、「彼〔藤山〕は、行政協定について提案した。日本政府は本質的にいって、行政協定を広く実質的に変更するよりも、見かけ(appearance)を改善することを望んでいる。そうした場合には、圧倒的な特権が米軍に与えられ、実質的な〔改定〕交渉にならないだろう」(1959年4月13日公電)「彼ら〔岸・藤山〕は、かなり多くの改定を考えてはいるが、その多くは形だけのもの、すなわち、国会に提出された場合に、行政協定の見かけ(appearance)を改善するだけだ」(1959年4月29日公電)

「私は行政協定の実質的変更を避けるように、岸と藤山に切れ目なく圧力をかけてきた。岸と藤山は、われわれの見解を理解してきたし、幾人かの閣僚にも反対して、行政協定に大きな圧力を加えたい扇動的な保守政治に反対する線をしっかり維持してきた」

(1959年4月29日公電)と、マッカーサー大使自身により実行された米国からの圧力の事実とともに、日本政府_岸首相と藤山外相_の、反安保勢力を封殺して米国に隷従する様を、明らかにしている。

だがこのほぼ3か月後、1959年8月3日に「ボン協定」が調印されると、社会党ら反主流派とあらゆる安保・行政協定反対勢力がこの内容を吟味し始め、岸・藤山とマッカーサー大使を慌てさせる。

「ボン協定」(正式名称「西ドイツに駐留するNATO軍の地位に関する諸協定」)の、ドイツの主権を尊重し、基地権を含めたNATO軍運営に対するドイツの自律権・自国利益追求権を保障した内容が、「藤山と岸が日本の国益を守っておらず、ドイツが交渉でドイツ人のために獲得したものも獲っていないということ」(藤山の弁、1959年9月10日マ大使→米国務長官公電)を白日の下に曝してしまったからであった。

万事休す、とマッカーサー大使も米国務省も思った。しかし、岸・藤山がマッカーサー大使に提示した「解決策」は、既に見たように、「権利・権力・権能」という直接的表現を取り払って、あたかもそれが「消失」したかのような錯覚を国会と日本国民に与え、「米軍主権」の実質は以前のまま、という「密約法体系の継続」であった。

「必要な全ての措置を執ることができる」という言い回しを「ボン協定」からとることによって、「『行政協定』の改訂版は『ボン協定』と同じ」という錯覚を与える、というアイディアも岸・藤山の提案であった。

《施設および区域内における「権利、権力および権能」の問題は、われわれの交渉がこれまで合意に達しない核心の問題だった。それが今や、その防衛責任を十分に果たすために必要なすべての措置を執ることができる(第53条第1項)という文言を、ドイツ協定は使っているようにみえる、そこには、実質的な違いはないようにみえる、ドイツ協定は現行の日米行政協定にある政治的に目障りな言いまわしは避けているのだ、と藤山は述べた。》

《コメント:ドイツ〔協定〕の条文がわれわれに受け入れられるものなら、それは好ましいことだ。しかしながら、もしワシントンが望むなら、冒頭のところでは「それらの設定、使用、運営、警護および管理のための必要なすべての措置を執ることができる」という言い回しを申し出てもよい。それは、日本にとって受け入れられるものであり、そして、現在の表現にある攻撃的な意味合いはないが、われわれが必要とし、また現に今持っているものすべてを与えてくれるものだ。》(1959年9月10日公電マ大使→米国務長官)

「ボン協定」では、NATO軍が「(NATO軍基地内の)設定、使用、運営、警護および管理のための措置」を執るためには、「ドイツ国内法と同等またはより厳しい内容を有する派遣国の国内法規を適用する」ことが定められている。それを、日米地位協定では、米国側は抜け目なく「必要な全ての措置が執れる」範囲を広げることによって、「米軍のやりたい放題=米軍主権」を守り通したというわけだ。

しかし、その抜け目なさも日本政府(岸・藤山)の「自主的な主権放棄」あってのことであった。

《いまだ協議中の行政協定の諸条項に関しては、日本の公衆に知らせることがきわめて重要なのだが、彼らは重要な政治問題を自分たちの手中にしまいこんでいる。》

(マッカーサー、1959年9月10日公電。上記4件の極秘公電は末浪靖司『機密解禁文書にみる日米同盟』pp.115-119、p.128, p.132)

この日本政府の「主権売り渡し」と米国務省の「『米軍主権』維持政策」は、砂川事件の最高裁判決(1959年12月16日)において、その最高潮への到達を見る。

砂川事件1955
砂川事件(1955年頃撮影)

「在日米軍は憲法違反」「立川基地敷地内に侵入した被告全員の無罪」を言い渡した1959年3月30日の東京地裁判決(伊達判決)をうけ、「翌年に予定されていた安保改定に影響が起こることを恐れたマッカーサー駐日大使が、判決の年内破棄をめざして激しい政治工作を展開した」(p.274、矢部同上)のだった。

一審判決が出た翌日、マッカーサー大使は藤山外務大臣を呼び出して、裁判の期間を短縮させるため、東京高裁を飛び越えて直接、最高裁に上告するように指示」「さらにその後は、田中耕太郎・最高裁長官と情報交換をしながら裁判をコントロールし、同年12月16日に計画通り、最高裁で一審判決を破棄させた」(pp.274-275、矢部同上)

田中耕太郎最高裁長官は、講和条約締結前の1950年から1960年まで、その任にあった。末浪靖司によれば、GHQと米国務省は、吉田内閣が「反共の理論家」として最高裁長官に任命した田中耕太郎の、「侵略戦争賛美派からマッカーサー元帥賛美派へ」の変節の経歴も、全て熟知していた。1960年10月24日に最高裁長官を退任する田中が、2か月前の8月18日、国際司法裁判所判事立候補への支持を取り付けるため米国務省を訪れた折には、ハワード・バーンズ国務次官補が国務長官代理への覚書で以下のように述べていた。

《占領終了と日本の主権回復から今日までの期間にわたり、〔田中耕太郎が〕最高裁長官として職務していたあいだ、日本の最高裁は、日本の戦後政治の発展方向を確定する判決を引き継ぐよう求められてきた。これらの多くの事件では、1959年12月の砂川判決のように、自衛隊を創設し、アメリカの軍事基地を許容した政府の権利を確定し、日米関係に影響するきわめて重要な効果をもたらした。》(末浪同上p.85)

因みに、矢部宏治によると、日米合同委員会の日本側代表代理のポストは、法務省大臣官房長が務めることになっているそして、歴代の法務省大臣官房長は、その多くがその後法務省トップの事務次官職を経て、検事総長になっているとのことである。

「最高裁長官」「検事総長」という日本の法律家の司法・行政のトップもまた、米軍の支配下にあって、「日本の戦後政治の発展方向を確定する判決を引き継ぎ」「日米関係に影響するきわめて重要な効果をもたらしている」ということになる。

そのことも踏まえて考えれば、「戦後レジーム」を固定化させた60年安保改定直前に、この田中耕太郎が出した砂川裁判最高裁判決が、「『日本国憲法』正当化」「『統治行為論』に基いた米軍基地問題に対する裁判権の放棄」=「日本の主権放棄」ともいえる内容になっていることは、象徴的なものがある。


砂川裁判最高裁判決・要旨(最高裁判所判例委員会編『最高裁判所刑事判例集』第13巻第13号)

①(略)

② 憲法第9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことにともない、日本国民が過去における我が国の誤って犯すにいたった軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および第98条第2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化したものである。

③ 憲法第9条第2項が戦力の不所持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、みずからその主体となって、これに指揮権、管理権を行使することにより、同条第1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすことのないようにするためである。

④ 憲法第9条はわが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定してはいない。

⑤ わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立をまっとうするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使であって、憲法はなんらこれを禁止するものではない

⑥ 憲法は、〔上記〕自衛のための措置を、国際連合の機関である安全保障理事会等のとる軍事措置等に限定していないのであって、わが国の平和と安全を維持するためにふさわしい方式または手段であるかぎり、国際情勢の実情に則し適当と認められる以上、他国に安全保障を求めることをなんら禁ずるものではない。

⑦ わが国が主体となって指揮権、管理権を行使し得ない外国軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても憲法第9条第2項の「戦力」には該当しない。

⑧ 安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見きわめて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。

⑨ 安保条約(およびこれにもとづく政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第2条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。

⑩ 安保条約(およびこれにもとづくアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第9条、第98条第2項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見きわめて明白であるとは認められない。(略)

(参考:矢部同上のコラム)


これは、日本人(=最高裁)が日本人として日本人に向けて書いたものではなく、『日本国憲法』同様、「日本の支配者=宗主である米軍が、植民地である日本の、敗戦奴隷である日本人(=最高裁・日本国民)に『言わせている』もの」だと認識して読むと、明快に理解できる。

②と③は、勿論「連合国=米国絶対正義」の立場から『日本国憲法』の正当性を確認させている。『日本国憲法』特に前文・9条2項は、「軍国主義の日本政府がまた侵略戦争を起こして『戦争の惨禍』に日本国民を巻き込まないように」「日本国民自身が反省し、決意して、『自ら』制定した」ものである、という二重のフィクションを、日本国民に念押しさせているのだ。

③では特に、「(日本が)戦力を保持し、みずからその主体となって、これに指揮権、管理権を行使することにより__侵略戦争を引き起こすことのないよう」と付け加えることによって、例え戦力を保持したとしても、「日本がその軍隊の主体とならず、指揮権、管理権を持たないならば、侵略戦争にはならない」と、米軍の日本の軍隊=自衛隊に対する統一指揮権を正当化しながら、サラリと超自虐的なことを言わせている。

④⑤は、要するに米軍の駐留をこじつけ的に正当化しているわけだが、ここで持ち出された「主権国として有する固有の自衛権」「国家固有の権能の行使」が、「外国軍(つまり米軍)の日本駐留」に特化されたものであることに注目する必要がある。

「日本の主権国家としての固有の権利・権能」をいうなら、そもそも東京裁判で、「大東亜戦争は自衛の戦争だった」と主張する権利が日本にはあった。「日本の『侵略』など連合国の言いがかり、誣告である」と、はっきり国際社会に向けて主張できるはずだった。

当時ほぼ全世界の先進国が日本の敵側に回っていたとはいえ、国家固有の権利・権能は、戦勝国・敗戦国という立場や、まして主観的な「善悪」などに左右されるものではない。パリ不戦条約で決められたとおり、「その戦争が自衛かどうかの決定は当事国の裁量に任されている」そしてその裁量権はどんな小国であろうとも有するからである。

だが、米軍の独裁統治となった占領下の日本は、そもそも東京裁判の「偽証罪なし、たとえ伝聞だろうが言ったもの勝ち」「反対尋問なし」「弁護側証拠は片端から却下」という出鱈目ぶりを批判することすら許されていなかった。当然その判決への上告など許されるはずもなく、連合国の誣告を告発することも叶わないまま、「侵略戦争を起こした残虐な軍隊」の冤罪を着せられたまま、無実の戦争指導者達が処刑されたにも拘らず、戦後70年を過ぎても、東京裁判の検証自体を許されていない。

「どんな小国もその国民も、国家として、人間として当然有する権利である」と、連合国の欧米列強自身が崇高に謳う「自然権」が、日本一国にだけはない。これはそういうことなのである。

⑧⑨⑩の、「米軍駐留の違憲・合憲判断」に触れたくないがために持ち出され、マッカーサー大使を至極喜ばせた、反法治主義・憲法違反の「統治行為論」についても同じことがいえる。

『日本国憲法』第81条には、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」とあり、「それが一見きわめて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解する」とする判決は、最高裁の責務放棄・憲法違反である。第一「一見きわめて明白に違憲無効と認められる」事項のみ扱うのであれば、法律の素人にもできるということになるはずだが、ここではそれは脇に置く。

「主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度の政治性を有する」問題というなら、本来なら「安保条約の合憲違憲」よりもまず、「国体破壊・主権侵害の『日本国憲法』自体の有効性・妥当性」こそが問われなければならない。

そして、『日本国憲法』の成立過程を検証すれば、大日本帝国憲法の改正方法に則っていないこと、全ては「日本人自らの手で行われた」という欺瞞の下、占領軍により暴力の威圧によって強要されたことが明白である。つまり、『日本国憲法』が大日本帝国憲法違反・国際法違反、即ち無効である、ということこそが「一見きわめて明白」である。

だが東京裁判と同様、この砂川裁判もまた「米軍の日本支配戦略の一環」に過ぎなかった。

《マッカーサー大使をはじめアメリカ大使館は、最高裁砂川裁判の動きをそのつど詳しくワシントンの国務省に報告していました。砂川事件の被告弁護団が提出した答弁書や大法廷での弁論内容は直ちに英訳され、マッカーサーやレンハート公使のコメントをつけて国務省に送られました。》

《大法廷で弁護団は、米軍駐留が憲法違反であることを証明するために、米第七艦隊の艦船が横須賀基地から出て台湾海峡の紛争に出動していることを指摘しました。すると、その弁論は直ちに英訳されてアメリカ大使館からワシントンの国務省に送られ、さらに国防総省や統合参謀本部をへて太平洋艦隊司令部に回送され、そこで反論が書かれました。それが日本に送り返され、米大使館→外務省→法務省→最高検察庁という逆のルートで最高裁大法廷に提出されました。》(p.70 末浪同上)

砂川裁判で、米軍駐留を違憲として争った日本人が相手にしていたのは、日本国ではなく米軍太平洋艦隊司令部であった。

つまり、この砂川裁判最高裁判決は、米軍太平洋艦隊司令部によって書かれたということだ。

同じ日本人の憲法学者・最高裁長官・最高検察庁は、米軍の意向を日本人に伝える「使い走り」に過ぎなかった。

この判決が意味することは、であれば、単に「在日米軍を国が合憲と認めた」ということに留まらない。

最高裁判決だけでなく、「米軍の駐留は違憲」とした東京地裁の伊達判決にも言えることだが、「講和条約締結後の外国軍の駐留」を、「『日本国憲法』に違反か否か」だけで捉えようとしているところで、既に日本側関係者一同が思考停止している。

普通の独立国家の最高裁判決としては途轍もなく支離滅裂でも、既に述べたように「宗主」米軍が「植民奴隷」日本にいわせている「宣誓書」としてみれば、その真意は一目瞭然だ。

日本は、「『日本は侵略国家であった』とした東京裁判の判決を受け入れたが故に、戦力放棄の『日本国憲法』を自主的に制定した」という二重の虚構を全面的に受けいれ、疑うことをしない。(②③)

自衛隊は日本のための戦力ではなく、日本はその主体ではない。同様に自衛隊の指揮権も管理権も、日本が持てば侵略戦争を引き起こすので、それらの権能は米軍が持つ方がよい。(④⑤)

『日本国憲法』は連合国総司令部GHQの名のもとに連合国総司令官=米陸軍大将マッカーサーが書かせたものであるから、米軍が米軍のために都合よく解釈してよいのである。そして、日本で憲法や条約、協定が「国連」といったら、それは米軍のことなのである。(⑥)

日本の実権力たる立法・行政・司法は米軍に支配されており、日本の「至高の権威」天皇はその日本の実権力の下位にある。つまり、日本は全体として米軍に主権を握られている。『日本国憲法』は宗主たる米軍が植民奴隷・日本を統制するために書いたものであるから、『日本国憲法』によって宗主・米軍が統制されることはあり得ない。(⑧⑨⑩)

これが、砂川裁判最高裁判決の本当の意味だ。

マッカーサー大使は、ダレス国務長官に宛てた公電の中で、

《日本政府が確信をもって予測しているように、最高裁がこの一審判決を明確なかたちでくつがえすことができれば、(略)日本が自衛のために適切な措置をとる権利をもつことを、健全なかたちであきらかにすることになるでしょう》(1959年4月1日、藤山外務大臣に直接最高裁へ上告するよう指示した翌日。p.282、矢部同上)

と言っていたが、「日本が自衛のために適切な措置をとる権利」とは「どんな小国でも持っている、自衛のために自前の軍隊で戦争をする権利」のことではなく、「米軍に日本に駐留してもらい、日本以外の侵略国が攻めてきたときには米軍に守ってくれるようお願いする権利」のことである。

旧安保条約第一条には「平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」とあり、それは「米軍は日本全土を自由に利用し、在日米軍基地から世界中のどこへでも出撃」することのできる権利を「日本から与えられており」その武力を「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することが『できる』」_つまり『米軍は日本を守ってもいいが、守らないのも自由だ』_という意味である。

第一次交渉で合意した条文(「2月9日案」)には、米軍の日本駐留は、「日本の防衛だけを目的とする(would be designed solely for)」と書かれていたことを考えると、まさに完全な詐欺にあったと言っていいような変更》(矢部同上 p.238)が、いつの間にかなされていた。

主権を米軍に握られた植民地・日本の「安全」は、宗主・米軍が米軍自身の利益のために必要と判断した場合にのみ守られる、という程度のものでしかないのだ。

では、マッカーサー大使の言う「健全なかたちであきらかにする」とはどういう意味か?それはもちろん、これまでの「不健全なかたち」=「密約」という形でなく、「最高裁判決」=「堂々たる最高裁判所の司法判断」という「健全なかたち」で、「米軍の、駐留を始めとする日本における特権」=「米軍主権」の正当化がなされた、ということなのである

だが、これでも、米国にとっては十分ではなかった。1950年の警察予備隊設立、および海上保安庁の特別掃海艇部隊の朝鮮戦争への出撃、という既成事実によって『日本国憲法』9条2項は初めて「解釈改憲」され、その後も9条2項の空洞化・死文化は続いているが、「戦力不所持」が『日本国憲法』に書かれている、という事実は変わらない。

「『戦力不所持』『交戦権放棄』が憲法に書かれている」という事実は、日本を丸裸にしたい勢力=国際共産主義者にとって「最後の砦」であるが、反対に、日本の「軍隊」を米軍従属で完全装備にして、「442日系人部隊」のように、米軍の手足として100%使いこなしたい米軍・米国防総省にとっては「譲渡証明・保証書のついていない高額機械」を使用するような、「いつ『それは貴方のものではない』『働きを保証するという約束をした覚えはない』と言われるかわからない」という心許無さがあるのだろう。

現実に、2015年に安倍内閣が「平和安全法制」を成立させるまで、日本政府は「憲法9条があるから」を理由に、自衛隊の「海外派兵」の要請を幾度となく断ってきた。

だが、やっといま、「集団的自衛権」=「自衛隊の海外派兵」が安倍内閣により「健全なかたち」で法的に認証された。残るは本丸・『日本国憲法』の改正なのである。

1953年には、来日したニクソン副大統領が「『日本国憲法』は誤りだった、改正して9条を削除してくれ」と要請。2004年には、アーミテージ米国務副長官が「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と発言しているが、「健全なかたち」=「『日本国憲法』に明記された日本の軍隊の米軍従属」を望んだマッカーサー2世もまた、その駐日大使の任期中に「憲法改正」を「要請」していた

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『日本国憲法』の「主権在民」「アメリカ流民主主義」、天皇の「人間宣言」は間違っていた。どうか一日も早くGHQの押しつけ憲法を捨てて、日本の歴史と伝統に合った憲法を制定して昔の姿に回復してください…。

1960年2月9日、マッカーサー大使は、汎洋婦人友好会理事長の山野千枝子女史ら7名と会見して、こう発言した。(以下、『WILL』2016年11月号「マッカーサー元帥の非礼を許して下さい」をもとに書く)

米占領軍の、「新憲法へのアメリカ流の民主主義の採用」「日本の国体を無視した天皇の人間宣言」「日本の国柄に合わぬ異質の民主主義憲法の強制」が、根本から間違っていた。

マッカーサー大使はそう言ったのだ。

《実は、民主主義が日本においてこんな姿になるとは誰も想像しなかったのでありまして、全く驚きのほかありません。アメリカは色々な民族の寄り合い国家でありますから、それらを統一し新しい国を建てるのには民主主義が役立ったからといって、日本のように昔から固く団結した国民に対しては、逆にその結合をばらばらにしてしまうという不思議な反対現象が起るものであることを初めて知って驚いたのです。》

《アメリカ国務省は日本の天皇は「現人神」であって、日本はすべて天皇中心でなければならぬことを15年後の今日になって、はっきりと知ったのであります。》(同上)

マッカーサー大使は、アメリカ流ではなく日本型の、天皇を中心とした立憲主義・民主主義についての真実を、ある意味正確に言い当てていた。そして、米国務省は本当に、「天皇の人間宣言は占領統治に不必要で、寧ろ日本人のアメリカへの敵愾心を煽ることになってしまった」と考えるに至ったと推測できる。つい数か月前の砂川事件で、全学連など運動家だけでなく、一般農民らも参加して全共闘運動・安保闘争に火をつけたデモのあまりの激しさに、マッカーサー自身も米国務省も、危機感を募らせていたのだ。だが、勿論のこと、マッカーサーは肝心なことは隠したままだった。

どうか今日お出でいただきました各位が率先されて、一日も早く憲法を日本の歴史と伝統の土台に立ったもとの姿に還元してください」とマッカーサー大使が話しかけている相手は、美容家の山野千枝子氏と、この記事の元になったマッカーサー大使との会見手記を書いたデザイナーの蜂須賀年子氏ら汎洋婦人友好会の面々で、蜂須賀氏の旧華族のコネクションはともかく、実際に政府の政策に影響を与え得る力があるかと言えばそれは「否」であった。だからこそ、女史らはマッカーサーにこう頼んだのである。「大使のお言葉通りのいきさつで行われた三つの政策がまちがっていたということを、全国民に知らせて、天皇制の復元や憲法の改正を実現するきっかけとしたいから、アメリカの日本占領政策はまちがっていたという何らかのメッセージをいただけないでしょうか」と。それに対するマッカーサーの反応はこうだった。

日本はすでに独立しているのですから、もしそこまでのことを公に表明すると、日本への内政干渉として非難されるでしょう。過去のあやまちは認めますが、大使としてそこまでのことはできません。

「日本は独立国家」?「だから『占領政策』『憲法制定強制』間違いだったと駐日米大使が公言することは『内政干渉』になる」??

いや、日本が「独立国家」などではないことを一番よく知っているのはマッカーサーだったはずだ。つい1カ月半前に、日本の独立国家としての地位を否定して駐留する在日米軍の、主権侵害的特権の維持のために、日本の司法の頭を押さえつけながら「砂川裁判最高裁判決」を米軍太平洋艦隊司令部に書かせることによって、日本の主権を何重にも侵害する行為を犯した米国防総省のお先棒を、マッカーサー自身が担いだばかりだった。

「人民主権」という共和制を以て、「万世一系の天皇が統治する」=「至高の権威・天皇を最高権力者の更に上に置いて権力の暴走を抑える」という日本の伝統的統治形態=国体を改変したことは、「過去のあやまち」「占領政策の過誤」等という程度を遙かに超越した重大犯罪行為である

「新憲法制定は日本人が自主的に行った」という虚偽で占領軍の憲法制定強要を隠蔽したこと、その隠蔽行為自体を検閲により隠蔽したこと、「日本は侵略国家」という虚偽・誣告で日本人全体・国際社会全体を洗脳し、人々の目を真実から逸らさせたことは、GHQが「新憲法制定強要」「日本の国体改変」を犯罪と認識していたことの証左である。

重大犯罪の隠蔽を、日本人全体の名誉を棄損し、民族の誇りを失わせて国力を殺ぐ誣告・冤罪によって隠蔽するという、更に悪辣で、二重・三重に非道な「人道に対する罪」を、彼らは犯した。

マッカーサー大使が汎洋婦人友好会の純真な婦人たちを相手に述べた「伯父・マッカーサー元帥の犯した過ちへのお詫び」と「速やかなる憲法改正のおねがい」とは、つまるところ、占領軍=米国の犯した重大犯罪の軽減化であり、「米国の犯罪」を「マッカーサー元帥=米軍=米国防省の犯罪」として自らが属する米国務省を無関係化すること、そして、最も重要なことは、政治的立場にない一般日本国民としてのご婦人方が、「駐日米国大使の立場で公言できないマッカーサーの事情」を鑑みてくれ、「内々に」憲法改正の機運を「日本国民の内側から」高めてくれることであった。

だが、『日本国憲法』改正はなされなかった。

岸信介

岸内閣は1957年、「改憲」「自主憲法制定」を謳って「憲法調査会」を立ち上げていた。

新安保条約と日米地位協定は1960年1月19日、訪米した岸首相とアイゼンハワー大統領によって調印された。それから半年後、そしてマッカーサー大使の「個人的なお詫びの個人的な立場での表明」から5か月後の7月19日、岸内閣は安保闘争の大混乱の責任を取る形で、内閣総辞職に追い込まれた。

吉田茂の側近であった池田隼人がその後継となって1964年7月3日、「憲法調査会」は12巻の付属文書を含め5400ページに及ぶ『憲法調査会報告書』を、内閣と国会に提出した。

これほど綿密な調査がなされながら、たった71ページの『憲法無効論に関する報告書』(付属文書第10号)が、たったの100字ほどで、ほんの申し訳程度に無効論を紹介しているだけである。

93ページの『憲法制定の経緯に関する小委員会報告書の概要』を読むだけでも、『日本国憲法』の無効理由が満載なのだが、米軍に主権を売り渡し、言わば「敗戦奴隷の植民地=日本の奴隷頭」となることで利権を貪って来た吉田茂や岸信介らが、自らの既得権を「無効」にし、自らの売国の事実を公表することと同義の「『日本国憲法』無効論」を国民に周知するわけはない。

「『日本国憲法』無効論の無視」=「国体破壊・主権侵害による日本支配の継続」という一点で、吉田も岸も、マッカーサー大使・米国務省も、目指すものは一致していた。

ただ、「憲法改正」即ち「92項破棄」で「日本の軍隊が米軍の指揮下で戦う場合のみ集団的自衛権を有すること」を憲法に明示し、「一人前の軍隊」に格上げされた自衛隊の、米軍への隷属を「健全なかたち」で規定することを目指した岸・マッカーサーの構想と、吉田茂の「日本支配構想」は違っていた。

吉田の目指したものは、「9条2項」を利用して指揮権・管理権ごと軍事力を米軍まかせにして日本の経済発展に寄与させ、その旨味を吸い上げる「日本経済支配」であったと思われる。

吉田の側近・池田隼人が首相になって岸の「憲法改正」を潰し、そこから国民の目を逸らせるため庶民受けのよい「所得倍増計画」を打ち立てたことは、当然吉田の「9条利用」の筋書きに沿ったものとみて間違いないであろう。

これは想像の域を超えないが、この吉田の「日本支配計画」は、米英の国際金融資本家の意を受けたルーズベルト、チャーチルらと何らかの連携があって、日米開戦前から準備されたものだったかもしれない。

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当ブログ別稿「原爆と真珠湾:あの戦争の真実を、オバマ広島演説の自己欺瞞が覆い隠している」にも書いたが、日米開戦の嚆矢は、確かに日本側の「真珠湾奇襲攻撃」であった。が、その「第一撃」は、「日本挑発行動8項目」をルーズベルトに進言した「マッカラム覚書」(1940年10月7日付)に始まる、「事実上の戦争行為」である米国の「日本資産凍結」(1941年7月26日)「対日石油禁輸」(1941年8月1日)といった日本への経済封鎖など、ルーズベルトの稠密な謀略により「日本が撃たされた」ものであった。

そして、石油備蓄の限界から、「緒戦で優勢を確保し、短期決戦で有利な講和につなげる」作戦しか道のなかった日本軍の、渾身の「第一撃」を「卑怯な騙し討ち」にしたのは、他ならぬ駐米日本大使館の外務官僚たちであった。

参事官井口貞夫は、開戦前日に受けた本省からの「訓令次第何時にても米側に手交し得る様文書の整理其外予め万端の手配を了し置かれ度し」「手交時間は12月7日午後1時」「重要な文書であるので現地のタイピストを使わず書記官クラスを使え」との明白な指示を無視して、大使館内に緊急体制を敷かなかった。電信課責任者・堀内正名の宿直の申し出も、不要とした。そして7日午前4時頃、電信課員を一斉に引き揚げさせた。そのくせ帰国後、東郷茂徳外務大臣に手交遅延の理由を問われて「自分の管掌事務ではない」と電信課員に責任を擦り付けている。

大使館内でただ一人タイプが打てる外務官僚で、開戦前日に暗号で送られてきた「最後通告」の解読文を、タイプに打ち込む担当であった一等書記官奥村勝蔵は、6日午後8時頃までには解読が完了していた第13部までの浄書をせずに、友達の家にトランプをしに行ってしまった。7日当日朝送られてきた第14部電信は、70語8行しかない短いものであったから、前夜13部の浄書をそのまま仕上げていれば、7日午後1時の手交時間には絶対に間に合ったはずである。

ドイツ語が専門で英語は流暢ではなかったが、「ルーズベルトと旧知の仲」であることで駐米大使となった野村吉三郎は、1時間20分も遅れて国務省のハルと面会し、「日本軍の真珠湾卑怯撃ち」を面罵された後、日本大使館に詰めかけた米国新聞記者たちを相手に、「本省が指定した手交時間は1時=真珠湾攻撃開始22分前前」であった事実(つまり外務省の「不手際」のせいであるという事実)を述べて日本の名誉を護ることをしなかった。

1941年12月1日の御前会議において、天皇から「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があったことは野村も承知していたはずである。現に11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」と野村自身が意見具申していたのだ。ハルが言ったとおり、例え浄書が間に合わなくても、本省の指示通り午後1時に米国務省へ赴き、「重要文書の手交がある」事実のみ伝えるだけでも、「大国としての信義」を通すことはできたのである。

ここまで状況証拠が並んでいては、これらは「職務怠慢」「失態」に見せかけた、外務省の「未必の故意」であった、と判断するほかない。

では、吉田茂は、この「真珠湾『卑怯撃ち』確定作戦」には関わったのか?状況証拠はある。

吉田は井口を51年に、奥村を53年に外務次官に抜擢している。

GHQ占領開始直後、外務大臣に就任した吉田は奥村をまず参事官に抜擢。1945年9月27日の第一回天皇・マッカーサー会見の時、宮内大臣、侍従長ら随員5名をさしおいて通訳官としてただ一人会見そのものに同席させる。このことは吉田が天皇・マッカーサー会見の内容についてコントロールする力を持ったことを意味する。

ジョージ・アチソン政治顧問代理は国務省宛の電信(19451027日付)で、昭和天皇がマッカーサーとの会見で「真珠湾のことは東條に騙された」と語ったと書いているが、「卑怯撃ち」は完全に外務省のせいと解っている今、この「昭和天皇の発言」が吉田の「外務省の責任隠し」であった可能性は低くない。昭和天皇がそう仰ったのが事実だとしても、後述するように、吉田は1945214日の『近衛上奏文』作成にも絡んでおり、昭和天皇の歴史観に多少の操作を加えることもできる立場にあった。

井口貞夫は外務次官として、1951年1月に始まった平和条約締結への交渉団に加えられた。先述したように、交渉団には西村熊雄条約局長のように、米国案の「日本は全部オレ達のもの」的傲岸不遜な文面に「一読不快」の念を覚えるまともな日本人もいた。だが、そういう人間は、実質的交渉の蚊帳の外に置かれた。

占領終了後の日本を、それとわからない形で米国に売り渡す密約は、吉田自身の手でとうの昔に結ばれており、(1950年5月3日、密使・池田隼人)ウォール街の敏腕弁護士・ダレスの手練手管に、日本側交渉団はなすすべもなかった。というよりも、ダレスのやり方があまりに複雑・巧妙で、ナイーブな日本人は、自分達が嵌められていることに気づきもしなかった。だが、井口貞夫だけは全てを知っていた。ダレスら米国側交渉団が井口一人をミーティングの前夜に呼び出して、条文の変更内容を伝えることもあった。井口貞夫は吉田茂と米国務省の間の「密約交渉外務省窓口」だったのであろう。

吉田茂

吉田が3歳になる前に養子縁組をした、実父・竹内綱の親友・吉田健三は、1868年から3年間、ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長であった。竹内綱と吉田健三も武士として活躍した明治維新の折、長州五傑や坂本龍馬らを武器商人として支援したグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店である。サッスーン財閥と同様「東インド会社」を前身とし、アヘン密輸・密売で巨万の富を得たジャーディン・マセソン商会は、ロビー活動により英国軍の派遣を勝ち取り1840年の「アヘン戦争」勃発に深く関係していた。「アヘン戦争」による収益を英国に送金するために創立された香港上海銀行(HSBC)は、最大株主であるサッスーン財閥を筆頭に、ジャーディン・マセソン商会やロスチャイルド系役員で構成されていた。

吉田茂は、40歳で急死した養父・吉田健三の50万円という莫大な遺産を、わずか11歳で相続し、自嘲気味に「吉田財閥」と呼んでいた。

吉田茂の、ジャーディン・マセソン商会の「中国でのアヘン密輸・密売事業=中国利権」との養父を通した接点、1906年の外務省入省後20年の殆どを中国大陸で過ごした経歴と、それにもかかわらず「親英米派」と呼ばれる事実は、吉田が「英米の国際金融資本家とのコネクションを背景にした、市場としての中国重視」の側面を持つことを示唆している。

吉田は1939年に「待命大使」となって外交の第一線を退いたことになっているが、政治的活動は一層活発に行っていた。

殊に、「親英米派」として日米開戦前には「開戦回避工作」、開戦後は東条内閣の倒閣運動、「戦争の早期終結を目指す工作」を進め、陸軍当局・憲兵隊から「ヨハンセン(吉田の反戦)グループ」と呼ばれてマークされる一派のリーダーと目されていた。

その一派の顔ぶれは、同様に軍当局・憲兵隊の暗号の呼び名でいえば、「コーゲン」(近衛文麿)、「シーザー」(幣原喜重郎_外務次官当時の上司)、「ハリス」(鳩山一郎)の他、岳父・牧野伸顕(同じく親英米派)、樺山愛助(ロックフェラー財団などの国際的的文化事業にも携わった事業家)原田熊雄(元西園寺公望秘書_母親はドイツ武器商人を父に持つ日独ハーフ)、さらには米内光政ら海軍「穏健派」まで広がっていた。

1945年2月14日の『近衛上奏文』は、この「ヨハンセン・グループ」の天皇への「戦争早期終結工作」であった。一説によれば(「ヨハンセングループ」「岩淵辰夫」wiki)吉田茂、近衛の秘書・殖田俊吉、ジャーナリストの「イワン」こと岩淵辰夫らが『上奏文』草稿作成に関与している。

上奏前日の2月13日、近衛は吉田邸を訪れ書き上げた『上奏文』をみせ、牧野伸顕にも見せるため「写し」が取られたが、この「写し」を吉田邸の女中・書生として入り込んでいた軍当局のスパイが押さえ、4月15日、「上奏文内容流布」「陸軍当局の『赤化』中傷」(陸軍刑法第99条違反、「造言飛語」罪)の疑いで吉田と殖田、岩淵が逮捕される。

原田、樺山、「皇道派中枢」小畑俊四郎、更には近衛の逮捕も、憲兵隊司令部は狙っていたとされるが、近衛、原田が取り調べを受けるにとどまった。

『近衛上奏文』の主旨は、「米英は日本の国体変革までは考えていないから、早急に降伏し戦争終結する方がよい。戦争の長期化は、世界同時革命を諦めていないソ連・コミンテルンを利するのみである。彼らが背後から扇動している親ソ・革新派(「統制派」)の将校たちを一掃すれば米英の覚えもめでたく、戦争終結に際し配慮してくれるだろうが、(「統制派」の一掃を)しなければ、敗戦後日本に共産革命が起り、それこそが国体を危うくする」というものだった。

これら陸軍内部の革命分子が「満州事変、支那事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争(対米英戦争)にまで発展させた」と『上奏文』は批判しているが、実のところ、20世紀の「中国の対日戦争」というものが全て、中国国民党による共産党絶滅作戦「北伐」からの、「抗日」の名を借りた中国共産党の「生き残り・漁夫の利」作戦であったことと、国際金融資本家の走狗となった国際共産主義者によって日本が対米英戦争に引きずり込まれた、という事実を考えれば、これらの戦争が共産主義者によって引き起こされた、という点で、『上奏文』は嘘は言っていなかった、とはいえる。

だが、勿論『近衛上奏文』は、国際共産主義者の背後で米英の国際金融資本家達が策動している事実、ひいては「ヨハンセングループ」を率いた近衛や吉田らがこれに直接関与している可能性が濃い、という事実には言及しなかった。

ともあれ、満州事変(1931年9月18日)にも支那事変(1937年7月7日)にも、ソ連・中共・軍閥が三つ巴で絡んでおり、それへ引きずり込まれた日本は、何度も休戦協定を結んで早期終結を図ったのである。だが、協定を結ぶ度、それらを嘲笑うかのような中国側の協定違反、更には中国軍による挑発、なかんずく日本軍民の虐殺事件(「通州事件など」)が何度も引き起こされ、休戦協定を破壊した。にも拘らず、日本軍は、昭和天皇の戦火拡大への憂慮に鑑み、終始「隠忍自重」「不拡大方針」を貫いていた。

その軍部の努力を全て水の泡にして、「日本を中国大陸の奥深くまで誘い込み、泥沼の長期戦に引きずり込んで疲弊させる」という毛沢東の計画(19367月延安にてエドガー・スノーに語る)を実現させた張本人こそ、誰あろう、近衛文麿その人であった。

近衛文麿

第一次近衛内閣は1937年6月4日発足。

1900年の義和団の乱の事後処理に関する北京議定書を根拠に、北京に合法駐留していた日本軍の、空砲を使った中国側も公認の夜間演習に、突如暗闇から実弾が撃ち込まれた「盧溝橋事件」が起るのは、その僅か1か月後の7月7日。

近衛は7月11日盧溝橋事件の和平成立のその日に「北支へ3個師団派兵」声明を発表して和平を破壊したほか、軍部が「これで蒋介石は降参する」「戦争は終わる」と期待した首都・南京陥落(1937年12月12日)の後も、「トラウトマン工作打切」声明・「国民党政府を対手とせず」宣言(いづれも1938年1月16日)によって「支那『事変』→泥沼の『全面戦争』化」を決定的にした。

「支那事変」の呼び名は、近衛内閣により1937年9月に閣議決定されたものである。

「不拡大方針・紛争早期解決」の為と称されたが、戦後東京裁判の影響で、「本当のところは、『戦争』となれば、1935年に米国で成立した『中立法』によって第三国からの物資援助が受けられなくなるからだ」と「日本軍のやることはなんでも悪かった」という文脈で語られることになった。しかし、この戦争を「事変」と呼ぶことで、実は日本は不利益しか得ていない。

■戦争ではないから、大本営設置を戦時に限定していた大本営条例により、大本営が設置できなかった。これは大本営が行うべき陸海軍の一元的情報共有と戦争指導に齟齬をきたした、ということである。旧条例を廃止し、新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令」が制定(1937年11月18日)されて初めて、1937年11月20日大本営は設置された。

■1937年5月1日、米陸軍航空隊大尉クレア・シェンノートが、蒋介石夫人・宋美齢により国民党軍に招聘され、米軍パイロットによる対日航空戦隊フライング・タイガースが、ルーズベルトの承認と資金援助の元に結成された。

■「援蒋ルート」を使った米英ソの国民党への資金・物資援助こそは、日中戦争が終わらない最大の理由であった。国民党は、資金・物資・軍事教練・反日プロパガンダ……戦争継続に必要な全てを米英ソ(独)に頼っていた。これらの国の援助なしには、対日戦争は遂行できなかった。

日中戦争を「事変」と呼ぶことにより、これら米英ソ(独)の事実上の「参戦行為」は『中立法』違反ではない、と強弁できたのである。この「援蒋ルート」さえ無ければ、支那事変は「事変」のまま終わり、日米戦争の必要もなかった可能性がある。

1940年7月22日発足の第二次近衛内閣は、その僅か4日後の7月26日「大東亜共栄圏の建設」を政策とする『基本国策要綱』を閣議決定。同年9月27日には、軍部も昭和天皇も危惧した日米戦争への道を意味する「日独伊三国軍事同盟」を遂に締結。更に同年10月12日に「革新的新体制運動の指導的組織・大政翼賛会」を結成した。

戦後、連合国によって「日本がファシズム国家であった証拠」とされているこれら三つのことは、全て近衛内閣によってなされた。「大政翼賛会」総裁の近衛文麿は、その発会式での演説で「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる」と述べて革新派を落胆させたが、「天皇親政」を強調したことにより同会を本来の「革新(=共産主義)新体制」とは反対の「天皇制ファシズム」の象徴としてしまった。

そして、「米英に敵対」することを宣言したも同然の「三国同盟」によって米英に対日戦争準備の口実を与えておいて、近衛は「戦争開始の責」だけは東條内閣に丸投げした。

国際共産主義者と米英の国際金融資本家を利する形での日本の対中・対米戦争は、このようにして近衛文麿によってお膳立てされた。

近衛文麿は、国際共産主義者に囲まれていた。

第一次近衛内閣で、近衛はそれまで全く面識のなかった風見章を内閣書記官長に抜擢。第二次近衛内閣では、司法経験どころか司法知識もゼロの風見を、司法大臣に大抜擢している。その風見が自ら接近し内閣嘱託に抜擢した尾崎秀実(以上、風見章『近衛内閣』による)は、1928年から上海を拠点に諜報活動をしていた、コミンテルンのスパイであった。

1941年10月15日に尾崎秀実は「ゾルゲ事件」の首謀者の一人とし逮捕され、1944年、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、もう一人の首謀者でソ連・コミンテルン・スパイ、リヒャルト・ゾルゲと共に処刑された。(ちなみに、このゾルゲ事件において容疑者とされた者の中には、「『日本国憲法』起草者」の一人であるベアテ・シロタ・ゴードンとその父レオ・シロタもいた)

尾崎の友人で、やはり近衛内閣の嘱託であった西園寺公一も、同じく尾崎の友人の衆議院議員犬養健も、尾崎秀実、風見章ともに近衛の政治研究会「朝飯会」のメンバーであった。両者はゾルゲ事件で参考人として取り調べを受けたが、西園寺は自らも国家機密漏洩が発覚しスパイ容疑で逮捕、禁錮1年6月、執行猶予2年の判決を受ける。

「ゾルゲ事件」は近代法下の日本初の「外患誘致」による検挙が検討されたが、何故か見送られ、結局国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反などによる「格下げ」起訴となった。何故……?「ゾルゲ事件」を「外患誘致」と呼ばないなら、他の何も「外患誘致」とは呼べなくなってしまう。

「ゾルゲ事件」の捜査開始は1940年6月27日であったが、ゾルゲがドイツ人であるため、ドイツ大使館などから様々な圧力がかかってきた。第二次近衛内閣で司法の素人である風見章を司法大臣に抜擢した近衛は、続く第三次近衛内閣では、最初自らが首相兼任で司法大臣に収まったが、1941年7月25日、1940年1月17日から検事総長だった岩村道世司法官を、司法大臣に任命する。男爵家の五男岩村は、吉田茂と小学校の同窓である。

尾崎は近衛内閣嘱託、ゾルゲはナチスの在日代表で、ドイツ大使よりも格上の実力者であり、政治的配慮から、特高は一斉検挙を見送って、尾崎逮捕を先にした。1941年10月15日の逮捕当日の尾崎の自供で、ゾルゲがコミンテルン・スパイであることが再確認された。が、ゾルゲ逮捕令状がなかなか出されない。「ゾルゲを取り逃がしてしまう」と特高が焦っているとき、第三次近衛内閣では、近衛のルーズベルトとの会談計画が不調に終わり、それが元で10月16日、内閣総辞職となってしまう。司法大臣の後継もわからない状態では逮捕令状も出せない。10月18日ようやく東久邇内閣の成立、岩村司法大臣の留任が決定し、ゾルゲ逮捕が実現する。

正真正銘の外患誘致事件が起こっているときに、近衛や吉田の関係者・意を呈する人物が司法大臣の職に在ったことは、「外患誘致不適用」決定に何の関係もなかったと言えるだろうか?

吉田茂のヨハンセン・グループも、「対米英戦開戦回避工作、戦争早期終結工作に奔走した」と「反戦=善」の文脈でばかり言われているが、憲兵隊の容疑は「反軍部工作」「英米への通牒工作」である。特に後者は、れっきとした「外患誘致」「外患予備・陰謀」「利敵行為」疑惑であって、「造言飛語」罪での立件後不起訴となったことをもって、「外患誘致」ではなかったという証拠ということはできない。

岸はA級戦犯容疑者として巣鴨に拘留されたが不起訴となっている。CIA協力者として読売新聞・正力松太郎、朝日新聞・尾崎竹虎と共に釈放されたのである。先述のゾルゲ事件時の司法大臣・岩村道世もA級戦犯指定・拘留後、不起訴となり釈放されている。吉田に至っては、最初からA級戦犯指定者リストにすら乗っていない。

『近衛上奏文』が「米英は国体変革は考えていない」と言っていることに対し、昭和天皇は「軍部ではあるといっているが」と近衛に下問した。近衛はグルー米国大使の態度を例に挙げ、「(米英は)我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます」と答えている。

だが、米国主導となり国際共産主義者を排除し、「日本に民主主義を教えに来た」はずの占領軍は、「人民主権」の『日本国憲法』で、事実上共和制の強要=国体変革をし、「至高の権威」天皇の排除でその後の米国=米軍の日本支配への道筋をつけた。

軍部の観測は、正しかったのだ。


日本国憲法公布原本

今年2017年は『日本国憲法』施行70年である。それを記念し、国立公文書館が、いつもは非公開の公布原本などを、4月8日から5月7日まで特別展示している。

この特別展では、GHQが参考にしたと言われる高野岩三郎の「共和制」憲法草案要綱の他、「機密」と印が押されたGHQ草案「マッカーサー憲法草案」の英文の原資料も見られるそうだ。

『日本国憲法』は「押しつけ」だったのか、「押しつけ」ではなかったのか、という議論にだけは、一応「押しつけだった」という決着をつけて見せた、ということか?

だがこれは、「例え日本人が書いたのでなく、『押しつけ』であったとしても、内容が良ければよい」というもう一段上の思考停止ポイントへの誘導である。

「押しつけだから改憲」の動きに対して、「『押しつけだから気に入らない』というのでは、『いまの日本国憲法に内容的問題がない』と自白しているようなもの」と、憲法学者・木村草太が釘を刺す(インタビュー「憲法改正 自公維民4党の論点」『文藝春秋』2017年5月号)が、これもまた、「押しつけだから気に入らない」と『日本国憲法』への批判を十把一絡げにして「感情論」扱いし、「王様の新しい服は馬鹿には見えない」方式で、問題の本質から遠ざかるよう世論を誘導する為にする、的外れな議論である。

「『日本国憲法』に内容的問題がない」?「国体改変」「主権簒奪」「天皇弾圧」「人権侵害」……重大な内容的「問題」に加えて、その制定過程には「瑕疵」どころか国際法違反、大日本帝国憲法違反他、重大犯罪とその隠匿が含まれているが……。さすが「連合国の太鼓持ち」戦後憲法学者は、思考停止の度合いも半端なものではない。

『日本国憲法』公布原本の最終面には、昭和天皇の御名御璽に続いて、内閣総理大臣・吉田茂の名が、一際大きく筆書きされている。「GHQ勅選内閣」の各大臣の名が続く。

この公布原本は、天皇の御名御璽がある、天皇による「日本国憲法公布記念式典の勅語」「憲法改正の勅語」がある、という事実を以て、「枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を〔天皇が〕裁可するという『法的に正式な』手続きを以て『日本国憲法』は制定された」という虚構を、本物のように見せかけているのに過ぎない。

天皇の御名御璽があるがために、人々は畏れ多くて口に出してこなかったのかもしれないが、この公布・憲法改正勅語は「おかしい」。

まず、この公布が正式なものであれば「大日本帝国憲法を改正」と言うべきところを、両勅語は「帝国憲法を改正」と略称を使っている。これらの勅語は「正式」ではないのだ。

そして、「占領下の大日本帝国憲法の全面的改正」「『日本国憲法』の制定」自体が、大日本帝国憲法と、それにつけられた明治天皇による皇祖神への誓いである「告文」と「憲法発布勅語」にたいする違反行為である。

■大日本帝国憲法の憲法発布勅語には「将来若此の憲法の或る條章を改定するの必要なる時宜を見るに至らば朕及び朕が継統の子孫は発議の権を執り之を議会に付し議会はこの憲法に定めたる要件に依り之を議決するの外朕が子孫及び臣民は敢えて之が紛更を試みることを得ざるべし」とあり、「大日本帝国憲法の一部の條章(全部ではなく)を改定」する必要が生じた場合は、「天皇が、天皇大権である憲法改正発議権を執行」し、議会の議決により改正できるが、その他の場合は、天皇以外の皇位継承者も臣民も、憲法の改正をすることができない。

■大日本帝国憲法第75条には「憲法及び皇室典範は摂政を置くの間之を変更することを得ず」とあり、内閣・議会は勿論、天皇までもSCAPマッカーサーの隷下に置かれた(subjected to)占領期は、「摂政を置くの間」と同等かそれ以上の「国家の変局」であるから、当然憲法改正など許されない。

■大日本帝国憲法の告文には「皇祖皇宗及皇考ノ神佑ヲ祷(イノ)リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆(アヤマ)ラサラム͡コトヲ誓フ庶幾(コイネガワ)クハ」とあり、現在と将来の大日本帝国臣民に率先して、自分=天皇が皇室典範と大日本帝国憲法を遵守し誤ることがないようにします、と誓いが立てられている。

■『日本国憲法』の「国民主権」は、大日本帝国憲法の謳う「大日本帝国憲法は万世一系の天皇之を統治す」という日本の統治政体の完全変更=国体改変であって、「憲法の一部條章の改正」などではなかった。この重大な変更を、「国民の総意で決めた」というが、そんな「総意」は存在しなかった。

『日本国憲法』の制定は、天皇をして明治天皇の立てた代々の天皇が護るべき誓いを破らせた。

『日本国憲法』によって主権を奪われたのみならず、日本国を象徴する天皇に、皇祖への誓いを破らせるという恥辱を与えた『日本国憲法』という偽憲法を、その頭上に戴き、「嘘」の生を生きるという二重の恥辱を、日本国民は与えられたのだ。

日本国民にとって耐え難いのは、その恥辱を日本国民に与え続けているのが、支配者である米国防省ではなく、その支配者に取り入って甘い蜜を吸っている日本人の「奴隷の王たち」=日本政府と官僚たちである、ということである。

『日本国憲法』は、『帝国憲法改正案』として、1946年6月20日、第90回帝国議会に政府案として提出された。

1946年7月25日から8月20日までの間に13回、「秘密会」で開かれた「帝国憲法改正案委員小委員会」(「改正委員」ではなく「改正委員」であることに注目)の内容は、実質「改正案」の日本語訳をGHQ草案の英文と突き合わせ、「もっといい訳がないか」と推敲していただけだった。

英文を日本語訳することは、意訳が許されていたとしても、時として非常に難しい。「新憲法」条文作成に於いて、GHQは日本政府に「(GHQ草案の)一字一句たりとも変えたり削除したりしてはならん」と厳命していたから、その日本語訳は非常な悪文ににならざるを得なかった。「小委員会」の委員たちは、その悪文を、変えたり削ったりせずに「憲法らしく格調高い名文にせよ」と言われて格闘していたのだ。

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『日本国憲法』施行50年を迎えるまで、その「改正案委員会」の審議が一般国民に「秘密」にされていたという事実は、国民の「知る権利」が満たされてこそ実現する、公議公論による「国民の自由意思による総意の形成」が蔑ろにされてきたことを意味する。

そして、「秘密解禁」となってから今年『日本国憲法』施行70年を迎えるまでの20年間、歴代日本政府は、全国公立図書館に置く、大学法科・憲法学科での必修図書に指定するなど、積極的にこの文書の存在を国民に周知する努力を「しない」ことによって、真実を国民から隠匿し続けてきた。偽憲法『日本国憲法』の「素晴らしさ・立派さ」は、2000万部の一般国民向け冊子や、カルタや紙芝居にまでなって、国民全世帯・子供たちをすら洗脳したものだが…。

「国会議員と憲法調査会に限り閲覧が許可」されていた時期に、国会議員と憲法調査会委員が、全員と行かなくともその多くが、熱心にこの文書を読み漁ったかどうかも怪しい。

国民は、自力で真実への道を探り当てねばならない。だが真実は、それを探し求める者の前には姿を現すのだ。この『衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』を、読んでみよう。

「天皇は、国政に関する権能を有しない」という、「国民主権」と対になって天皇から国権を剥奪した重要な「国体破壊」条文を、帝国議会ではどのように議論したのだろうか?

 


大島〔多藏〕委員 〔中略〕「政治に関する権能を有しない。」となって居るのを、「政治に関与しない。」と言葉を変えるだけです、「有しない」となると、天皇が日本国の象徴であるという地位を考えます時に、「権能を有しない」という言葉がどうも不穏当な感じを国民に与える〔後略〕

林〔平馬〕委員 私の方はそれと少し違います、先程申したように、「天皇は、この憲法の定める国務のみを行う」としてしまって、その次の「政治に関する権能を有しない。」は不必要である、殊に天皇も国民でありますから、国民の天皇が政治に関与する権能がないということは、どうしても民主主義の立場から矛盾して居る、理論的にもおかしいじゃないか、無能力扱いにするとも言われるし、国民感情から見ても、政治に関する権能がないということは、国民が頗る満足しない言葉でもあるし、それがない為に何も弊害が生ずることでもないから、「天皇は、此の憲法の定める国務のみを行う」だけで必要にして十分だと、我が党では考えて居る訳です。

鈴木〔義男〕委員 しかしそれはかなり重大な意味を持つ、英文では国務は「ステート・ファンクションズ」政治の方は「パワーズ・リレーテッド・トゥ・ガヴァーメント」、それは「ネヴァー・シャル・ヒー・ハヴ」で、持ってはならないぞと云う非常に強い命令形になって居る、「ステート・ファンクションズ」と云えば、犬養さんの言われたように儀礼的なものを含んで居り、また儀礼的なものが勝って居る言葉であって、象徴としての天皇がお持ちになる権能としてはまことに相応しいものである、政治に関与してはいけないのが原則で、象徴という立場からも当然のことであるというのだから、やはりどうしても書いておかなければ、後に問題を起こし、禍を生ずると思う。「国政」とすることは大して異議はないが、削ることには反対です。

(1946年7月27日土曜日『第90回帝国議会 衆議院  帝国憲法改正案委員小委員会速記録』p.73-74 筆者注:旧仮名遣いを現代仮名遣いに、カタカナ表記をひらがな表記に変えた)


大島委員は、「天皇は国政に関する権能を有しない」という条文の「不穏当」さを、正しく察知していた。彼の言う通り、原文の「Never shall he [the Emperor] have powers related to government」は、「国政に関する権力を全く持たない」と直訳すれば「政治に関与しない」と意訳してもよさそうなものである。「政治に関与しない」ならば、天皇の本来の統治の在り方として国民にもすんなり受け入れられたことであろう。だが、鈴木委員が指摘したように、GHQの意図したところは、「天皇には、絶対に、金輪際、国政に関する権力を持たせてはならない」という、傲岸不遜なまでの最上級の厳命の形であった。しかも、「powers」を「権力」ではなく「権能」と訳した日本政府の人間は、そこに「権威」の意味も込めたと思われる

6年後、1952年に日米安全保障条約の付随文書として「秘密裏に」締結された日米行政協定の第3条1項日本語条文は、

「合衆国は、施設及び区域(facilities and areas)〔=米軍基地〕内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のため必要なまたは適当な〔つまり、あらゆる〕権利(rights)、権力(power)および権能(authority)を有する(shall have)

となっていた。1946年当時の帝国議会議員は知る由もなかったが、今この事実を知る我々には、この二つの条文が、まさに対を成していることが分かる。

「天皇は国政に関する権能を有しない」とは、天皇は国政に関するいかなる権利(rights)、権力(power)および権能(authority)も有しない(shall never have)」ということなのだ。

天皇=日本は主権を剥奪され、合衆国が主権を握っている。

『日本国憲法』は、天皇を「象徴」と呼ぶことで、国民に「至高の権威たる天皇は存続している」ような錯覚を与えてきたが、実質は、「権利も権力も権威も持たない存在」なのだ。

林委員は、「天皇は此の憲法の定める国務のみを行う」とあれば、わざわざ国民が「天皇陛下を馬鹿にしている、無能力扱いしている」と腹を立てかねないような表現を使ってまで無用な反復は必要ない、と尤もなことを述べているが、鈴木委員が「いやいや、GHQがこう書けと言っているんだから書いておかないと、後々問題になって『禍』になる」と、完全に怯えきったような様子が感じられる。

「GHQのアメリカ人がそうしろというなら、そうするほかしかたないじゃないか」

GHQによって、衆議院議員357人中321人を含む日本国民20万人が公職追放され、その家族を含めれば100万人が路頭に迷う様を目の当たりにしていては、正論を吐いてGHQに楯突こうとする者よりも、そういって諦め、自分と家族の生き残りを図ろうとする日本人が多かったことはやむを得ないだろう。

「いう通りにしなければ、もっと沢山の原子爆弾を日本全土に落として、日本人を殲滅する」と脅された昭和天皇が、天皇の大権を簒奪し、日本を実質植民地にする『日本国憲法』の公布文書に御名御璽を押す屈辱を従容と受け入れたことも、日本国民の命と引き換えの苦渋の決断であった。

だが、吉田茂の「再軍備(=主権回復)よりも経済復興が先決」は違う。日本の為を思う「苦渋の決断」などではなかった。

日本の為を思うなら、日本民族全体の未来を考えるなら、「経済復興よりもまず主権回復・原状復帰」が唯一正しい道であった。少なくとも、日本国民には真実を知り、選択肢の全てを知ったうえで、公議公論の上決断を下す「自決」の権利があった。

吉田茂は、日本国民のその権利を否定したのだ。

再軍備を迫るダレスに対し、「日本国憲法9条がある。国民の支持は得られない」として、再軍備を拒否し続けていた吉田は、しかしその実、来る52年10月11日の総選挙の争点にするため自ら実施した世論調査で、「再軍備に賛成60%、反対40%」という、全く予想外の結果が出ていたことを、ダレスに隠していた。(有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』)

60%の日本国民が、実は「再軍備」を望んでいた。つまり、なぜか占領後も居残っている米軍を当てにするのではなく、自前の軍隊で、半島で起こっている戦争、そして将来また起こるであろう戦争を戦うべきだという覚悟が、徴兵されればまた戦争に行く覚悟が、できていた、ということである。

これは、「戦後は誰もが戦争に嫌気がさしていて、もう二度と戦争なんかしたくなく、だから『日本国憲法』9条は国民全員に喜んで受け入れられた」という戦後の定説と違う。

日本国民は、戦後の私たちが聞いていたような「腑抜け」でも「腰抜け」でもなかった。だからこそ、GHQも吉田茂ら売国の徒らも、国民には真実を知られないよう検閲・洗脳までもして必死に隠し通そうとしたのだろう。

日本人の気質は変わっていない。気概は、今もある。

唯一つ欠けていることは、「無知の知」なのだ。

日本には主権がない。日本は独立国ではない。日本は実質米国の植民地である。

私たちの敬愛する万民の父母、天皇が弾圧されている。政治権力どころか、国民があると信じている「権威」もない。天皇よりも、内閣が上位にある。

日米合同委員会という秘密会議で、『日本国憲法』よりも上位にあると嘯く米軍が日本を支配しており、日本のエリート官僚は使い走りとしてその「虎の威」を借りている。日本国民には絶対にその実態が知らされることはない。

自衛隊は在日米軍の完全支配下にあり、そのことも全く日本国民の知る所ではない。即ち、「シビリアン・コントロール」の完全喪失であり、それは民主主義の対極である。

北朝鮮に拉致された被害者全員奪還の目途すら立っていないのは、日本に主権がなく、自前の軍隊を自律的に動かす権限が日本にないからである。

いま日本に起こっていることは、ナチス、ソ連のスターリン、中国共産党の独裁政権下で起こったことと限りなく似ている。

「民主主義」といいながら非民主的、「平和主義」といいながら暴力至上主義的、「人権尊重」といいながら日本丸ごと人権蹂躙されつづけている。

国民全体を言論統制によって無知の状態に置いている、今の日本はまさにジョージ・オーウェルの『1984』の世界そのままだ。

全ては『日本国憲法』が、「国民主権」によって天皇の「至高の権威」を簒奪・排除したことに起因する。

天皇は、統治権を総攬し、立憲君主として不裁可権を行使する「権力」を持ってこそ、「究極のオンブズマン」として、民主主義になくてはならない「実権力のチェック機能」を発揮することができる。

フランス革命かぶれの左翼が「王様が権力を持っていては民主主義にならない」と寝惚けたことをいって「国民主権」に固執した結果が、戦後日本の無法状態を招来したという事実に、日本国民は気づかねばならない。

だから、「国民主権」を残す改憲ではだめなのだ。

「国民主権」は、崩壊学級の猿山の喧嘩状態の中、気の弱いクラス委員長が「静かにしてくださ~い」と消え入りそうな声で嘆願し続けるほどの「権威」しか持たない。

それこそが、米軍の「番長」が「国民主権」に拘った本当の理由だ。米軍が日本に押し付けたかった「民主主義」とは、北朝鮮の独裁制の隠れみのとしての「民主主義」と同じもののことだ。

国民全体は、「権威」には成り得ない。「数千年続く万世一系」という特殊な地位である天皇だからこそ、「至高の権威」になれるのである。

日本は、大日本帝国憲法下の原状を回復し、「至高の権威」天皇を取り戻さねばならない。

「至高の権威」天皇を持たない日本は、主権も回復できず、民主主義・立憲主義も回復できない。

吉田茂、岸信介、近衛文麿、その他の売国奴たちの子孫がいまも日本の政権中枢にいる。彼らは明らかに、祖父たちの遺志を継ごうとしている。70年の間に共犯者も増え続け、もはや「売国・亡国、みんなでやれば怖くない」雰囲気になっていないか?

真実を知ったとき、しかし、国民がこれらの者たちを許すのか、私は何とも言えない。だが、もし彼らが『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認、大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認をして、原状復帰、主権回復、平成の大政奉還を実現してくれるなら、私個人は彼らを許そう。

日本国民が真実を知るとき、日本は命より大切な「誠」を、取り戻すことができる。

それさえ取り戻させてくれるなら、私は売国・亡国の徒に憐れみをかけ、許してやってもよいと思うがどうか。

 

 

「象徴天皇制」「人民主権」の『日本国憲法』は「共和国憲法」であるという真実を、「押しつけ論」が隠している__『日本国憲法』無効論で改憲・護憲両派の「敗戦トラウマ」を解消する__正確な現状認識だけが日本を護る④

『日本国憲法』は、GHQ『皇室典範』と対で天皇の権能を簒奪した、実質的「共和国憲法」である。これを始末する唯一の手立てである『日本国憲法』無効論の不周知は、連合国による国体破壊の現実を国民から隠す売国行為、連合国の犯罪幇助である

 日本国民は、「象徴天皇」の意味を善意に解釈して「天皇=国体は護持された」と信じた。だがそれは連合国による「偽装」であった__「70年も改正されずに来た=国民に浸透している」という欺瞞を、制定経緯の再検証で粉砕する

2016年11月3日「文化の日」__『日本国憲法』が公布されて70年を迎えるこの日、「押し付け論は現実逃避 憲法公布きょう70年」と朝日新聞は書いた。11月4日からはシリーズ記事「憲法を考える・押しつけって何?」も始まった。

「なんと、遂に朝日が無効論に言及?」と一瞬思った。「日本国憲法無効論」をネットで検索すると、ウィキペディアの「憲法無効論」がトップにくるが、そこでは「日本国憲法無効論」=「押しつけ憲法論」と呼ばれているようだからである。だが違った。朝日記事が言っているのは「改憲派」のことであった。

最近では、もう滅多に「無効論」という名称すらも使われなくなってきている気がする。完全に、無視されている。これは、日本国憲法無効論を国民が知れば、改憲派も護憲派も一緒に吹っ飛んでしまう、という両派の危機感の表れであろう。

「改憲派の重鎮」小林節と「護憲派の泰斗」樋口陽一が、仲良く安倍政権の憲法改正推進を批判する対談本『「憲法改正」の真実』を出したのも、その流れと見える。なぜなら、彼らが同書で批判しているのは、実は「安倍政権批判」に名を借りた「『日本国憲法無効論』見下し論」だからである。小林節は、「無効論」の名は全く出さずに、「安倍批判」ついでに「無効論」を小馬鹿にしてみせている。

〈(岸信介の孫・安倍晋三、吉田茂の孫・麻生太郎らのように、敗戦時の日本の指導者達の子孫である)自民党世襲議員のなかに、旧体制下の支配層たちの「敗戦のルサンチマン(怨恨)」が脈々と受け継がれ、アメリカに「押しつけられた憲法」を憎悪するという構図になっているのでしょう。/ だから、彼らはハーグ陸戦条約の「占領地の基本法は、占領に支障なき限り、占領した側が勝手に変えてはいけない」という意味を半端に読み違えて占領下につくられた憲法は、国際法上無効だなどと言い出してしまう。そのうえ、日本国憲法が国際法上無効なのだから、正当な憲法は我が日本民族がみずからつくった明治憲法しかないという、とんでもない主張を平然と出してきたりするわけです。〉

「(押し付け憲法は)無効だなどと言い出してしまう」「正当な憲法は明治憲法しかないという、とんでもない主張を平然と出してきたりする」__全く恥ずかしいね(笑)と、「無効論」を「無効論」と呼ばずに軽蔑して見せている。

だが、「『日本国憲法』の制定がハーグ陸戦法規違反でない」或いは「ハーグ陸戦法規に違反しているからと言って『日本国憲法』が無効であるとは言えない」ということへの論拠を、小林は提示していない。そして、勿論、『日本国憲法』の無効理由は「ハーグ陸戦法規違反」だけではない。(当ブログ別稿「【日本国憲法無効論】『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効理由」をご覧ください。)ご立派な憲法学者なのに、「無効論」をまともに勉強していないようである。

押しつけかどうかという以前に、そもそも『日本国憲法』には、「日本の国体を文字であらわす」という、憲法としての本質的資質がない。

日本の国体とは、「万世一系の天皇を至高の権威としていただくこと」であるから、天皇の権能を簒奪した『日本国憲法』には、日本の憲法としての実質的資格が全くない。

大日本帝国憲法は、日本の歴史と伝統をふまえた正当な憲法である。だが、大日本帝国憲法だけが日本の憲法なのではない。戦後の憲法学者は、日本のように万世一系の天皇が一貫して戴かれた数千年の歴史を持たないフランスなどの、「強権の為政者を引きずり下ろし、永遠に縛りつけておくための憲法」を絶対視しているから、話が全くかみ合わないのだ。

さて、朝日の「押しつけ論は現実逃避」「押しつけって何?」に戻ろう。

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朝日新聞2016年11月3日・4日

〈「押しつけ憲法論」を唱える政治勢力は、国としての主権回復を訴える。〉と、朝日記事筆者・編集委員の大野博人は言う。そして〈主権回復を掲げる運動は今日、日本やその憲法についてだけ見られる現象ではない。〉として、英国のEU離脱や、米大統領選のトランプ登場まで引き合いに出して、日本の状況が特殊でないことを強調しようとする。

だが、日本の憲法問題の様相は、国際基準に照らして、かなり特殊である。英国や米国が取戻そうとしているのは、厳密には「主権」ではなく「主導権」であり、日本のように、暴力と脅迫で国体改変を伴う『日本国憲法』制定を強要され、その犯罪を正当化・隠蔽する為に「日本悪玉史観」の誣告を受け、その誣告を真実と信じ込むよう国民全体が洗脳され、今でも連合国の犯罪幇助者らによって洗脳され続けている、という三重の「主権侵害・人権蹂躙」を受けているわけではない。

だが、勿論朝日はその真実を隠したいからこそ「日本だけが特別ではない」とうそぶいているのだ。

グローバル化や高齢化で不平等感が広がり、将来への不安が募る。政治家が国境のない世界から国の枠に戻れば解決すると呼びかける。人々の心も揺れる。この時代の空気が日本の押しつけ論にも表れている。〉〈最近、憲法公布を記念する「文化の日」を「明治の日」に変えようとという動きさえ出ている。近代国家の出発点への郷愁。押しつけ論への傾斜と重なる。しかし、「かつての」国や自分を取り戻すという回顧的発想は、「今とこれからの」困難や不安の軽減にはつながるまい〉(同上)

朝日記事は、不平等感に何の関係があるのかわからない「高齢化」を間に挟んで「グローバル化…で不平等感が広がり、将来への不安が募る」という「現実」を、グローバリストのせいだけではないかのように誤魔化している。

要するに、「押しつけ論」は単なる「センチメンタルな勘違い」だといっているのだ。「国境のない世界」の方が本当は素晴らしく、明治への郷愁も「false memory(過誤記憶)」だから、何の意味もない、と。

中国が着々と有事(戦争状態)に向けて軍区再編など体制を整え、尖閣・沖縄への侵略に備えて演習を繰り返し、潜水艦で日本の領海を侵犯したり、戦闘機も飛ばしてきているなか、「日中の信頼醸成を急げ」「中国は緊張を高めるな」などと寝惚けたことを社説に書くような朝日新聞の、まさに面目躍如たる「お花畑」な文章だ。

だがここに、朝日新聞の立ち位置が明瞭に表れている。連合国=国際主義者・国際共産主義者の推進する「国際化=グローバリゼーション」である。

そして、グローバリストの主敵は祭祀王・天皇とそれを戴く日本である、という事実を、朝日は国民の目から隠そうとしている。

グローバリズム・国際共産主義は、扇動に乗りやすい無知な(権力者によって無知な状態にされた)大衆を操って混沌と対立を招来し、社会不安を醸成して暴力革命・革命戦争を起こす。既に国際市場を統制しているグローバリストは、戦争特需を最も享受できる地位にあり、敵も味方もなく全ての交戦国が彼等の顧客となる。しかも、彼らは戦争を実際に開始した国の政府に戦争開始の咎を擦り付け、裏で政府を操って戦争を引き起こした張本人達は「我関せず」と涼しい顔をしていられる仕組みに守られている。

戦争が起こった方が得をする者、戦争が起こって欲しいと願うのは、グローバリストと国際共産主義者なのである。

ところが日本人は、なかなか共産主義者のオルグに乗せられないばかりか、戦前、コミンテルン日本支部としてスタートした共産党創立の時点で、彼らが「天皇制打倒」を持ち出した途端に共産主義を激しく拒絶し、完全にそっぽを向いていた。(『田中清玄自伝』)

共産主義になびく様な人間は、もともと唯物論的でこの世が全てだと思っている。神もなければあの世もない。だから自分は貧乏で他の者が金持ちだったりすると「不公平だ」と短絡する。文化大革命の中国のように、「持てる者」からは、その者を殺してでも富を奪え!という扇動に乗りやすい。

だが、日本は八百万の神を奉る神の国である。例え人が見ていなくとも「お天道様が見ている」から悪いことはできないし、邪なことをすれば自分の魂が穢れる、だからしたくないのが日本人の性分である。森羅万象のみならず、人の作ったものにすら魂の宿る国柄にあって、祭祀を通してその神々の声を聴き、神々の意思を知り、人々に「しらす」のが天皇である。

天皇は祭祀王であり、人の幸せを祈る祭祀は、利他の精神を育み、共棲と融和を重んじる文化を生む。

だから日本では戦後、戦前と同じように、一致団結の精神で高度経済成長を達成し、「一億総中流」という言葉も生まれたが、そもそも古今和歌集の古代から、「詩歌の前で、帝も貧者も平等」の文化が日本にはあった。

日本人は、かつて「世界で最も自分の持っているものに満足する人々 (contented people)」であるといわれたことがある。そのような人々は、共産主義による暴力革命など欲しない。だから、グローバリストと共産主義者にとって、最悪に不都合な、排除すべき「敵」なのである。

共産主義社会においては、大衆は「皆平等に無知で貧乏」のままに置かれるから、そこから抜け出して「指導層」に入るためには「理論武装」し、常に他者を「理論」で威圧する必要がある。共産主義思想自体が、「無知な大衆を扇動して革命を起こし混沌を招来する」ことが目的であるから、自然その「理論」は矛盾に満ちたものとなるが、大衆を丸め込むことができれば、それで良いのである。だから、左翼学者は常に偉そうに上から目線で人を小馬鹿にしている。

小林節や朝日新聞が「どうしようもない奴らだ、恥ずかしいね」と肩をすくめ、首を振りながら「改憲派(無効論)は回顧的」といってみせているのは、「偉い学者先生やクオリティ・ペーパーが『駄目』と言っているのだからダメなのだろう」と、何も考えていない大衆に思い込んでほしいからだが、彼らがほのめかしているのは、つまり明治と戦前が、そして大日本帝国憲法と、その下で「日本を統治していた天皇」が、悪いものだった、ということである。

連合国・国際共産主義者が、敗戦国日本に、大日本帝国憲法を「改正」させ、『日本国憲法』を制定させた表向きの根拠は、「大日本帝国憲法が、天皇制強権支配と侵略的軍国主義の温床である」ということであった。

だがそれは事実ではなかった。「天皇制強権支配」も「侵略的軍国主義」も、「誣告」であった。

連合国は誣告の罪を犯し、国際法に違反し、検閲・洗脳の人権蹂躙を侵し、日本の国体改変を行った。

そして、彼らはそのことを承知していた。だからこそ、「『日本国憲法』は、連合国・GHQの強制ではなく、新しい主権者である国民の自由な意思によって制定された」という虚偽によって、偽装しなければならなかった。

そのことは、GHQ・SCAP=マッカーサーへの「指令書」SWNCC文書の中で、彼ら自身が告白している。

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http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/059/059_005l.html

〈Only as a last resort should the Supreme Commander order the Japanese Government to effect the above listed reforms, as the knowledge that they had been imposed by the Allies would materially reduce the possibility of their acceptance and support by the Japanese people for the future.( 最高司令官がさきに列挙した諸改革の実施を日本国政府に命令するのは、最後の手 段としての場合に限られなければならない前記諸改革が連合国によつて強要された ものであることを日本国民が知る時には、それらを、将来、日本国民が承認し[支持]する可能性は著しくうすれるのである。)〉(p.5 SWNCC228、p.29『 憲法制定の経過に関する 小委員会報告書の概要』pdf)

これは、「SCAP・マッカーサーは日本政府に命令しなかった」という意味ではない。彼らは間接的・遠回しに、公職追放などで脅迫しながら、すべてのことを「日本に命令」した。「あくまでも、日本人自身が自主的にやっていることであると『偽装』すべし」ということなのである。そのために、GHQには5000人もの日本人が占領軍の手足となって働いていた。

このような『日本国憲法』の出自の真実を、日本国民が70年後の今も知らされていない、つまり未だに日本国民が検閲され、洗脳され続けているという事実を知ることなしに、憲法論議は始められない。

『日本国憲法』制定過程の実情を知れば、大多数の日本国民は『日本国憲法』無効論の正当性を理解し、それを支持する。

だが、国際共産主義者だけでなく、日本政府までも、「日本国憲法無効論」をひた隠しに隠し続けている。

1956年6月11日に設置された憲法調査会が、1964年7月3日に内閣と国会へ提出した『憲法調査会報告書』の役目は、『日本国憲法』の制定が連合国による強要であったという真実を国民に周知することであるはずだった。

そして、「日本国憲法無効確認」によって、占領以前の「まともな国・日本」とその正当な憲法・大日本帝国憲法を取り戻そう、と日本国民に訴えるのが、憲法調査会報告書を受け取った内閣と国会の義務であった。

天皇陛下に上奏し、民主主義的議会制立憲君主国の日本に戻るべく、日本国憲法とGHQ皇室典範の無効確認・大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認を、天皇陛下に粛々と宣言していただくのが、総理大臣の使命であった。

だが、そうはならなかった。

調査会報告書のその膨大な量の調査結果にも拘らず、結論は「押しつけとも、押しつけではないともいえない」という日本人得意の玉虫色で終始した。

「憲法調査会」も、内閣も国会も、独立回復後23年を経てなお、連合国の顔色を窺うかのように、『日本国憲法』の制定経過のいかがわしさ__連合国の明白な犯罪性__に触れることはなかった。

_____〈すなわち、原文が英文で日本政府に交付されたという否定しえない事実、さらにたとえ日本の意思で受諾されたとはいえ、手足を縛られたに等しいポツダム宣言受諾に引き続く占領下においてこの憲法が制定されたということは、明らかなのであるから、この面に関する限り、それを押しつけられ、強制されたものであるとすることも十分正当であるというべきである。特に、日本側の受諾の相当大きな原因が、天皇制維持のためであつた事も争えない事実である。ただ、それならば、それは全部が押しつけられ、強制されたといい切ることができるかといえば、当時の広範な国際環境ないし日本国内における世論なども十分分析、評価する必要もあり、さらに制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれたうえで制定された憲法であるということも否定することはできないであろう。要するにそれらの点は、この報告書の全編を通じて、事実を事実として判読されることを期待する以外にない。〉(p.77『 憲法制定の経過に関する 小委員会報告書の概要』pdf〔p.82〕太字・下線引用者)____

朝日新聞の「64年調査会、評価踏み込まず」に「事情は決して単純ではない」とあるように、調査会はその肝心要の目的である『日本国憲法』制定の真実について、評価をこの調査報告書の読者に「事実を事実として判読されることを期待する」と、丸投げした。明白な結論を、自らの口で、国民に発表することを放棄したのである。だが、この報告書は本編が781ページ、それに「『憲法無効論に関する報告書(憲法調査会報告書附属文書第10号)』も含めて12冊の付属文書が付いた、膨大な文書である。93ページのダイジェスト版はPDFで読めるが、それにしたところで、真面目に働く普通の庶民はこのようなものを読んでいる暇がない。

国民に代わって吟味調査し、真実を追求して、それを国民に報告するための「憲法調査会」ではなかったのか?

そもそも、『日本国憲法』制定過程の重大問題を、「押しつけ」か、「押しつけでないか」の二分論に集約・矮小化することこそが問題である。

『日本国憲法』は、どんな国の、どんな立場の、どんな人間が、どこをどう見ても、「押しつけ」であって、そこに疑問をはさむ余地はない。

『憲法調査会報告書の概要』の、『日本国憲法』は「押しつけではないともいえる」根拠とは、「制定の段階においていわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれ」ていることであった。

占領当時の「広範な国際環境」とは「連合国・国際共産主義の独裁」状態であったし、「日本国内における世論」は、『報告書』も言及するように、大多数が「天皇支持」であったのだから、これらは「押しつけではない」理由どころか、むしろ「押しつけ」の理由である。

だが、その「部分的に織り込まれた」「いわゆる日本国民の意思」とはどんなものであったのかを、『概要』の「制定過程に関する総括的考察」は、全く書いていない。

GHQが、憲法改正担当国務大臣・松本烝治による草案を、完全に一蹴した理由は、「(松本案では)天皇の権威および権力が、現実的にはなんら変更もされず弱められてもいない(……)天皇制度はそのまま残り、しかも、議会による立法を必要としない皇室典 範に基づき依然運営される」からであった。(p.21『憲法制定の経過に関する 小委員会報告書の概要』[p.25 pdf] 太字引用者)

即ち、『日本国憲法』により連合国が企図する「日本の政治的再編成」の要は以下の通りであった。

◆天皇の権威及び権力のはく奪

◆天皇制度を残さない

◆皇室典範を『日本国憲法』の下位法とする=議会による立法を必要とする=天皇と皇室の自治自律をはく奪し、内閣に統制させる

◆内閣が、天皇の上位

松本案の他にも、7つの政党・民間団体・個人が試案を発表したが、このうち5案は「天皇制維持」で松本案とほとんど変わらず、GHQは同様に却下した。他2案は共産党と高野岩三郎個人によるものであり、「共和制」を採用していた。

GHQが唯一「可」的な批評を加えたのが、この高野岩三郎の「日本共和国憲法草案」であった。

調査会報告書が「GHQがその意思を『部分的に織り込んだ』としている『日本国民』」とは、「天皇制廃止」「共和制樹立」を謳う、左翼運動の仲間うちでも「超過激」といわれる左翼思想の持主だったのである。

調査会報告書は、その重大な事実を指摘することなく、「GHQが日本国民の意思を部分的に織り込んだらしい」(確たる証拠はない)から「押しつけではないともいえる」という府抜けた調子でお茶を濁した。

かくて、調査会は、「膨大なエネルギーを使い、押しつけ議論に区切りをつけた」。そして、「以降、押しつけ論とともに政界での改憲の機運は薄れていく」(押しつけって何?1⃣)

一般国民はもとより、選挙・国会対策に忙しすぎる政治家たちもまた、『憲法調査会報告書』が読者に丸投げした総括を「総括」として終わったこととし、『報告書』が期待したように「(報告書を丹念に読み)事実を事実として判読」することはなかった。

そして、「象徴天皇制」を謳う『日本国憲法』は、天皇の権威・権能をはく奪することで実質的に「天皇制廃止」をした「共和国憲法」である、という真実は、事実上国民から隠された。

それが、「『日本国憲法』無効論は『終わった議論』」といわれて無視されている理由なのである。

だが、知的好奇心旺盛な日本人なら、「無効論は全く終わってなどいない」ことが理解できるだろう。

インターネットのおかげで、現在少なくとも93ページの『憲法制定の経過に関する 小委員会報告書の概要』は、pdfで一般国民も家にいながら読むことが可能だ。

報告書が伝える、『憲法改正草案要綱』が発表された当時の新聞の論調によれば、日本人は新憲法の中に「天皇」の規定がある、という単純な事実をもって「国体が護持された」「天皇制問題がこれで解決された」と喜んでいた。

だが、それと同時に、「本当に国体は護持されているのか」と疑問を持つ者もいることにも触れている。(河原春作枢密院顧問官 【枢密院における憲法改正草案要綱に対する主な論点】『概要』p.50 [pdf p.55])

つまり、日本人は「大日本帝国憲法がGHQによって改正させられる」と正しく認識し、天皇の地位はどうなるのか、日本の国体は護持されるのか?と心配していた。だからこそ、「象徴」という「不思議な言葉」(当時皇太子妃であった美智子様の感想)に取って代わられてはいたものの、とにもかくにも、「天皇」について規定があるならそれは「天皇存続」ということであろう、と解釈して喜んだのである。

だが、日本人は騙されていた。ナイーブでお人好しの日本人は、「条件付き降伏だ」といっておいて後「いや、無条件降伏だ」と言い募り、「日本人を奴隷にはしない」といいながら、検閲・洗脳という非人道的占領政策によって、日本人を事実上「一億総前科者」「敗戦奴隷」に貶めた連合国の卑怯ぶりを、全く甘く見ていた。

「民主主義」を掲げる先進的欧米の立派な大国が、ここまで非道なことをするとは思わなかったであろう。

占領下、天皇も政府も議会も、全て日本人はSCAPマッカーサーの超大権力に隷属させられていた当時と違って、1951年5月3日には、解任されたマッカーサーの後任、リッジウェイによる「占領諸法令を再検討する権限を日本政府に与える」旨の宣言が出され、同年9月8日にはサンフランシスコで平和条約の締結をみ、事実上日本は独立国となった。

それから23年を経て、尚も続く日本人自身による「自虐洗脳」によってか、「戦後レジーム」利権の利得ゆえか、「調査会報告書」を受け取った内閣も国会も、『日本国憲法』が実質「共和国憲法」である事実を、遂に追及することはなかった。

%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%9b%bd%e6%86%b2%e6%b3%95%e5%a4%b1%e5%8a%b9%e8%ab%96ましてそのことを国民に周知し、一刻も早く無効確認・現存確認による占領以前の原状回復をせんと働きかける者はいなかった。いたのかもしれないが、全く無視され、忘れ去られるままにされた。(菅原裕『日本国憲法失効論』は1961年11月10日に初版が発行されている。)

ナパーム弾による全国絨毯爆撃と2発の原爆で日本の国土の壊滅を見せつけられ、20万人の公職追放で連合国に「右翼」とレッテルを張られたものが家族ともども路頭に迷うさまを目の当たりにし、日本人は極度の心的外傷(トラウマ)を負った。小林節が言った「敗戦のルサンチマン」ではなく、「敗戦トラウマ」であった。

全国絨毯爆撃ですべてを失った日本国民は、昭和天皇の二度の「玉音放送」に慰められ、「朕と汝等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説に依りて生ぜるものに非ず」「朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾(こいねが)う」と仰せられた『新日本建設に関する詔書』(所謂「人間宣言」)に励まされた。そして、ひたすらに前へ進んだ。

だが、連合国=権力側の手足となって日本国民を欺く手伝いをした政府・官僚・学界・メディアは、今も国民をだまし続けている。「敗戦トラウマ」は、日本と日本人を裏切り続けたこの者たちに、より濃く、深く、残っている。

「敗戦トラウマ」患者である政府・官僚・学界・メディアは、『日本国憲法』無効論が、連合国の逆鱗に触れ、今も続く「公職追放」の脅迫によって、何もかも失うことになる、と怯えきっている。

『日本国憲法』無効論を、改憲派も護憲派も、徹底的に無視し続けるのは、この「連合国恐怖症」のせいであろう。

だが、占領の真実に向き合い、「連合国は犯罪者」という現実を認識することでしか、この「敗戦トラウマ」から立ち直ることはできない。

幸い、先日の米大統領選で、日本の敵・北朝鮮と中国から闇献金を受け取り、国際共産主義の黒幕・ユダヤ国際金融資本家ともズブズブの関係だったビルとヒラリー・クリントンの民主党は、日本の自主防衛・核武装を叫ぶビジネスマン、トランプの共和党に大統領の座をさらわれた。国際主義者・グローバリストの専横に、アメリカの「普通の人々」が、NOと言ったのだ。

「戦後レジーム」の継続を、歴史認識の面から強化していた、NYタイムズらアメリカの反日左翼メディアにケンカを売ったトランプが、大統領になるのである。

グローバリストのヨーロッパでの牙城・EUも、英国の離脱によってその崩壊に拍車がかかるだろう。

これは『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認と、大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認をする千載一遇のチャンスである。

「嘘も百回言えば本当になる」と言ったのはナチスのプロパガンダ相・ゲッベルスだが、偽憲法である『日本国憲法』は、70年使おうが、100年使おうが、本物の日本の憲法にはならない。

改正しても、『日本国憲法』のいかがわしい出自に触れ、連合国の犯罪を告発し、日本に着せられた「侵略国家」「制奴隷を持った軍隊」の汚名が誣告である、と世界に周知するのでなければ、「戦後レジーム」は終わらない。日本は永遠に「敗戦奴隷」のままなのである。

連合国の犯罪を告発しなければ、国際社会もまた、永遠に、第二次世界大戦の反省をしないままである。

日本だけではない、世界が騙されている。

来春キプロス島で開かれる国際憲法学界の部会のテーマは「押しつけ憲法(imposed constitution)」だそうだ。

「日本の憲法の際立った特徴は(70年間一度も改正されなかった)長い耐用年数で、私たちに押しつけ憲法の概念の見直しを促している」「押しつけかそうでないかという二分論は、日本の憲法への理解を妨げてしまう。大切なのは、日本の例から憲法への信頼を醸成したのは何かを探ることだ」(国際憲法学界部会責任者コンティアード教授 『押しつけって何?1⃣)

『日本国憲法』が70年間一度も改正されなかったのは、『日本国憲法』が日本人の信頼を得たからではなく、日本人が戦後71年間ずっと、『日本国憲法』が、かけがえのない日本の国体の現身である天皇の権威と権能を簒奪し、天皇と日本国民を苦しめ続けている、という真実を、知らされないままできたからである。

『日本国憲法』は、今も日本をだまし続けている。

この事実を、日本人だけでなく、世界と共有することで、世界は連合国=国連のいう「人権主義」「平和主義」「民主主義」がどんなものか、今一度立ち止まって真剣に考える機会を得る。

国連安保理常任理事国といえども、違法行為は裁かれるという当然のことを、世界は確認する。

国連が自身の裁きを受け入れられないなら、それは国連に自浄作用がないということを意味し、そのような機関は存続する資格がない。

世界に対立と混沌をもたらした国際主義・共産主義の犯罪を問い、天皇という「至高の権威」を取り戻した日本は、白人至上主義・暴力至上主義の旧弊を打ち破り、国際社会に真の意味での法治主義をもたらす。

『日本国憲法』無効論が、国際法を豊かにし、国際社会に真に貢献する日本を再生するのである。

【皇后陛下お誕生日に際し】「生前退位」という語による天皇陛下への不敬に接した皇后陛下の「衝撃と痛み」__そらとぼけるメディア、宮内庁、無為無策の政府

「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした」

皇后陛下は10月20日、82歳になられた。

宮内記者会の質問「この1年を振り返って感じられたことをお聞かせください」に答える文書の形で、皇后陛下がお気持ちを語られた。(「皇后陛下お誕生日に際し」http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/3)

熊本地震、阿蘇噴火、珍しく東北・北海道を襲った台風などの自然災害、今年1月に天皇陛下と訪問されたフィリピン、リオ・オリンピックとリオ・パラリンピック、日本研究者の発見になる新元素ニホニウム、大隈良典博士のノーベル賞受賞等に加え、続く視覚障害者の線路転落事故にも「最近心にかかること」として言及された。

終盤、皇后陛下は「天皇陛下のお気持ちの表明」について述べられた。

 

「8月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」

「皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々」

天皇陛下も、即位20年の会見で「将来の皇室の在り方については皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」とおっしゃっている。皇后陛下はこれを敷衍して「(皇后陛下御自身を含め、皇位継承に連なる方々の)配偶者や親族であってはならない」とはっきりと述べられた。皇位継承に全く関係のない国会・政府はもとより、素人からなる「有識者会議」なるものに至っては何をかいわんやであろう。

明治維新後に、近代立憲国家としての日本を欧米列強に示すため、大日本帝国憲法とともに制定された『皇室典範』とは、長い伝統に基づく皇室の在り方を記した天皇家の「家憲」であり、大日本帝国憲法と同等のものであった。

大日本帝国憲法第74条第1項には「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」とあり、議会はその改正に関与できなかった。

そもそも、憲法・典範の改正の発議権は、天皇お独りに属する大権である。

皇室の伝統に精通しない者、皇統断絶を企むGHQ『憲法・典範』を絶対とする、連合国の下僕と成り下がった者達が「皇室の在り方を考える」と言っているのをきくと、背筋が寒くなってくるのである。

そして、7月13日のNHKのスクープの後、新聞の一面に極太文字で書かれた「生前退位」の文字。この語が与えた衝撃を、皇后陛下は「大きなもの」とおっしゃった。

御所にて行われる「天皇陛下の有識者会議」ともいえる「宮内庁参与会議」。その2010年7月22日の会合において、天皇陛下が仰ったのは、「私は譲位すべきだと思っている」であった。皇后陛下もずっとご一緒に、陛下の「譲位」のご意向をどう表明するか、どう実現するかについて、6年間も話し合ってこられたのだ。

「それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかった…」と皇后陛下も仰っている通り、7月13日にNHKが最初に発し、翌日の新聞各紙が一面に太文字で書き、数人の識者から疑問視する声が上がった後も殆どのマスコミが使い続けている「生前退位」とは、国民の誰もが聞いたことのない言葉であった。

皇后陛下は、以前、「象徴天皇」という言葉に関しても、「不思議な言葉…」と微妙な違和感を表現されたことがある。

天皇陛下は、そのお立場の故に、公の場で不平不満を仰るようなことは絶対にない。

1975年、今上陛下が皇太子時代に妃殿下と訪問された沖縄で、左翼過激派に火炎瓶を投げつけられた時にも、眉ひとつ動かされなかったという。幸い皇太子殿下に御怪我は無かったが、妃殿下は警察官に庇われて地面に倒れ、打撲傷を負われた。(ひめゆりの塔事件)「帝王たるもの常に泰然自若、それに比べてやはり庶民出の妃殿下は一瞬避けた…」といって宮中でいじめられたというような、まことしやかな噂もあったくらいである。

このたびも、「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした」と、天皇陛下のお心を気遣われながらも、「それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません」と、一歩引いた表現に留めておられる。

が、皇后陛下は「痛みを覚えた」と仰っている。少し考えれば明らかなように、「生前」とは「死ぬ前」のことであり、「死」を直接に連想させる言葉である。さらに、「生前__」と言う熟語は「生前贈与」のように、多くの場合「そう遠くない将来に死が訪れるであろう人」の行動について使われるのであるから、もっと酷い。そして、「退位」には必ずしもポジティブな意味合いがない。それを天皇陛下ご自身のお言葉である「譲位」とすり替えることまでしてNHKが使い、日本中のマスコミ、知識人達が、あろうことか「保守」と呼ばれる者達までが、連日連呼している。これはどう見ても天皇陛下への「お葬式いじめ」だ。

日本報道検証機構は、皇后さまの談話を受け、受け止めや「生前退位」という表現が適切だったかどうかについて、NHKをはじめ主要新聞各社に質問した。NHK広報部からは「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、視聴者に意味が伝わりやすいよう、この表現を使っています。ニュースの文脈に応じて、『譲位』という言葉も含め、適宜使い分けています」との回答があった。今後も使い続ける方針かどうかも質問したが、明言しなかった。

(「『生前退位』は『歴史の書物にない表現』 皇后さま、違和感表明 NHKの反応は…」日本報道検証機構 弁護士 楊井人文 Yahoo! News http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20161022-00063507/)

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小野寺まさる氏の10月20日のTwitterによると、どこかの新聞が「おことわり」としてこの「生前退位」という語について弁解しているようだ。しかし、弁解にも何もなっていないどころか、全く意味不明である。「存命中に位を譲ることは明治以降の歴史で例がないことから、意味を分かりやすくするために使っています」?いや、「存命中に位を譲ることは明治以降の歴史で例がない」からといって「譲位」の意味が分からなくなっているということは全くないし、そもそも、意味を分かりやすくするためになら「死」を連想させる不吉な言葉を、天皇という日本の最高権威・「万民の父母」に対して使ってよいと考えるその感性がおかしいだろう。

「言霊のさきわう国」日本では、人々は不吉な言葉はなるべく使わない。まして、目上の人に使うなどもってのほかだ。日本人はこういう感性を無くしかけているのか、それとも日本の伝統に暗い外国人の仕業か?

小野寺氏のツイートが言うように、「生前退位」という不敬語の「出典」は、1984年の社民党と公明党の一議員による国会議論であった。このマスコミ・知識人の「生前退位」連呼は、社民党・公明党とこれらの党が代表する人物、或いは外国を、天皇よりも高い権威とみなす者達の差し金であるに違いない。

いづれにせよ、NHKら「『生前退位』いじめ」に加担していたマスコミは、皇后陛下の全く正当なご指摘を受け、右往左往している。日本経済新聞などは、泡を食ったあまり皇后陛下の仰ったことを完全に捻じ曲げ、見出しだけ読む人を騙そうとしている。

〈皇后さま、82歳に 生前退位 反響に「衝撃」〉

〈天皇陛下の生前退位の意向に対する社会の反響の大きさに「衝撃は大きなものでした」とつづり、「驚きと共に痛みを覚えた」と振り返られた。〉(日本経済新聞2016年10月20日)

皇后陛下が「陛下の生前退位に対する社会の反響に『大きな衝撃』」を受けられた?そうではない、皇后陛下が衝撃を受けられたのは「生前退位」という言葉の不敬に対してだ。「衝撃を受けた」という文章のすぐ後に「歴史の書物の中にもこんな表現見たことがなかった」と続くのだから、どこをどう読んでもこれは「生前退位」という語について仰ったのだとしか見えない。そして、それは只の衝撃ではなかった。「痛み」であったのだ。「私の感じ過ぎであったのかもしれません」とは、先に言ったことが良くないことであるがために、「そんなはずはない。思い過ごしかもしれない」と、いじめに加担した者達への非難の度合いを和らげてくださっているのだ。そもそも社会の反響というなら、90%の国民が天皇陛下の譲位のご意向を支持し、速やかに実現するように心から祈っているのだ。「痛み」であるはずがない。

現に本文の方は、「陛下の意向が初めて報道された直後の心境としては」を「衝撃は大きなものでした」の直前に置いている。「報道の直後」では「社会の反響」などあまりわからない。そして、「理由として、生前退位という表現に『接したことが一度もなかった』ために、『一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の考え過ぎであったかもしれません』と吐露された」となっている。「吐露する」とは、隠していたことを打ち明けることなのだから、やはり皇后陛下の仰っているのは「『生前退位』という言葉に傷つきました。天皇陛下が黙っておられるので黙っていましたが、この機会に打ち明けます」ということではないのか?

極めつけに、この記事の最後には「生前退位に関して皇后さまが『痛み』という表現を使われたことについて」、宮内庁関係者の推量を挙げている。

「生前という言葉の裏側にあるものを連想されたのではないか」

今それが分かるのなら、NHKの最初の報道の時に分かったであろう。だが、宮内庁は何の抗議もしなかった。政府も黙っていた。マスコミは調子に乗っていまだに連呼している。

安倍首相におねがいします。

今すぐ、天皇陛下を愚弄する「生前退位」という不敬な言葉の使用をやめさせてください。

天皇陛下のお気持ちを、皇后陛下のように「謹んで承る」気持ちがあるなら、日本国民の「天皇陛下のご意向を実現して欲しい」という願いを叶える気持ちがあるなら、天皇陛下が既に通り過ぎられた事項、天皇陛下にしかお判りにならない事項を議論している有識者会議は中止し、皇室問題は天皇陛下に全てお任せください。

天皇陛下のご意向を実現するのに、『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』が障害になっていることを直視し、『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』は、そもそも傲慢・無知な連合国が皇統断絶を企図して制定させた偽典憲であることを思い出し、これらの無効確認、大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認を天皇陛下に宣言して頂くよう、ご奏上ください。

もうすぐ『日本国憲法』施行70周年の記念日がやってきます。

この屈辱の日を祝うという欺瞞から、天皇陛下と日本国民を解き放ってください。

 

(関連稿『「生前退位」という言葉の連呼は、天皇陛下に対する「お葬式いじめ」ではないのか?』)

 

 

 

【天皇陛下の譲位のご意向表明】 有識者会議も、特例法も、GHQ『皇室典範』改正も、「連合国への隷属」継続が前提の、亡国への道__正確な現状認識だけが日本を護る③

天皇との6年に亘る激論の末、「参与会議」が証明した「無効論」無視の議論の絶望的不毛

「摂政では駄目なんだ」:天皇陛下は強い口調で、きっぱりと仰った

 天皇陛下の「有識者会議」=「宮内庁参与会議」は、6年にも亘る天皇陛下御自身との激論を経てなお、天皇陛下の譲位のご意向実現の具体的方法について、結局何も決められなかった。この上誰が、どんな議論をして、何を、どう決めるというのか?

 

「私は譲位すべきだと思っている」

「天皇という存在は、摂政によって代行できるものではない。皇太子に譲位し、天皇としての全権と責任を譲らなければならない」

「(大正天皇の摂政設置は)大正天皇ご自身の意思に反するものであり、踏襲されるべき先例ではない」

「前提として天皇の高齢化という条件は必要だと考えるが、退位は、天皇の自由な意思で行われなければならない」

天皇陛下は、強い口調で、きっぱりとおっしゃった…。天皇からのお召しを受けた各界の「有識者」(宮内庁職員ではなく、あくまで「天皇の私的なご相談役」「経験や専門の知見を活かすというより、国民としての立場」での発言を要請され、3年ごとに更新される)3名と宮内庁長官、侍従長を加えた5名で、御所にて開かれる、皇室の重要事項に関して議論する「宮内庁参与会議」__その2010年7月22日の会議に於ける天皇陛下のご発言である。(『文藝春秋』2016年10月号「総力特集 『天皇 生前退位の攻防』  真相スクープ  『皇后は退位に反対した』」__この時のメンバーは元宮内庁長官・湯浅利夫、元外務事務次官・栗山尚一、東大名誉教授・三谷太一郎。2016年9月現在は元検事総長・原田明夫、元警察庁長官・國松孝次ら)

「陛下は激論も辞さないご姿勢でした。摂政案は、こちらがどう申し上げても受け入れられなかった。お考えはすでに固まっているなと思いました」(上記「参与会議」出席者)

話し合いをしながら食事ができるように、人数分並べられたお互いの弁当が、ぶつからないように気を使うほど幅の狭いテーブルをはさんで、午後7時から始まる「参与会議」はその日、稀にみる激論となり、深夜12時を回るまで、天皇の話__「摂政」ではなく「譲位」でなければならないことを「参与会議」出席者に納得させること__は尽きることなく続いた。

〈そんな参与会議で、10年7月以降、退位についての議論が重ねられた。天皇は「譲位」「退位」を主張して譲らず、自分が「上皇」になることで、どのような不都合があるのかとも問いかけられた。〉

〈当初は摂政の設置で解決するべきだとしていた皇后も、天皇の固い意思を確認されて、やがて退位を支持するようになる。〉

長い議論を経て、出席者たちも天皇を説得するのは不可能であることを悟るようになった。11年ごろには、議論は「退位」を前提としたものへと移っていた。〉(同上)

5年前、2011年ごろには、既に、天皇陛下の「有識者会議」である「参与会議」は、「天皇陛下の譲位のご意向は固く翻しがたいものである」との結論に達していたのである。

『文藝春秋』が表紙の大見出しにもした「皇后は退位に反対した」ことは、事実であるにしても実際にはそのこと自体が「スクープ」というほどのことではない。「参与会議」の出席者によれば、皇后陛下は「議論にお強く」「非常にシャープで、議論を厭わない」方であるらしい。その皇后さまも、数度の「参与会議」での議論を経て、陛下のご意思の固いのを確認され、当初の「退位反対」「摂政設置」のご意見を翻され、譲位を支持されるようになった。皇后さまの討論における通常のご姿勢を考えるなら、それは、ただ単に天皇陛下の固いご意思に根負けした、ということではないであろう。天皇陛下のご意向の後ろにある、事実と経験に基づく論拠に、納得された、ということであるはずだ。

当初、参与の誰もが「摂政設置」を主張していた。彼らの根拠は次の様なものであった。

「摂政に公務を任せる分、陛下のご公務が減ったとしても、国民の理解は得られる」

「皇太子殿下に摂政として経験を積んでいただくことは、将来的にも悪いことではない」

冒頭に引用したのが、これらに対する天皇陛下の反論である。

「摂政では、駄目なんだ」「天皇という存在は、摂政によって代行できるものではない」

陛下は、父君・昭和天皇の皇太子時代の、大正天皇の摂政をなさったご経験、そして今上陛下御自身の昭和天皇の公務代行をなさったご経験から、そう仰っている。

日本の歴史と伝統によれば、天皇の地位は、「万世一系の男系の血筋」をその継承資格としている。

天皇は、古代より連綿と、ただ一筋の血筋で125代続いてきた、というその事実により、世界に一人の希少なご存在であり、そうであるからこそ、世界一貴いご存在なのである。

何百年、何千年も生きている古木に霊が宿ると、日本人は信じる。天皇のご存在もまた、それと同様の霊的なご存在であるが故に尊いのである。

天皇の本質は「祭祀王」である。「天皇の務め」の本質は、祭祀である。

宮中祭祀の中には、天皇にしか行えない「秘儀」がある。「即位した天皇」だけが為す秘儀によって、「天皇霊」がその御身体に宿り、正真正銘の「天皇」になられる。

天皇によってのみなし得る「祭祀=天皇の務め」がある、ということである。

摂政や「公務代行者」には、それが務まらない。天皇が崩御され、次代の天皇が即位されるまで、その祭祀は行われない、行うことが出来ない、ということである。

祭祀王=天皇が、その第一の務めたる祭祀を執り行えない。天皇にとって、これ以上の屈辱があろうか?そしてそれは、日本の国体にとっての不仕合せである。

それが、8月8日の陛下の「御言葉」にある「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であることに変わりは(ない)」ということである。

大正天皇の摂政設置は、大正天皇ご自身の意思に反して行われたことであり、踏襲されるべき先例ではない、と天皇陛下ははっきりと仰っている。昭和天皇も、晩年の御不例の際、ご自身の大正天皇の摂政体験を以て、「摂政設置」を嫌われたといわれている。

「摂政設置」は「天皇の権威の低下」に直結する。

それでなくとも、連合国によって、彼らが日本に強要した『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』によって、天皇の権威は貶められている。

「大変過ぎる公務を、陛下が自ら増やしてしまった」「だから無理ならば止めればいい」という、無知で非情な言説が「識者」達の間に散見される事にも、それは表れている。

「天皇の務め」=「公務」を、式典や行事に出席すること、外国からの賓客を接受すること、出掛けて行って人に会うこと…、等と矮小化しているのだ。

これは天皇の神霊性を軽視・無視しているということ、つまりは天皇の権威の否定である。

GHQ『皇室典範』は、宮中祭祀を「天皇家の私事」として規定し、「公務」として認識していない。天皇を「祭祀王」として認識することを、憚っている。

人種間、国家間の対立を煽って混沌を招来し、利己主義を奨励し、無秩序・無政府状態を醸成して、世界戦争を起こし、世界同時暴力革命を達成するのが目的の国際共産主義者たちにとって、「八紘一宇=人類は皆家族」であらゆる人種を融合する祭祀王=天皇と、その天皇を「万民の父母」として奉じる世俗的家族主義・利他主義の日本人は、一人残らず消してしまいたい邪魔な存在である。

だから連合国は、「祭祀王=天皇」も「立憲君主=天皇」も、その存在を否定し、貶めた。

GHQによって廃止されかけた「宮中祭祀」を、「天皇家の私事」であるということにしてでも存続させた、という経緯が占領期にあったにしても、「国民のために祈る」という行為を「天皇家の私事」とすることは、「祭祀は天皇が勝手にやっているわたくしごと」とみなすこと、つまり「天皇の権威の軽視・無視・否定」を促進しているというその事実を、いま私達は見過ごしてはならない。

「宮内庁参与会議」は、「天皇の譲位のご意向を表明する」ということの他には、何も決められなかった__障害となったのは、政府と『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』であった。

「宮内庁参与会議」では、先述したように、2011年ごろには「天皇の譲位」を前提とした議論に移っていた。しかし、その後5年間、「参与会議」は大きな障害に立ちはだかられ、議論は進まなかった。決まったのは、「天皇のご意向をどういった言葉で表現し、いつ表明するべきか」ということだけであった。

「参与会議では、14年の時点で、翌年の15年12月のお誕生日会見で、退位に関するお気持ちを表明するという案が出ていて、ビデオメッセージという形式も考えていました」(宮内庁関係者  『文藝春秋』10月号 同上記事)

つまり、「参与会議」はたったこれだけのことを決定するのに3年を要し、しかもその決定された「お気持ち表明」は、今年8月8日にようやく実現するまで、さらに2年の「待った」をかけられたわけだ。

退位を実現させるために、政府をどのように動かすか。また、お気持ちの表明にあたり、政府の了承をどのように取り付けるか。それが、当初から最大の問題だったのです。」(宮内庁関係者 同上)

憲法にも皇室典範にも規定がない「退位」の実現には、典範改正か特別法の制定が必要になるため、政府の協力が必要となる。〉(同上)

当時の民主党政権と宮内庁とは、2009年12月の「小沢一郎、陛下のご体調に配慮した『一か月ルール』無視で習近平・天皇特例会見を強要」の一件以来、当然の如くギクシャクしていた。「大変異例なこと。もう二度とこういうことは有ってほしくない」と会見で発言した羽毛田宮内庁長官を、小沢は「一役人が内閣の方針にどうこう言うなら、辞表を出してからいうべきだ」と、公に批判した。宮内庁側からは、とても「退位」の件を相談できる雰囲気ではなかった、というのである。

「宮内庁長官といえど、皇室に関することを独断で発言することはできません。長官の発言は、ほぼ天皇のご意思と見ていい。自由に発言できない天皇のお気持ちを代弁した長官を、小沢氏は叱り飛ばしたのです。」(皇室担当記者  同上)

民主党には他にも「大韓航空機爆破事件」の北朝鮮元工作員(現在韓国在住)金賢姫の「超国賓待遇招聘・ヘリコプターで海自・米海軍基地上空『遊覧飛行』」(2010年7月)「秋篠宮殿下への『早く座れよ』不敬発言」(2010年11月)の中井洽議員という外患誘致容疑者がいるが、小沢同様、中国・韓国・北朝鮮への忠誠心の方が日本への愛国心より大きそうなのは間違いなく、その天皇・皇族への不敬は目に余る。

国会議員の半分は反日・天皇制廃止論者、あとの半分の殆ども、米国追従で、GHQの洗脳で脊髄を犯されており、日本の国体の危機を感じ取る感性を喪失している。このような連合国の意のままに操られる「敗戦利得者」のような人々に囲まれて激務をこなす陛下の焦燥感、孤独感は如何ばかりか…。想像に難くない。

2012年2月、天皇陛下は心臓冠動脈のバイパス手術を受けられた。

今上陛下が、おそらくは敗戦時の十代の頃から、70年以上も、我々国民には想像もできない類の「悪意」に対峙してこられたであろうことを思うと、もうこれ以上、一日たりとも長くお待たせすることはできない。

それが分かっていながら、政府は「有識者会議」による検討、「特例法」制定という間違った道を選んだ。

9月23日、政府が発表した有識者会議の名称は、「天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議」である。「公務負担軽減」__天皇の「譲位」の実現を話し合うのではなく、「参与会議」が6年前に通り過ぎ、天皇ご自身が却下された議題を、また掘り起こすというのである。

「私は譲位すべきだと思っている」

この問題の出発点となる2010年7月22日の「宮内庁参与会議」=「天皇陛下の有識者会議」は、陛下のこのお言葉で始まった。

「公務削減」は論外、「摂政設置」は不適切。「譲位」しかない。天皇陛下は6年前、そこから話を始められたのだ。

『週刊新潮』2016年7月28日号によれば、陛下念願のフィリピン訪問を果たされた後の今年春先に、宮内庁は天皇陛下のご公務の大量削減案を提出したところ、「(陛下は)いつになく強いご難色を示され(……)『こうした案を出すくらいなら、以前より私が考えてきたことは、なぜできないのでしょうか』というようなお言葉」で、叱責されていた。(侍従職関係者による)

宮内庁長官は、「参与会議」だけでなく、皇室の将来を案じておられる天皇陛下をお助けするため、皇后陛下が提案され、2009年から実現した、天皇陛下、皇太子殿下、秋篠宮殿下の「三者会談」にもオブザーバーとして臨席している(当初は羽毛田信吾長官、2012年から風岡典之長官)。

にも拘らず、陛下のご苦悩の原因が『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』による天皇の権威の軽視・無視・排除にあるのだ、という真実から、目を背け続けている。

9月26日に、退任した風岡長官の後任として、宮内庁長官に就任した山本信一郎は、2016年7月13日の最初のNHKの「天皇陛下のご意向表明」報道の際、宮内庁として「生前退位」の検討をしているかと聞かれ、「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していません」と語っていた。

天皇が自身の意向を表明し、それに呼応して政治が動けば「違憲」となる、だからこの「お気持ちの存在自体の否定」は天皇陛下を御守りしようとしてのこと、という「善意の解釈」が複数の「識者」からも聞こえてきている。

だが、それは話が逆さまだ。天皇の「譲位」についての規定がないどころか、崩御に至るまでその地位にあって公務を行い続けよ、と規定し、天皇自身の身の振り方についても天皇自身で決定できず、「主権者(=国民)=政府・国会」の下位に天皇を貶め、その決定に身を委ねさせる『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の非人道性、理不尽さに、まず疑問を投げかけるべきではないのか?

このようなおかしなものを『憲法』『典範』と呼んでいていいのか、これらが本当にその名を冠する資格があるのか、なぜ誰も問おうとしないのか?

天皇陛下の譲位のご意向の実現を阻んでいるのは、「『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』が有効である」という欺瞞である。

宮内庁、政府、国会…。現在この問題を動かす立場にあるものの誰もが、『日本国憲法』が天皇の政治への関与を禁じている、GHQ『皇室典範』には退位の規定がない、というところで思考が止まってしまっている。

宮内庁も、そしてなぜか「憲法改正」に執心する政府自民党も、『日本国憲法』の遵守に懸命で、「無効論」への言及すら聞こえてこない。

内閣官房副長官・杉田和弘は、天皇陛下のご意向が明らかになった7月13日直後、「皇室典範改正となれば、きっと物議を醸す。また、陛下のご発言が政治に影響を及ぼしたという事実自体が、憲法違反となりかねない」と周囲に言っていた。(『文藝春秋』2016年10月号上記記事)

杉田内閣官房副長官は、宮内庁長官の政府側のカウンター・パートであり、「有識者会議」の運営など、「天皇陛下のご意向」問題の実働部隊である、皇室典範改正準備室(こちらも独自に天皇の公務削減について検討していた)のトップである。

「陛下のご意向問題実働部隊」の皇室典範改正準備室の長までが、陛下を「違憲」呼ばわりし、「物議を醸すから」とGHQ『皇室典範』改正について躊躇しているのだ。

だが、『日本国憲法』もGHQ『皇室典範』も、改正の必要はない。いや、改正などして、これら無効なものを「有効認定」するようなことはしてはならないのだ。

『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認、そして大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認で、政府や識者が「困った、困った」と言って頭を抱えている問題は、全て解決するといってもよい。

にも拘らず、誰もが必死になって「無効論」という言葉すら国民の耳に届かないようにしているように思える。

「無効論」を知らないのか?そんなはずはない。自民党内だけでも、過去には稲田朋美、西田昌司らが「日本国憲法無効論」に言及していた。(「憲法無効論 渡部昇一・稲田朋美 YouTube」「現憲法無効論を主流にできるのか 週刊西田 一問一答 YouTube」)

稲田朋美防衛相は、衆議院議員に初当選の翌年2006年から、毎年行ってきた8月15日の靖国神社参拝を今年は見送り、なぜかアフリカ・ジブチを訪問させられた。これを画策したものが、彼らの「日本国憲法無効論」を圧殺しているとみて間違いないであろう。

陛下の譲位のご意向は、実現に向かうどころか、「保守」であるはずの政府自民党によって、また「ふりだし」に戻された。

安倍政権は、この「有識者会議」のメンバー選定にあたり、敢えて皇室問題・憲法の専門家を除いた。過去の発言などから、『結論ありきの人選』との批判を浴びかねず、議論が皇室制度全体に及ぶことへの懸念もありそうだ。議論を早期に取りまとめたい政権の思惑も透ける」と、日本経済新聞は推察する。(2016年9月24日)

要するに、安倍政権は「何も決めない」「(憲法改正のため)早期決着」という結論ありきの人選で、座長には安倍首相に近いとされる経団連(中国寄りか?)名誉会長・今井敬を据え、これまでの「有識者会議」経験者である御厨貴東大名誉教授、清家篤慶応義塾長らを含めた。御厨貴は「時間のかかる方法を避け、特例法で対応する必要がある」といっている。(同上)

「政治、歴史、行政など幅広い分野から選び、国民的議論を印象づける狙いもありそうだ」(同上)というが、この有識者会議の設置を以て「国民的議論が深まった」とされてはかなわない。

第一、「国民としての視点からの自由な意見の聴取」なら、天皇陛下が「参与会議」でもう済ませておられる。6年もかけて。これ以上何を、皇室問題の素人である人々から聞こうというのか?

それに、安倍政権は、「特例法で対処する」と、もう決めている。

しかも、「有識者会議」の議論が始まる前に、「特例法」について、既に法制局の「お墨付き」を取っている。

9月30日、横畠裕介内閣法制局長官が、衆院予算委員会で、「皇室典範そのものを改正せずとも、特例法を制定すれば天皇陛下の譲位の実現が可能である」との「見方を示した」

官邸幹部が「横畠氏の答弁は政府として(有識者会議の)意思統一したものではない」と弁解がましくいい、菅義偉官房長官も「法制局長官は有識者会議で幅広く検討を行うという前提に立ち、あくまでも一般論として言われたこと」と言っているが、これはどう見ても「お墨付き」だし、加えて御厨貴東大名誉教授の声もあり、「(有識者会議には)国民目線で真っ白な視点で議論してもらう」という政府の言は言っているだけ、の感が否めない。

法制局長官答弁は、正確には「皇室典範は特例、特則を定める別法も含みうる」とのことだが、これは『日本国憲法』第2条の「皇位は国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」というのを、「国会の議決した」法律が、皇室典範だけでなく、特例法も対象になる、という解釈である。

特例法は、例え法制局長官のお墨付きがあったとしても、「解釈改憲」にすぎない。

安保法制の時と同様、いづれ野党に矛盾を突かれ、退位後の天皇の地位が自衛隊同様の「違憲」の存在にされてしまうだろう。

「日本の国体の破壊装置」である、『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』は偽物だ。そんな偽物を国の根幹に据えていることの不条理に知らぬふりをし、そこから噴き出す矛盾に蓋をして回るだけでは、いつか大爆発を起こして汚物をまき散らすことになろう。そして、今のままではその時は近い。

「国民的議論を深めている」というポーズだけの、何も決めない「有識者会議」、天皇陛下のご意向の真意を理解し、「無効論」という法理的に正しい道を探ろうともせず、今上陛下御一代のみの譲位を「解釈によって許可」する「特例法」__これは、天皇陛下への侮辱である。

天皇陛下は、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ」ると仰った。それを承った国民は、その大多数が「今上天皇だけでなく、その後の天皇もずっと譲位を可能に」と、政府に要望した。

それを、政府は無視したのである。

政府自民党、安倍政権にお願い申し上げる。

今からでも遅くはない。「有識者会議」に日本国憲法無効論者を招聘し、無効論を国民に周知していただきたい。

正真正銘の公議公論に「日本国憲法無効論」を付し、国民に天皇陛下を補翼する機会を与えて頂きたい。

そうして、天皇陛下に心からの御安らぎを、差し上げて頂きたい。

1947年9月25日、昭和天皇の憲法の師・清水澄博士、大日本帝国憲法に殉ず

『日本国憲法』は、「国民の総意により」成立していない__美濃部達吉顧問官は「憲法改正」に反対して起立せず、枢密院議長・清水澄博士は連合国の無法な「新憲法」制定に抗議の意を表すため、入水自殺した

清水博士の「自決の辞」は、新憲法施行の日の1947年5月3日に書かれた。

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釜坂信幸氏ブログ 『枢密院議長、清水澄博士の思い…。』より

この「自決の辞」に言及されている「共和制採用を希望する私擬憲法案」とは、高野岩三郎の『日本共和国憲法私案要綱』のことであろう。

元東京大学経済学部教授であり、社会統計学者であった高野岩三郎は、敗戦直後の1945年10月29日、左派の同志と共に「憲法研究会」を設立、同年12月に『憲法草案要綱』を発表した。

高野はこの『憲法草案要綱』で「天皇制廃止」「国民主権」を唱え、GHQも新憲法草案の作成の参考にしたそうであるが、左派の「憲法研究会」でも最も過激な左翼思想の持主であったため、GHQ憲法草案の「象徴天皇制」すらも生温い、とばかりに「大統領制」「土地国有化」などを盛り込んだ『日本共和国憲法私案要綱』を発表。自身の所属する「憲法研究会」を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる民衆」と称して批判した。(参考:高野岩三郎 wikipedia)

GHQは、『日本国憲法』の制定が連合国によってなされたことも、その無法で卑劣なる制定に抗議して入水自殺した枢密院議長・清水博士や、不起立で反対の意を示した美濃部達吉顧問官など強硬な反対者がいたことも、当然ながら検閲によって、国民に知られないようにした。(当ブログ別稿『「日本人の魂の武装解除」:GHQ検閲リスト30項目で連合国が隠したかったこと』をご参照ください。)

日本国憲法改正の勅語、憲法公布記念式典の勅語には「日本国民の総意に基いて…」「この憲法は…自由に表明された国民の総意によって確定されたのである…」とある。が、これもGHQの脅迫に怖気づいた日本政府が、何とかつじつま合わせに天皇陛下にお願いして書いていただいたものである、と当時の法制局長官・入江俊郎氏が、1954年の自由党憲法調査会に於いて告白している。(p.73 菅原裕『日本国憲法失効論』新装版)

占領下の日本には、立憲君主の天皇を棄て、『日本国憲法』を自ら選び取る「自由に表明された国民の総意」など、かけらも存在していなかった。

高野岩三郎の『憲法草案要綱』の「国民主権」などを、GHQが参考にしたらしいことを以て、「『日本国憲法』は『押し付け憲法』ではない、日本人の発案によるものである」などと言う輩もあるが、連合国・国際共産主義者であろうと日本人の社会主義者であろうと、「万世一系の天皇がこれを統治する」=「日本の国体」を、姑息卑怯な手を使って改変しようとしたことに変わりはない。

高野は「象徴天皇制」を生温いといい、「天皇制廃止」「共和制」をしつこく主張したが、連合国は、「天皇制廃止」を諦めたのではなかった。

連合国は、『日本国憲法』の「象徴天皇」という「不思議な言葉」によって、「日本の国体が護持された」と日本国民と天皇を騙し、「国体破壊の時限爆弾」を仕掛けたのである。

天皇は、連合国によって、その主権者=元首=立憲君主としての地位を簒奪された。

天皇の正当な地位を、近代的立憲主義のもとに規定した大日本帝国憲法を、連合国は「天皇制強権支配の温床」と呼んで廃棄し、その代わりに『日本国憲法』という「連合国への隷従宣誓書」を、「日本人自身が自由な意思で選び取った」という虚構を打ち立て、世界に宣伝し、徹底的な検閲とプロパガンダで日本人を洗脳した。その洗脳は、今も続いている。

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War Guilt Information Program という洗脳プログラムには、「東京裁判」も含まれるが、最も日本国民一般に影響を与えたのは、連合国の「東京裁判史観」=「太平洋戦争史」(「大東亜戦争」の名称は検閲によって禁止された)に基づくNHKラジオの『真相箱』であろう。(先述の高野岩三郎は、占領初期より検閲・公職追放リスト作成などでGHQに協力した5100人の日本人のリーダー格として活躍し、1946年、GHQのプロパガンダ機関と堕したNHKの戦後初代会長に就任している。社会党顧問でもあった。)

WGIPが振りまいた「戦前の日本は悪かった」「大日本帝国憲法は悪法だった」という嘘の刷り込みが、「大日本帝国憲法を改正」し「民主的で正しい」『日本国憲法』を日本人に「受け入れ」させる土壌をつくった。

清水博士はご自分の無力を嘆いて入水し、「幽界より国体を護持」せんとされた。今、「戦後レジーム」という名の連合国利権を失いたくない利己的な輩が跳梁跋扈する日本に於いては、国民は誰も『日本国憲法』無効論の存在すら知らされず、「無効論」を知る少数の国民ができることの微小さは、占領下のそれと、さほど変わっていない。

だが、日本人は、最後まであきらめない。

清水澄博士の、大日本帝国憲法と天皇陛下への御忠義と誠心が、私達日本人に勇気を与えてくださることを念じ、ここに博士のご冥福をお祈りし、博士の御遺志を継いでいくことを誓うものである。

すめらぎいやさか。

(日本人が『日本国憲法』の真実を知るために、是非読んでおきたい参考図書を以下に挙げます。特に国会議員・官僚・学者、そして「有識者会議」のメンバーの皆さんは必読。逆説的ですが、「無効論」を知れば、「有識者会議」も、「特措法」「特例法」も、『皇室典範』改正も、「憲法改正」も、全く必要ないことが、そして、寧ろ害悪をしかもたらさないことが、お解かり頂けます。『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認と、大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認で、天皇陛下の譲位のご意向を速やかに実現し、なおかつ天皇に主権者=元首=立憲君主としての政治的権威をお返しすることで、正気を無くした日本人に喝を入れる。それが、今一番にしなければならない大切なことです。)

『日本国憲法』無効確認が連合国=国連の欺瞞を正し、国際法が真に機能する法治主義国際社会の未来を示す__正確な現状認識だけが日本を護る①

敵国条項があることによって、「『天皇制ファシスト国家』日本は『正義の』連合国の敵」という大嘘が「国際社会の暗黙の了解」であり続ける。

だから、国連は、敵国条項を未来永劫、絶対に外さない。ましてや、「拒否大権」という伝家の宝刀を持つ安保理常任理事国に、日本を据えたりはしないだろう。

だが、そんなものを欲しがる必要もまた、日本にはない。国連=連合国には本当の権威がないからだ。

連合国=国連が、「第二次世界大戦は『ファシスト枢軸』と『正義の連合国』の戦争だった」という明白な嘘を存在理由にしなければならないこと自体が、国連の「虚構の権威」を象徴している。「人権」という一見美しげな衣に包まれているが、その内側には黒々とした暴力至上主義が透けて見える。

日本に日中戦争・日米戦争を仕掛けた連合国の主体は、国際共産主義者であったが、第二次世界大戦の実相は、「国際共産主義者」vs「民族主義的全体主義=ナチズム」の戦いに巻き込まれた「祭祀王=天皇の国・日本」がアジア・アフリカの有色人種の代表として欧米植民地主義に抗った、ということであった。

既に欧米の植民地になっていたアジア諸国は、宗主国の軍隊に「植民地軍」として編入されて、日本に敵対することになったが、インド、インドネシア、フィリピン等では、独立戦争を戦うための軍隊の組織・訓練・武装を日本軍が行い、実際に敗戦後も数千の日本兵が残留して、ともに独立戦争を戦った。

あの戦争は、日本とアジアにとっては「大東亜戦争」であった。GHQの検閲で「太平洋戦争」と言い換えさせられ、日本とアジア諸国がともに戦った記憶は改竄されたのであった。

連合国の嘘により、日本は第二次世界大戦の悪役にされたが、それは同時に、「アジアの盟主」としての日本を叩き潰すことで、有色人種を二度と白人植民地主義国に楯突かせないためであった。

日本を骨の髄まで「敗戦奴隷」にするには、日本人の魂の象徴である天皇の権威を剥奪するのが一番である。

それが、『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』制定を強制した連合国の本音である。

連合国は、日本に『日本国憲法』を制定させることで、ヒトラー・ナチスの『全権委任法』によるワイマール憲法停止よろしく、正当な日本の憲法であり、近代立憲君主国の憲法として立派に機能していた大日本帝国憲法を停止し、正統な君主であり主権者である天皇の権能を剥奪した。

のみならず、正当な天皇家の家憲である皇室典範を、同名の『皇室典範』という、臣下が恣意的に天皇のあり方を決定できる「ただの法律」と挿げ替えて、祭祀王たる天皇の主たる務めである祭祀を「天皇の私事」とし、皇室全体を統率する権能も奪って皇室運営を不可能にし、皇位継承・皇統維持の手立てさえ天皇自身が決定できない仕組みにした。

しかも、「『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の制定は、『正義の連合国』の賢き指示により、『天皇制ファシズムの強権支配と侵略的軍国主義』を反省した日本自身が行った」ということにされ、日本中、世界中が洗脳されてそれを信じた。

連合国は、原爆投下と全国無差別絨緞爆撃による、究極の暴力で恫喝しながら、日本をひれ伏させ、『日本国憲法』を遵守するよう誓わせた。

政府と行政のみならず、メディアと教育を支配した連合国は、戦後は「公職追放」によって脅迫しながら「日本人自身によって」「自主的に検閲・洗脳」を継続させた。

講和条約でも「東京裁判の判決を受け入れる」ことを誓わせた。東京裁判は「日本の戦争犯罪」など何一つ証明しなかったにもかかわらず。

これら連合国の犯罪の事実のどこにも、「正義」などない。

『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認は、この連合国の犯罪を全て白日の下に曝す。

『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認だけが、日本をこの犯罪の行われた以前の、大日本帝国憲法下の原状に回復させる。

「大日本帝国憲法は軍国主義的憲法だった」「戦前の原状とは『天皇制強権支配』だ」というのは事実ではない、連合国の洗脳による虚偽の記憶である、と、日本人は気付かなければならない。

立憲主義と、民主主義のある日本、祖国の歴史と伝統に誇りを持ち、利他の心で諸外国と友好関係を築くことのできる、私達の日本を取り戻せるのである。

連合国が、自身の犯罪を正確に認識することも、連合国自体にとっても、国際社会にとっても重要である。今のままでは、連合国=国連の謳う「自由」も「民主主義」も「人権」も、暴力至上主義者の言う大嘘に過ぎない。それでは国連は、いつまでたっても「国際社会の権威」たり得ない。

本物の権威でないから、連合国=国連は他者の振るう暴力を止められず、自身も他国の紛争への仲裁に、暴力を使うしかなく、暴力の連鎖を止めることが出来ない。

連合国=国連が自身の犯罪を認識することだけが、本当の世界平和への第一歩となる。

日本の権力者たちよ、『日本国憲法』無効論の無視・故意の不周知は、暴力至上主義・国連の無法の片棒担ぎと知れ!

(2016年9月26日・2016年12月14日改訂)

 

「生前退位」という言葉の連呼は、天皇陛下に対する「お葬式いじめ」ではないのか?

「退位」というのは「王位・帝位を退く」という意味しかなく、必ずしも次代への連続性を意味しない。清朝のラスト・エンペラーは退位し、清朝は滅びた。

そして、「退位」は王位・帝位にあるものが行為者であるから、当然その行為者の「死」の前に、つまり「生前」に行われる。

この「いわずもがな」で、しかも「死」を連想させる「生前」という語を、「次はないかもしれない」という意味を含む「退位」に付けた「生前退位」とは、不敬であると同時に、「お葬式いじめ」に匹敵する非道な言葉である。

国民がいままで聞いたこともないこんな言葉を思いついたのは誰だ?

その語の最初の使用者であるNHKか、それとも「天皇陛下のご意向」をリークした「宮内庁関係者」か?

「生前譲与」がOKならこれだってOKでしょ、という軽いノリだったのか?だが、竹田恒泰氏も言っているように、自分の親にでも「生前譲与してよ」のように、平気でこの言葉を使える日本人がいるのか?

天下のNHK、「日本国民のための、日本国民の知性を代表する公共放送」であるはずのNHKが、こともあろうに天皇・皇室がらみの報道で使用される表現にこれほど無頓着であった、という事実、そして、竹田恒泰氏や加地伸行氏らがそれぞれYouTubeやTwitter、論文(加地伸行『「生前退位」とは何事か』_『WILL』2016年9月号)で指摘した後も、反省の色なく、カッコもつけずにしれっと使い続けるのが朝日新聞、日経新聞を始めとする左翼親中メディアに限らず、保守系メディア・識者の中にも散見される、という事実が、この問題の深刻さを象徴している。

『日本国憲法』の「象徴天皇」と、昭和天皇の「人間宣言」を、国民が好意的に解釈して安心しているうちに、連合国・GHQの国際共産主義的洗脳教育で養成された反日的「戦後エリート」達の支配層への蔓延によって、「天皇の軽視」「天皇の権威の喪失」=国体の危機が現実のものとなっている。

最終目標は天皇の処刑

天皇陛下の御命を狙い、日本の国土、尖閣・沖縄の侵略に着々と歩を(船を)進めている中国と、その手下・韓国と北朝鮮が、連合国の「戦後レジーム」利権に乗っかって日本政府と官庁、NHKとメディアの中枢に浸透し、好き放題をやっている。

『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認・大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認だけが、この無礼・無法を「許さない」と、世界に宣言する効果を持つ。

もう、黙っていてはいけない。天皇陛下と日本の名誉の為に、行動を起こそう。

安倍政権は、せめて「『日本国憲法』無効論」を国民に周知し、公儀公論に付し、正しい方向へ、舵を取るべきだ。

原爆と真珠湾:あの戦争の真実を、オバマ広島演説の自己欺瞞が覆い隠している

「『日米同盟』と『友情』という『希望の選択』」? 原爆投下正当論の修正と、本当の「人道に対する罪」:東京裁判・War Guilt Information Program・「『日本国憲法』の制定」の認罪で「真に対等な日米同盟」を実現せよ__感動のスピーチを「きれいごと」で終わらせないために…。

真珠湾を「騙まし討ち」にした責任を隠蔽してきた外務省と、『日本国憲法』無効・廃棄のチャンスをむざむざ捨てた吉田茂の「未必の故意」を追及し、日本と米国に真の和解を!

「我々には共同責任がある__歴史を直視し、他のどんな違ったやり方をすれば、あのような苦しみを撲滅することができるのか、問う責任が」

“…we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.”

2016年「伊勢志摩G7サミット」のため来日中のオバマ米国大統領は、5月27日広島を訪問し、原爆記念碑に献花した後、被爆者を含めた聴衆を前に感動的な、そして歴史的な演説をした。

「核なき世界」という崇高な理想を唱えて、ノーベル平和賞を受賞した「スピーチのオバマ」の面目躍如たる、格調高さと誠実さを、ともに感じさせる文面である。

「科学の発展は、これまでにない効率の良い殺人機械をも作り出してしまう」(”Science…can be turned into ever more efficient killing machines.”)

「将来、広島と長崎の名が人類最初の核攻撃を受けた場所としてでなく、我々人類の倫理観の覚醒の始まりの象徴として人々に知られるように」(in a future…Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare but as the start of our own moral awakening.)

だがこれは、「(米国が、でなく)科学の発展が、生み出した」原爆という大量殺戮兵器の存在を「人類共通の責任」とすることにより、「その悪魔の兵器を日本の無辜の民に対して使用した」という道義的責任に蓋をした、姑息な言い方でもある。

「原爆投下という『加害責任』を認め謝罪する」ことに繋がりうる言葉を、オバマは慎重に、だが徹底的に排除した。

「原爆投下により戦争終結が早まり、日本が戦争を続行した場合に日本本土決戦で犠牲になったはずの、数百万の米兵と日本の軍民の命が救われた」とする「原爆投下正当論」は、米国の退役軍人・高齢世代を中心に今もなお根強くある。(「日本人の命も救ってやった」という恩着せがましさよ。)

オバマはこれらの正当論者、特に強硬な退役軍人にライス米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)を通じて「米国はいかなる状況でも謝罪しない」と明言することで黙認を取り付け、戦後長らく「タブー」とされてきた広島訪問を、実現した。次期大統領共和党候補指名確実のトランプも、オバマの広島訪問について「大変結構なこと、謝罪しない限りは」と選挙集会で語っていた。

事実、オバマ大統領は黙とうはしたものの、「頭を下げる」というジェスチャーはこれもまた注意深く避けた。

また、演説そのものにも、「非道な戦争行為はお互いさま」「いや、米国と連合国はやはり正義=日本とドイツの悪行を思い出せ」というニュアンスがそこここに散りばめられていた。

「But we have a shared responsibility to look directly into the eyes of history」(歴史を直視する共同責任がある)

Empires has risen and fallen. Peoples have been subjugated and liberated. And at each juncture, innocents have suffered……」(ナチス・ドイツの第三帝国と大日本帝国?「南京大虐殺」?)

「……some 60 million people would die. Men, women, children, no different than us. Shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death.」(「バターン死の行進」とナチ・ホロコースト?)

「shared responsibility」とは、米国の「原爆投下正当論」者にとっては「日本が最初に悪事を働いたのだから、当然日本に大半の責任があるが、原爆のとてつもない殺傷能力は米国の予想もはるかに超えていた。確かにoverkill(過剰殺戮)だったかもしれない…」という「過剰防衛」くらいの責任の度合いであるが、大方の日本人にとってみれば「米国が(『共同』とはいえ)責任を認めた」とはつまり、「これで戦後が終わる」というくらいの重みのある文言である。だから米国の退役軍人はオバマの広島訪問を黙認し、日本人は歓迎一色に染まった。

オバマの広島演説は、安倍首相の戦後70年談話と対をなす「玉虫色の日米和解エールの交換」というべきものであった。

おそらくは、安倍首相(日本)とオバマ大統領(米国)の間には「これで戦後レジームの脱却云々は手打ちにして、今後は『日米同盟調整メカニズム』がスムースに運ぶようお互い努力しよう」という了解があったのであろう、と想像する。

日米同盟強化作戦__といえば対等な同盟の共同作戦のように聞こえるが、実のところ、米国が日本の「集団的自衛権」の行使を、事実上米国が自軍の展開を削減したいアジア地域での、中ロ牽制の役割に特化して、日本に特別に認める、ということである。米国が「被保護国・日本の影の宗主国」として主導権を握る状況に変わりはない。

「対等な日米同盟」は、今のままでは、実現にほど遠い。

オバマ大統領は「The United States and Japan have forged not only an alliance but a friendship」(米国と日本は「同盟関係」だけでなく、「友情」も培ってきた)といい、安倍首相は「熾烈に戦い合った敵は70年の時を経て、心の紐帯が結ぶ友となり、深い信頼と友情によってむすばれる同盟国となりました。」と、昨年2015年の米上下両院合同会議での演説での言葉を引いて、オバマの言葉に応えた。

だが、両者のいう「友情」「同盟」には温度差が歴然としてある。

「オバマ大統領は日本にいる間、真珠湾への卑怯な騙まし討ちのことを話し合ったのか?何千人ものアメリカ人の命が失われたのだ___ドナルド・J・トランプ」(Twitter)

Does President Obama ever discuss the sneak attack on Pearl Harbor while he’s in Japan? Thousands of American lives lost. ___Donald J. Trump https://twitter.com/realDonaldTrump

米国は原爆投下を正当化した。だが日本はひどいことをした。」「訪問を謝罪の枠組みにはめると、本来必要のない議論が起きます。」ジェニファー・リンド 米ダートマス大准教授(朝日新聞2016年4月23日)

「米大統領の広島訪問は、日米関係だけにとらわれると原爆投下についての謝罪の有無が問題になり、逆に日本による真珠湾攻撃の責任も持ち出され、国家のメンツやナショナリズムを刺激しかねない。」入江昭 ハーバード大名誉教授 (朝日新聞2016年5月29日)

「訪問と同時に謝罪も求めると、過去の戦争の評価をし直すことになる。」美根慶樹 平和外交研究所代表・元軍縮大使(朝日新聞2016年5月28日)

米国人保守はともかくとして、左翼学者とはいえ、日本人までもが「真珠湾攻撃」を「卑劣な騙まし討ち」として認識し、まるで「米国の原爆投下への謝罪」に対し「日本の真珠湾攻撃への謝罪」が当然必要かのような話になっている。「米国に謝罪など求めれば、ヤブ蛇的に日本の戦争犯罪のことも突かれてしまうぞ」と、暗にほのめかしてさえいる。

このことこそが、「戦後レジーム」の中にどっぷり浸かった人々の自己欺瞞なのだが、それに気づいていないのか、それとも他の日本人に気づかせたくないのか…。

オバマの最初の大統領選の際、対抗馬のマケインの副大統領候補として奮戦した、当時アラスカ州知事のサラ・ペイリンは「私たちが始めたわけではない戦争を、米軍が終わらせたことが間違いだったと示唆した」と今回のオバマの広島訪問を非難した。

だが本当に、アメリカは日米戦争を「始めなかった」のだろうか?

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Memorandum for the Director  Subject: Estimate of the Situation in the Pacific and Recommendations for Action by the United States p.4/4

米国は1940年10月7日付のマッカラム覚書で、「日本に最初の一撃を撃たせるため」の経済封鎖・石油禁輸など8つの項目を挙げ、その通りに日本を挑発して戦争に向かわせた。

1941年7月23日、側近に国際共産主義者を配したルーズベルトは、コミンテルンのスパイであったラフリン・カリー大統領補佐官の、中国国民党と連携しての日本爆撃計画に承認のサインをしている。

1941年7月26日、同じくコミンテルンのスパイであったハリー・デクスター・ホワイト財務省通貨調査局長の提案で在米日本資産が凍結され、日本の金融資産は無価値となった。

日本側がまだ必死で戦争回避の交渉を続けていた1941年11月に米国から突きつけられ、事実上の対日最後通牒となった「ハル・ノート」の実質作成者は、そのホワイトであった。

ルーズベルトは、日本を対米戦争に向かわせるまでに、完全に追い詰めた「ハル・ノート」の存在を、米国議会に隠したまま、日本の「真珠湾の騙まし討ち」を非難する演説をして、ハミルトン・フィッシュら参戦反対論者を騙し、対日参戦の決議を勝ち取った。

しかも、米国海軍の太平洋での機動力を殺ぐ為の「空母狙い」の真珠湾「奇襲」攻撃は、事前に日本側の暗号を解読し、攻撃目標を察知していたルーズベルトによって、その効果を半減させられた。

1941年12月7日(ハワイ時間)、真珠湾に、空母はいなかった。太平洋艦隊の主力、2隻の空母USSエンタープライズとUSSレキシントン、そして21隻の最新鋭戦艦は、ワシントンからの突然の命により、攻撃数日前にパール・ハーバーを離れ、ウェーキーとミッドウェイにそれぞれ派遣されていた。

マッカラムの「日本挑発行動8項目」の存在を知らされていなかった、真珠湾基地の太平洋艦隊司令長官H.E.キンメル大将は、暗号解読により日本の宣戦布告・ハワイへの攻撃が間近であることを察知し、これを洋上で迎え撃つため、独断で北太平洋へ帝国海軍機動艦隊の捜索部隊を出すが、ホワイトハウスはこれを知ると部隊の引き返しを命じてきた。

日本が機動艦隊を差し向けてくるのが確実な北太平洋を、「空白海域」として米国海軍の航行を禁止する、というのがホワイトハウスの命令であった。日本には自由で順調な航海の後、計画通り真珠湾に「卑怯な騙まし討ち」をかけてもらわねば困るからである。

キンメルと、真珠湾に残されたスクラップ待ちの老朽戦艦たちは、ルーズベルトによって、日本を誘い出すための囮とされたのだった。

1941年12月16日、キンメルは真珠湾の「失策」により少将に降格された。1999年5月25日、キンメルと、同時に降格されたウォルター・ショート米陸軍ハワイ部隊司令官の、名誉回復と階級復元が米国議会で決議されたが、当時の大統領クリントンも、ジョージ・W・ブッシュもオバマも、実行に移していない。

Pearl Harbor resauces 2
“Japan’s Decision for War in 1941” by Jeffrey Record / “FDR: The Other Side of the Coin” by Hamilton Fish, LL.D. / “Day of Deceit: The Truth about FDR and Pearl Harbor” by Robert B. Stinnett

対米戦争を日本に決意させた根本原因は、経済と名誉の問題だった。1941年7月の、ルーズベルトによる在米日本資産の凍結に続く対日経済封鎖は、日本にとって経済的・軍事的破滅の脅威であった。」(”The roots of Japan’s decision for war with the United States were economic and reputational. The termination of U.S. trade with Japan that followed Roosevelt’s freezing of Japanese assets in July 1941 threatened to destroy Japan economically and militarily.” p.48, Japan’s Decision for War 1941, Jeffrey Record)

「(日本国内に無く、アジアには有る日本の製造業が必要とする原材料の)供給が途絶えたら、1000万から1200万の失業者が発生すると、日本は恐れたのです。彼らの開戦目的は、つまり、大部分が安全保障に拠るところが大きかったといえます。」(“They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.” ) (ダグラス・マッカーサー元連合国軍総司令官の米国議会上院軍事外交共同委員会での証言、1951年5月)

1928年12月7日、ケロッグ米国務長官は、米国議会上院の不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)批准の是非をめぐる討議において、経済封鎖は戦争行為そのものだと断言している。
東京裁判史観は「日本はパリ不戦条約に違反して侵略戦争を行った」というが、その不戦条約の中心人物であるケロッグ自身が「経済封鎖は『戦争行為』である」と断言したということはつまり、真珠湾攻撃の何か月も前に、経済封鎖を日本に仕掛けていた米国こそが、日米戦争において真の「最初の一撃を撃ったもの」であり、真の「侵略者」である、ということになる。
しかし、ケロッグが説明したように、侵略戦争かどうか、自衛戦争であるかどうかを決めるのは、戦争当事国の裁量に任されている。
米国が「侵略ではない」といえば、侵略ではないのだろう。矛盾と欺瞞だらけの国際社会に、我々は生きている。
ここで明白なのは、しかし、全世界のどの国も当然持っている「侵略かどうか、自衛かどうかを決める裁量権」を、独り日本だけには「与えられていない」ということである。それを決めるのは、連合国なのだ。

連合国が与えた『日本国憲法』によって、日本は自分の行う戦争が「自衛かどうか」を決めることができなくされている。

『日本国憲法』が、日本に「国連(連合国)至上主義」の軛をかけ、GHQの洗脳から日本国民が解き放たれるのを阻んでいる。

日本を、今でも事実上の敵国と規定する国連憲章の敵国条項(第53条・第107条)は、1995年の国連総会で、「既に死文化している」という過半数の賛成により、その削除が採択されたにも拘らず、批准されず、いまだ削除されずにいる。キンメルらの名誉回復が米国議会によって決議されながら、大統領によって実効化されずにいるのと同じだ。ここにも「玉虫色」の、「見せかけだけの正義」がある。

敵国条項によれば、「連合国の敵(つまり日本)が侵略戦争を仕掛けている、と連合国(の一国)が信じれば、安保理の許可なしに(日本を)攻撃してよい」ということになっている。つまり、日本を攻撃したければ「日本が侵略しようとしている」と言えばよく、反対に日本はそれへの反撃すらも自衛と認めてもらえない可能性がある。

この戦慄すべき不平等、唾棄すべき日本への差別。

このことを連合国が認識し、国際社会に周知しない限り、彼らのいう「同盟関係」「友情」という言葉に誠はない。

欺瞞に満ちた「偽りの同盟」は「1945年8月のソ連による満州侵略」の再現に繋がる__そこに心からの信頼関係はない。

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米国と連合国は、「日本は『天皇制強権支配』『侵略的軍国主義』によって日本国民を抑圧し、世界征服の野望に燃えて、アジア諸国を侵略した」という誣告=嘘を根拠に、日本の憲法を挿げ替えた。

連合国は、「象徴天皇制」「国民主権」を謳う『日本国憲法』によって、優れた立憲君主として立派に機能していた天皇から政治的権能を奪い、皇室弾圧法である『GHQ占領典範』によって皇室の自治権を奪って、皇統の危機を招来している。

広島と長崎に原爆を落とし、冷酷にも研究対象としてその被害者を観察した米国は、同じ冷酷さで日本人を洗脳した。歴史を書き換え、戦前の日本そのものを「邪悪な存在」として全否定し、「米国・連合国=正義の味方」史観ともいうべき虚構を日本人の頭に刷り込んだ。

『日本国憲法』第21条が禁止する検閲を、徹底的に行使することによって、連合国は今もなお日本人の「知る権利」を蹂躙しながら、日本の言論を弾圧し続けている。洗脳は、今も続いている。

その効果で、中国の露骨な「西太平洋での覇権」を目指す侵略行為を目の当たりににしながら、日本人の多くが、「中国を侵略した日本は中国に意見できない」という、植え付けられた贖罪意識によって、声を上げるのを遠慮してしまう。

同様に、原爆投下正当論は日本人の中にも浸透している。「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行」等をいまだに事実と思い込んでいる人々は、「原爆投下が日本軍のアジアでの残虐行為をやめさせた」という偽のロジックに反論できない。

だが、本当に、日本と日本人は連合国の言うような邪悪な存在だったのか?

天皇は「国家神道」を臣民に強要して強権支配していたのか?大日本帝国憲法は日本人を搾取する悪法だったのか?日本人の天皇陛下への思慕は、強制されたものだったのか?

Hiroshima Hersey
ジョン・ハーシー『Hiroshima』

被爆者は「戦争を起こした天皇」を憎みながら、死んでいったのか?

第二次大戦中、従軍記者として『ライフ』誌などに寄稿していたジョン・ハーシーは、『ザ・ニューヨーカー』誌の企画記事を書くため、原爆投下の一年後の広島を訪れた。『ザ・ニューヨーカー』1946年8月31日号の大部分を占める長編記事として初出版されたハーシーの『Hiroshima』は、ハーシーがその被爆体験を聞き取った沢山の生存者のうち、6人の体験に焦点を当てて構成されている。

その6人の広島市民(ドイツ人イエズス会神父をふくむ)がハーシーに語った原爆体験は、しかし、原爆の明白な超絶的破壊力にも拘らず、「阿鼻叫喚の地獄絵図」ではなかった。いや、4000度の熱線により即死、或いは即日死を免れた生存者も、多くは恐ろしい火傷を負っていた。程度の差こそあれ、誰もが何かしらの傷を負い、家を破壊され、路頭に迷っていた。咽喉が渇き、空腹だった。それは恐ろしく、悲惨な光景だったであろう。

にも拘らず、日本人は静かだった。

「西洋人であるクラインゾルゲ神父にとって、何百人もの負傷者たちが、ひとかたまりになって、身の毛もよだつような恐ろしい傷に苦しんだ川辺の木立__その場の静けさは、神父の原爆体験の中でも、最も恐ろしく、また畏怖の念を起こさせる、不思議な光景のひとつであった。負傷者たちは静かだった。涙を流して泣くものはいなかった。傷の痛みに大声をあげる者もほとんどおらず、不平を言うものもいなかった。多くのものが死んでいったが、みなひっそりと死んでいった。子供たちですら、泣く者はいなかった。話をする者さえいなかった。クラインゾルゲ神父が、原爆の熱線により、顔形も判別できないほどに焼けただれた人々に水を与えた時、彼らは自分の分をすすったあとで、少し起き上がり、神父にお辞儀をするのだった。」

(“To Father Kleinsorge, an Occidental, the silence in the grove by the river, where hundreds of gruesomely wounded suffered together, was one of the most dreadful and awesome phenomena of his experience./ The hurt ones were quiet; no one wept, much less screamed in pain; no one complained; none of the many who died did so noisily; not even the children cried; very few people even spoke. And when Father Kleinsorge gave water to some whose faces had been almost blotted out by flash burns, they took their share and then raised themselves a little and bowed to him in thanks.” p.49, Hiroshima)

大災害に襲われた時、日本人は騒がない。そのことを、戦争を知らない私たちも、2011年のあの未曽有の大震災の後に確認した。日本人は、太古から自然災害を被り続けるうち、いつしか「文句を言っても仕方がない。今自分のできる最善のことをするだけだ」という達観した態度を身に着けた。それは、子供でも女性でも同じだった。

広島ジャザブイン[ママ]女学校のノブトキ・カヨコは、原爆が炸裂した時、何人かの友達と一緒にお寺の大きな塀の脇で休んでいた。少女たちは爆風で崩落した重量のある塀の下敷きになり、動けなくなった。すぐにその隙間から煙が立ち込めてきて、重い塀の下で、少女達は窒息しそうになっていた。

「少女達の一人が国歌の『君が代』を歌いだした。ほかの少女達も一緒になって歌い、そして死んでいった。[カヨコ] は塀に割れ目を見つけ、何とか必死に這い出した。赤十字病院に運ばれた時、[カヨコ]は友達がどんな風に…皆で一緒に国歌を歌いながら死んでいったか…を伝えた。彼女らはまだ13歳であった。」

“One of the girls begun to sing Kimi ga yo, national anthem, and others followed in chorus and died. Meanwhile one of them found a crack and struggled hard to get out. When she was taken in the Red Cross Hospital she told how her friends died, tracing back in her memory to singing in chorus our national anthem. They were just 13 years old.  p.116, Hiroshima)

広島大学の文学と科学の教授であるヒライワ博士は、東大生の息子と一緒に、原爆に破壊された二階建ての自宅の下に埋もれていた。二人とも、非常な重みの下で、一寸も動くことができなかった。家は既に火に包まれている。

「息子が言った。『お父さん、もうどうにもなりません。覚悟を決めて、お国の為に命を捧げましょう。天皇陛下に万歳三唱しましょう。』 父は息子の音頭で『天皇陛下、万歳!万歳!万歳!』と三唱した。『天皇陛下に万歳三唱したところ、』ヒライワ博士は言った。『不思議なもので、心が静まり、元気が出てきて、とても安らいだ気分になったのです。』その後、息子は脱出に成功し、瓦礫を掘り起こして父親を引っ張り出した。助かったのだ。その時の体験を思い出しながら、ヒライワ博士は繰り返した。『私たちは日本人でなんと仕合わせなことでしょうか!天皇陛下のために死のうと覚悟を決めた時、私は生まれて初めて、あんなふうな素晴らしい気分を味わいました。』」

(“His son said, ‘Father, we can do nothing except make our mind up to consecrate our lives for the county. Let us give Banzai to our Emperor.’ Then the father followed after his son,  ‘Tenno-heika, Banzai, Banzai, Banzai!’ In the result, Dr. Hiraiwa said, ‘Strange to say, I felt calm and bright and peaceful spirit in my heart, when I chanted Banzai to re’ Afterward his son got out and digged down and pulled out his father and thus they were saved. I thinking of their experience of that time Dr. Hiraiwa repeated, ‘What a fortunate that we are Japanese!’ It was my first time I ever tasted such a beautiful spirit when I decided to die for our Emperor.'” p. 115, Hiroshima)

私たち日本人は誰もが、天皇が、ヨーロッパの専制君主のような「搾取者」「強権支配者」等ではない、ということを知っている。

天皇は戦前も、今も変わらず、「立憲君主」であり、「万民の父母」である。GHQの「人間宣言」は、日本の文化と伝統に無知な外国人の、ピントの外れた天皇観からの発想であって、日本人には至極当たり前の話であった。

日本人は原爆に怯えて終戦を決意したのではない。寧ろ、「一億玉砕」を覚悟している国民に、天皇が「もうよい、矛を収めよう」と語りかけたのが「玉音放送=終戦の詔勅」であった。

天皇の「堪え難きを堪え忍び難きを忍び…万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん」という言葉をうけ、敗戦の無念を胸にしまい、日本の明日の為にしっかり生きてゆこう、とういう天皇の言葉を体現すべく、心を一つに立ちあがったのだ。

日本国民が『日本国憲法』を「受け入れた」のは、天皇が公布の詔勅を出したからである。

「この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたのである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基づいて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。」(日本国憲法公布記念式典の勅語)

1946年11月3日、貴族院議場で挙行された『日本国憲法』公布記念式典で、国民の熱烈な歓呼を受けたのは『日本国憲法』ではなく、天皇の存在であった。

だが、日本人は知らなかった。この詔勅そのものが、『日本国憲法』誕生のいかがわしさを糊塗するために、「何とかつじつまを合わせようというので(天皇にお願いして)受けた」(公布当時の法制局長官・入江俊郎)ものであったということを。

「帝国憲法を全面的に改正した」といいながら、帝国憲法の改正方法に全く則っておらず、また改正の限界を超越しており、帝国憲法違反であることも、そもそも占領軍による「憲法改正の強要」はハーグ陸戦法規違反であることも、日本人は知らされなかった。

「国体護持」の条件付きで呑んだポツダム宣言に違反して、「象徴天皇制」「国民主権」という左翼全体主義的制度に「国体改変」したGHQの、日本人への差別的な人権無視を批判することさえ、日本人は許されなかった。

全国焼夷弾爆撃と原爆ニ発で「日本国土の完全破壊」を示唆。「天皇の身柄は保証せず」と恐喝。公職追放で、家族ともども路頭に迷う100万人の困窮を見せつけられながら、明日は我が身と怯える帝国議会議員による、実質「英語で書かれたGHQ憲法草案の日本語翻訳作業」でしかなかった「憲法改正委員会」を、「自由に表明された国民の総意」と呼ばせる、連合国の無法無体を、検閲という全体主義的行為によって、GHQは日本国民から隠し通した。

そして、ポツダム宣言のいう「無責任なる軍国主義」「日本国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤」の「証拠」として、偽証罪なし「訴えたもの勝ち」の東京裁判で、2年にも亘って偽の「日本の戦争犯罪」を並べ立て、日本と日本人に無数の冤罪を着せた。

連合国が固執した「憲法改正」の拠り所となった「アジアにおける『残虐非道の侵略軍=帝国陸海軍』による虐殺(『南京大虐殺』)虐待(『バターン死の行進』…後に『慰安婦性奴隷強制連行』)」も、すべては悪質な誣告であった。

『日本国憲法』は、「GHQの押し付けだから」という遥か以前に、連合国の日本人差別に満ちた占領政策における犯罪の集大成であり、当然無効である。

GHQは、言論機関・メディア・教育体制を通じて、東京裁判史観を国民に広め(WAR GUILT INFORMATION PROGRAM)、同時に30項目に亘る検閲(PRESS CODE=CENSORSHIP)で徹底的に真実を隠し通した。それらは全て、犯罪であった。

日本人は、戦後70年余、「知る権利」を蹂躙され続けている。「残虐非道の虐殺者、性奴隷を持った国」の国民として、「一億総前科者」扱いされている。汚されているのは祖父の名誉ばかりではない。

これは人道に対する罪、「正義」に対する侮辱ではないのか?

 

「日米の記憶 結ぶ機会に」と題されたインタビュー記事で、朝日新聞など左翼メディアに人気のコロンビア大教授、キャロル・グラックは、オバマの広島訪問を前に言う:

「原爆投下の記憶をめぐる米国と日本の記憶は対照的で、お互いに重なりません。米国の場合は(…)広島と長崎への投下で終わり、その下で起きた惨状は語られません。一方、日本の場合は原爆投下とそれで生じた被害から始まります。戦後日本が平和国家を目指すためのきっかけとなっていますが、それまで続いた戦争は登場しません。」「(戦後70年余で戦災に関する記憶の多くが変化した。が、原爆の記憶は変わっていない。その訳は)米国は原爆の倫理性、日本は侵略戦争の問題を直視しなくてす(むから。)ホロコーストや南京大虐殺、日本軍の慰安婦などは(人々がどのように記憶し、語るのかが変わった)典型(…)。」 (朝日新聞2016年5月17日)

後半、話の焦点がズレてくるが、要するに、『日本国憲法』とともに連合国の押しつけた「日本悪玉史観」が近年風化しかけている、日本はなぜ「原爆を落とされた」のか、その理由に思いをいたせ、とのご高説である。

だが、グラックは連合国と米国の「占領軍が日本に何をしたのか」については、不問のままだ。

連合国の占領政策と東京裁判を検証しなければ、「日本の侵略戦争」の誤謬を認識できず、正確な知識に基づく、実証主義的歴史認識を持つことができない。

キャロル・グラック、ジョン・ダワー…、国際共産主義者の意を体する米国の高名な学者たちが、いくら偉そうに日本の「侵略戦争」批判をぶっても、もはやかつての権威的圧力は感じられない。戦後70年余、「日本の加害の証拠」は論破され尽くし、「連合国の加害の証拠」ばかりが蓄積されてゆく事実には、寧ろ哀れを催す。

いや、キャロル・グラックの「日本の侵略戦争批判」の歯切れの悪さは、愚民化政策で日本人(と米国人、そして世界中の人々)を無知なままに置こうとした、国際共産主義者たちの「戦後レジーム」が、いま崩壊の崖っぷちに立っていることへの焦慮であろう。

嘘の上に嘘で塗り固めた「連合国善玉史観=日本悪玉史観」は、遅かれ早かれ崩落の運命にある。

だが、それを必死で抑え込もうとしている勢力が、日本国内にもある。もはや死に体の左翼政党や朝日新聞ら左翼メディアのことではない。

真珠湾攻撃が「騙まし討ち」ではなかったと、説明できる立場にありながらそれをせず、結果、「卑怯な日本人」への米国民の激昂を煽り、米国側の「原爆投下正当論」に加担した、日本の外務省である。

外務省の罪を問う

1945年12月7日、ワシントンの日本大使館は、事務執行上の失態により、本省から指定されていた「最後通告」の手交時刻を1時間20分も遅延させ、事実上、真珠湾攻撃を無通告の「騙まし討ち」にしてしまった。

米国務省のコーデル・ハル長官に、その文書を届けた野村大使と来栖大使は、それが日米交渉の打ち切り、つまり「宣戦布告」を意味する「最後通告」である、とは知らなかった。だが、開戦前日に、大使館は本省より「訓令次第何時にても米側に手交し得る様文書の整理其外予め万端の手配を了し置かれ度し」の指示を受け取っていた。そして、手交時刻を「午後1時」と指定してきた。「重要な文書であるので現地のタイピストを使わないように」との指示まであった。

にも拘らず、館務の責任者である参事官の井口貞夫は、大使館内に緊急体制を敷かなかった。そのため、大使館内でただ一人タイプが打てる外務官僚で、開戦前日に暗号で送られてきた「最後通告」の解読文を、タイプに打ち込む担当であった奥村勝蔵は、そんな重要な仕事をおいて、その夜外へ遊びに出てしまった。

真珠湾攻撃が「卑怯な騙まし討ち」になったのは、ワシントンの日本大使館の怠慢・失態のせいであった。

「いや、そうではない、外務省と陸軍参謀本部が共謀して、故意に電文の訂正を送るのを遅らせ、真珠湾攻撃が成功するよう謀ったのだ。」という説もある。(2012年12月8日日経新聞「大使館怠り説 覆す?新事実真珠湾攻撃-間に合わなかった最後通告」)

だが、この手交遅延の大失態の原因が、「事故的」であろうと、「謀略」に拠るものであろうと、関係ない。

重要なのは、手交遅延が発生した後の、野村大使を始めとする外務省の取った、或いは取らなかった処置そのものである。

野村吉三郎大使は、国務省でハルに面罵され(それは日本の開戦を予め知っていたハルの芝居であったが)、沈痛な面持ちで大使館に戻って、初めて日本の真珠湾攻撃を知った。大使館の外には米紙の新聞記者が詰めかけていた。

野村大使は、この時、新聞記者らに、「手違いで遅延してしまったが、日本政府は午後1時に手交せよと指示していた。」と真実を話すべきであった。

「日本は真珠湾攻撃を『騙まし討ち』にするつもりはなかった」ことを、はっきりさせておかなければならなかった。

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杉原誠四郎 『外務省の罪を問う』 (p.79)

米国人、特に将兵達は、「卑劣な日本が『計画的』に真珠湾に『騙まし討ち』をかけ、3,000人以上のアメリカ人の命が奪われた」と信じ、激昂していた。

右表のように、1944年3月~4月のプリンストン大学の調査では、本土にいて、実際の日本軍と対戦していない将兵の67%が、「日本人を一掃せよ」と答えている。

表中、カッコ内の数字は「ドイツ人を対象にした場合」であり、ドイツ人に対しては「(ヒトラーら、ナチスの)指導者を罰せよ」との答えが多いのに対して、日本の場合には、日本人全体への憎しみが大きいことが見て取れる。

このことは、米国人の、有色人種である日本人に対する人種偏見もあるであろう。が、1937年12月、南京攻略戦の折の米軍艦パネイ号誤爆事件では、日本軍が即刻誤爆であることを説明し、謝罪したことで、ニューヨーク・タイムスなど新聞は書き立てたものの、大事には至らなかった。

してみれば、やはり「卑劣な計画的騙まし討ち」の汚名だけは、何としても雪いでおかねばならなかったはずである。

開戦の日の夜、外部との接触を断たれた大使館では、手交遅延の大失態を犯してしまった野村大使が、事の重大さに耐え切れず自殺を図るのではないかと、磯田陸軍武官や横山海軍武官らが心配し、大使の寝室を交代で見張った。後に磯田がそのことを野村に言うと、野村は、しかし、意外そうに言ってのけた。

「私はなぜ自殺などしなければならないのか。私は外交官である。」

野村は、何の責任も、痛痒も感じていなかったのである。考えてみれば、「手交遅延の大失態」の自覚を持てるようなら、そもそも「手交遅延」自体が発生していなかっただろう。コーデル・ハルが言ったように、清書が間に合わないのなら、とにかく指定された手交時刻に米国務省に行き、ハルに面会し事情を説明するべきだった。そうすれば、「日本は事前通告をしようとしていた」ということは事実として残ったのだ。

無能力なうえに、厚顔だったのか、野村は戦後、参議院議員を二期も務めている。が、無能厚顔は野村だけではない。国の一大事に緊急態勢を敷かなかった参事官の井口貞夫、そして重要文書のタイプ打ちを放って、外に遊びに出掛けた奥村勝蔵は、それぞれ、1951年、1953年、講和締結の前後に、吉田茂によって、外務官僚の最高位である外務次官に抜擢されている。

MacArthur and Emperor Showa

1945年9月27日、奥村勝蔵参事官は、第一回マッカーサー・昭和天皇会談に同行した宮内大臣ら6人の中で、何故か只一人会談に同席して、通訳を務めた。

天皇は真珠湾攻撃の「騙まし討ち」を遺憾に思っていた。東條に騙された、と怒っていた。手交遅延の真相を知らされていなかったからである。

真珠湾の件を遺憾に思っている、とマッカーサーに伝えた後で、昭和天皇は、「しかし、日本の戦争行為の一切に対し自分が全責任を負う」と発言した。マッカーサーが自伝に書き、奥村も確かにそうおっしゃった、と証言している。

手交遅延の件をご存じであったかどうかは、民を思う天皇のお気持ち自体に、何ら変化を与えなかったであろうが、それにしても、「日本が卑劣な行いをした」場合と「正々堂々と戦いを挑んだ」という場合では、当然後者の方が、敵軍の将にまみえる天皇のお気持ちは、遥かに軽かったであろう。そのことに、奥村は思いを致したであろうか?

井口貞夫は、ダレス米講和特使と吉田茂首相が、平和条約と日米安全保障条約について会談を行ったときの外務次官であった。

1951年2月9日、井口貞夫外務次官とアリソン(John M. Allison)公使により関連文書への「イニシアル(署名)」が行われ、これらの文書は後の平和条約、日米安全保障条約および日米行政協定の基礎となった。(ちなみに、このアリソン公使とは、日本軍による南京占領下の1938年1月26日「アリソン殴打事件」の、あのアリソンのことである。)

真珠湾の真実に関わる二人が、戦後レジームの構築時にも、日本外務官僚の長として関わったことは、何を意味するのだろうか?

確かに言えることは、吉田茂は、外務省の戦争責任を隠した、ということである。これは吉田の「政治的犯罪」(『外務省の罪を問う』杉原誠四郎)であった。

ダレスが再軍備を要請した時も、『日本国憲法』の無効を宣言して、占領下の不正を糺し、大日本帝国憲法下の、正常な日本に戻すチャンスがあったのにそれをせず、「警察予備隊」でお茶を濁し、その後はGHQの占領政策を事実上引き継ぐ政策をとってゆく。

外務省は、この後も「1982年教科書検定『侵略書き換え』誤報事件」で、積極的に中韓の内政干渉を常態化させ、「近隣諸国条項」等というものを作って、教科書検定という国の主権を中韓に譲り渡すという犯罪を犯した。

「1987年大韓航空機爆破事件」では、逮捕した金賢姫を日本の官憲で取り調べていれば、北朝鮮による日本人拉致事件の解決にも繋がったかもしれぬのに、それをあっさりと韓国に引き渡してしまったし、ODAに関しても、外務省の「屈服外交」の下、中韓などは「日本悪玉史観」を持ち出しつつ、「戦後賠償」として日本から金を搾り取り続けようとしている。2015年にも、外務省は安倍首相に「日中共同宣言に『村山談話』は継承してゆく、とあるのでこれを否定することはできない」とレクチャーし、安倍談話をあのような腰砕けのものにしてしまった。

吉田茂は、日本の経済の立て直しを優先したのかもしれない。だが、それは間違いだったと、日本人は気付かねばならない。日本人が欲しいのは金ではない。経済の発展だけで、日本は幸福になれない。

戦後、働き者の日本人は働いて、働いて、高度経済成長を果たした。GDPは上昇し、世界有数の金持ち国になった。だが、日本人は世界から嫉妬され、「エコノミック・アニマル」と軽蔑された。

合理的な中国人なら、「金儲けして何が悪い」と気にしないであろう。しかし日本人は嬉しくなかった。

日本人は働くのは好きだ。日本人は、一獲千金の狡賢い金儲けを嫌う。「成金」と呼んで軽蔑する。そんなに金持ちになれなくとも、「働き甲斐」のある仕事がしたい、と大部分の日本人は考える。日本人ほど、低賃金のいわゆる「ブルーカラー(非頭脳的)」労働にも頭脳を使い、工夫を凝らして習熟し、誠意をもって一生懸命に働く人々はいない、と思う。

だから日本社会は住み心地が良い。日本に行ったことのある外国人は、口を揃えて言う。「街が清潔だ。食べ物が最高に美味しい。痒い所に手が届くサービスが素晴らしい。人々が親切だ。日本が大好きだ!」

大東亜戦争でも、実際に日本兵と戦った米将兵は、日本兵の軍隊としての戦闘力の高さと、それを支える愛国心の強さに舌を巻いていた。

1944年11月15日、米国戦争省・情報省発行の『日本陸軍に関する軍人の案内書:The Sodier’s Guide to the Japanese Army』は、緒戦の頃に米兵たちの間に広がった「無敵の日本兵」神話を破壊するために、こう書いた:「日本兵はアメリカ兵に比べて体格が小さく、平均身長は160センチに満たず、体重は55キロしかない。四肢は短く、太い。彼らは素早く機敏だと評判だが、その実、かなり訓練を積んでも不器用である。」だが、同書の終盤にはその形容は一変する。

「(戦闘中、平均的日本兵は)強く、頑丈である。攻撃時には、日本兵は決然と、自己犠牲も厭うことなく突き進む。攻撃作戦に従事する時、日本軍の歩兵は終始その計画に従う__もしも多くの死傷者が出て作戦の変更、或いは作戦自体を断念しなければならない事態となってしまったとしても…。個々の日本兵の大胆さ、勇猛さは、彼が仲間とともにいる時、そして彼の部隊が地勢と火力で優位に立っているとき、頂点に達する。日本兵はカモフラージュのエキスパートであり、敵を惑わし、ひっかけることにかけてはピカ一である。日本軍の歩兵は命令に忠実に従う。彼等の訓練、規律は、夜間作戦に於いて特にその真価を発揮する。防御においても、彼等は勇猛果敢であり、規律正しく、射撃統制は卓越している。(塹壕やトンネルなどの)野戦築城の抵抗戦では、日本軍は狂信的とも思える頑強さを見せている。」

“[in battle average Japanese soldier was] …strong and hardy. On the offensive he is determined and willing to sustain sacrificial losses without flinching.When Committed to an assault plan, Japanese troops adhere to it unremittingly even when severe casualties would dictate the need for abandonment or modification of the plan. The boldness and courage of the individual Japanese soldier are at their  zenith when he is with his fellows, and when his group enjoys advantages of terrain and firepower. He is an expert at camouflage and delights in deceptions and ruses. Japanese troops obey orders well and their training and discipline are well exemplified in night operations. On the defense they are brave and determined; their discipline is good and their fire control excellent. In prepared positions the resistance of Japanese soldiers often has been fanatical in its tenacity.”

数日のつもりで攻めてきた米軍を相手に、2か月半も抗戦を続け、日本軍1万人余、米軍2,300名の戦死者を出した太平洋の激戦地、ペリリュー島には、キンメル大将の後任であるニミッツ太平洋艦隊司令長官によるものと言われる碑文がある。

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
“Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz”

尊敬しあう軍隊は正々堂々と戦う。日本軍も米国軍も、現場の兵士達は、どちらも大義の為、国の為に命を捧げた。不義は、両国を動かす立場の者の中にあった。

日本の2000年余の歴史と伝統、その「結晶」としての「天皇」というものに無知な国際共産主義者達が、ルーズベルトに対日戦争を仕掛けさせた。

同じ無知が、GHQと極東委員会をして『日本国憲法』という呪いを日本に掛けさせた。

自己保全と省益追求しか頭にない亡国の外務省が、「真珠湾」の「未必の故意」により、米国民の怒りを暴走させ、遂には日本人WIPE OUT__原爆投下に「正当性」を与えた。

「平和」の真の敵は、「無知」と「私利」なのだ。

「平和憲法」と左翼が呼ぶ『日本国憲法』は、その前文と9条で、「日本は軍隊を持たせると危険な邪悪な国だ」と宣言しているが、「平和憲法」信奉者は「9条は日本人が自ら戦争を永久に放棄し、戦力を保持しないとしたことを宣言した平和の象徴。これを変えよう、無くそう、というのは『戦争がしたい』と言っているのと同じ」といって純真な日本人を騙し、脅している。

教科書検定は、日本人が、「『日本国憲法』は無効なのでは」と疑わないように、公民教科書を検閲し、『日本国憲法』の成り立ちの真実を隠蔽し、日本国民を「無知」の状態に置くことに汲々としている。

一方で、『日本国憲法』を押し付けた側の米国でも、その国民を「無知」の状態に置くという構図は変わらない。米国の歴史家らが東京裁判史観を振りまいているせいで、米国民はいまだに「真珠湾の非道のせいで日本は原爆を落とされた。原爆は日本の暴虐から世界と日本人を救った」と思い込んでいる。

連合国の犯罪__『日本国憲法』制定と『東京裁判』史観による洗脳__を巡って、戦後、100万の人間が100万の嘘を、100万回言った__「戦後レジーム」とは、そういうものであった。いまや私達の誰もが、「無自覚の共犯者」になってしまっている。

ナチの宣伝相ゲッベルスは「嘘も100回言えば本当になる」と言ったが、しかし、それこそが究極のプロパガンダであった。嘘は100万回言っても真実にはならない。そのことに、私たちは気付くべきだ。

私たち庶民は、自分と家族のささやかな生活を護らねばならない。だが、嘘をついてまで、国を亡ぼしてまで、魂を売り渡してまで、金持ちになどなりたくはない。

そう思うのが、日本人だ。今の日本はそうでなくなっている、だから以前はあったはずの、日本の美しい魂を、とりもどしたい、そう願うのが、日本人の愛国心というものだ。

米国にも、偽善的で欺瞞に満ちた「原爆投下正当論」を心苦しく思っている人々がいる。彼等も、正しいことをしたいと願っている。

「倫理観の革命(moral revolution)が必要だ」といった草の根社会主義者オバマも、そう願っているだろうか?

「戦後レジーム」は、日本だけでなく、米国の誇りも傷つけている。知らないうちに、「嘘つき」「犯罪者」呼ばわりされているのは米国民も同じだからである。

日本人が覚悟を決めれば、日本と米国の、真実の和解はなる。「無知の知」を知り、真実を知ることで、「戦後レジーム」という軛を破壊し、日本人も米国人も、本当の自由を得る。

『日本国憲法』と『GHQ皇室典範』の無効を天皇に宣言していただき、大日本帝国憲法と明治の皇室典範が現存していることを、全日本国民が確認する。全世界に向けて、それを周知する。

それをしてよいかどうか、連合国に伺う必要はない。そんなことが必要だと言う示唆があった時点で、それが日本全体に対する、日本固有の自然権の蹂躙であるという証拠になる。

日本は、全てのことを、世界中の衆目の中で堂々と、そして粛々と行えばよい。

日本は、謝罪も賠償も求めない。求めているのは、真実と、明治維新以来日本人が欲してきた、世界の中の「名誉ある地位」だけだ。日本人は謙虚に、只ひたむきに、それを達成する。世界にそう知らしめるのだ。

大日本帝国憲法現存の確認によって、日本は立憲君主たる天皇を取り戻す。

天皇という「至高の権威」に政治的権力__『不裁可権』という「政治権力の暴走への歯止め」を取り戻す。「不裁可しないのが憲政の常道」であるが、「立憲君主」であると同時に、日本国の危機に際しては「万民の父母」として、国民に正しい道を示してきた天皇による「不裁可の可能性」を自覚させることで、近年目に余る議員・官僚の不勉強とでたらめを減らしてゆくことができるだろう。

大日本帝国憲法下の刑法__GHQに削除された「利敵行為」条項__も復元することで、現在の日本に跳梁跋扈する、日本破壊工作従事者達に、極刑の可能性を示唆することができる。

東京裁判が歪めた歴史の、真実の姿が明らかになれば、「一億総前科者」の汚名は雪がれ、日本人はその勤勉さ、向上心を、晴れ晴れとした心持で各処に発揮することができる。

「万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん」と昭和天皇の終戦の勅語に言われたように、国民の全エネルギーを、いまやっと、「本当の戦後」「新しい日本の建設」の為に注ぐことができるのだ。

教育勅語も復活し、人としての正しい道を教えられる子供たちは、いじめなどという卑怯な行いは、みっともない、恥ずべきことだと、知るであろう。

立法府の議員は、その全エネルギーを、大日本帝国憲法の、現在の日本の状況にあった運用方法を、考えることに集中させることができる。GHQによって廃止させられた貴族院など、復元するのかそれとも今の時代に合った新しい制度を、作っていくべきなのか、といった重要なことを考えることができるようになる。

喫緊の問題である国防についても、大日本帝国憲法復原後の日本では、より現実的な議論ができるようになる。自衛隊は晴れて普通の軍隊になり、また、増加する侵略の危機と、自然災害の頻発の可能性に対応し、「災害救助隊」の別個新設が必要になるかもしれない。

必要ならば、天皇がその大権を行使し、大日本帝国憲法の改正を発議されることであろう。

BREXIT 3
『インディペンデント』紙 2016年6月24日  (黄色=離脱、青色=残留)

2016年6月23日、英国はEUからの離脱か残留かを問うて、国民投票を行った。結果は52%と48%の僅差で「離脱」となったが、このBREXITは英国内の階級・格差社会、移民と地域社会との軋轢の問題点を浮き彫りにするとともに、それが国際社会の争点の縮図であることの再確認にもなった。

「離脱=反EU」派vs「残留=親EU」派とは、そのまま「国家主権奪還」派vs「グローバリスト国際金融資本家=国際共産主義者(=テロ支援)」派であった。

国際金融資本家=ロンドン・シティの銀行家達に代表される成功者=「持てる者」がもっと儲けたい、そのためにはEUに残留した方が都合が良い、そんな本音が透けて見えるキャンペーンでは、「英国ビジネスに主権を取り戻したい」「移民に手厚くし過ぎ」「英国に貢献してきた老人など、英国民の弱者を先に救済してほしい」という、「持たざる者」=労働者階級を納得させることはできなかった。

来年はロシア革命から100年。1989年に一応の決着を見たとされる第二次冷戦の後も、世界は「国際共産主義=国際金融資本主義」vs「自由主義的民主主義=民族自決主義」の構図のまま推移している。

「連合国正義の味方史観」は、米国の日本占領における犯罪を隠すだけでなく、第二次世界大戦後のソ連・共産中国・韓国の日本国領土の侵略行為を助長している。侵略された日本国土はこれら「仮想敵」のさらなる日本侵略拠点となる。

中ロ韓北の太平洋進出の防波堤を、日本が果たしている地政学的立場を考えれば、日本に誇りを取り戻させ、大日本帝国憲法下のプロパーな日本軍との、誠意ある対等な同盟に切り替えることの、米国の利益は小さくはないはずだ。

国際共産主義を利する「戦後レジーム」を打破することは、日米両方の利益となる。

日米同盟は、大日本帝国憲法を復原して初めて、対等な同盟に生まれ変わる。

日本は米国に、謝罪も賠償も要求しない。但し、『日本国憲法』無効・大日本帝国憲法復原の移行がスムーズにいくよう、中ロへの牽制等の支援はしてもらう。

国際法には「誣告罪」を加え、プロパガンダ戦にきちんと対応できる体制を整えることも必要だ。国連は拒否するであろうが…。

「誣告罪」「日本の安保理常任理事国入り」「敵国条項削除実効化」…。これらを拒否する国連には、自浄作用がなく、彼らの言う「人権」にも腐敗臭が漂い始めている。日本が国連を脱退し、台湾と、米国と英国の反共保守派を誘って新組織を立ち上げることも視野に入れてゆかねばなるまい。アジアの、大東亜戦争で日本が独立に協力した国々、捕鯨で日本に味方してきたアフリカや地中海の小国群は、日本についてくるだろう。新しい大東亜共栄圏を、覇権主義の中国中心でなく考え直すには、復原された大日本帝国憲法下の、まともな法制に裏打ちされた誇りある「新皇軍」が必要だ。

「私達はひとつの人間の家族である__過激だが必要な考え方だ__そしてそれこそが、私たち皆が語るべき物語なのだ。」

“…the radical and necessary notion that we are part of a single human family; that is the story that we all must tell.”

連合国と『日本国憲法』が否定した「八紘一宇」__世界を以て一つの家と成す__の精神が、日本と米国をともに照らし出すとき、私達は本当の友情と信頼に包まれているのを知るだろう。

そのとき、「広島」は、私達をしっかりと結んでくれた、心の絆のなまえとして、記憶されることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「天皇制打倒」を謀る国際共産主義者の呪詛である『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』を有効とする改正では、連合国への隷従が永続する__「至高の権威」「立憲君主」たる天皇の復活で、日本の誠をとりもどす

日本は、『大日本帝国憲法』と明治の『皇室典範』という、立派な対の服を追い剥がれ、架空の『憲法』と『典範』という「バカには見えない服」を着せられた、「裸の王様」____「憲法改正」ではなく「『日本国憲法』無効宣言」で、『大日本帝国憲法』という服と、正義の剣を取り戻し、世界を真実の光で照らし出す

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戦後70年余、天皇をはじめとする全日本人の「人権」は蹂躙され続けてきた

『日本国憲法』の事実上の制定者は連合国であるにも拘らず、未だに「確かにGHQが憲法草案を作ったが、それを叩き台にして『日本国憲法』として制定したのは日本人自身だ」という「連合国史観」が幅を利かせている。

南シナ海や沖縄・尖閣諸島周辺での、中国共産党の「海洋帝国」への拡張主義が顕わになるにつけ、日本人の多くが「9条の平和主義では国を護れない」という至極当然の結論に達し、憲法改正の機運が高まってきている。

だが、「憲法改正」が本当に正しい道なのか?

日本人は、「『日本国憲法』が日本の本当の憲法である」と、いまだに信じ込まされている。「日本は悪虐非道の侵略国だった」という連合国の嘘を、いまだに本当だと思っている。戦争中、中国に酷いことをしたのだから、未来永劫謝罪し、中国の言うとおりにするのが「誠意」だと思っている。そんな邪悪な日本を「成敗」した連合国は「民主主義的中立国の集合体であり、『国際倫理の権威』たる正義の味方」だと思い込まされている。

『日本国憲法』は、サギ師の仕立て屋=連合国が、「バカには見えない服」といってお人好しの日本に「着せた」、まやかしである。

日本人の中には、そのまやかしに気づいてはいるが、「バカ」と呼ばれたくなくて「見える」ふりをし、サギ師の片棒を担いでいる情けない人々もいるが、大方の日本人が「王様の新しい服は無色透明の服。だって当の王様が『服だ』といって着ているのだから」と妙な納得の仕方をしている。「王様も、気にしている様子がない。だからいいじゃないか」と。

だが、日本人は知らないだけだ。連合国は日本人を巧妙な嘘で騙し続けている。彼らはまず天皇と日本政府を脅して絶対に連合国の嘘を告発しないと誓約させておいて、日本人全体を「日本悪玉史観」で洗脳し、連合国史観で書き換えられた教科書で教育した。70年も経つうちに、真実を知るものは少なくなり、また学校で習った「連合国史観」に全く疑いを持たず、それを「真実」と思い込み、「被害者=中国」への「加害者=日本」としての「贖罪感」を叩きこまれた世代が、いま日本の政治・行政・教育・経済・メディアの中枢にいる。いわゆる<団塊の世代>である。

団塊の世代は戦後のいわゆるベビー・ブームの生まれで、当然実際の戦争は経験しておらず、子供時代に占領下の不自由さを経験し、GHQの教科書で教育され、感受性の強い青春時代に二度の安保闘争を経験し、理想主義としてのマルクス主義の洗礼を受けた人々だ。

70年安保騒動の描写がある村上春樹の『ノルウェーの森』のように、純粋さと計算高さ、勇気と卑怯さがないまぜになった、複雑な青春時代がそこにはあったのだろう。(そういえば村上春樹は、『1Q84』で主人公の青豆に「満州鉄道」についての本を読ませ、「(満州鉄道は)大日本帝国の中国侵略の尖兵」と断じた。サブリミナルな連合国史観プロパガンダだ。こうやって世界のムラカミハルキ・ファンが「日本=侵略者」を刷り込まれている。)

団塊の世代を一人悪者にするつもりはないが、1993年8月、「先の大戦は侵略戦争であった」と公式に発言した細川護熙元首相のように、祖父・近衛文麿元首相の「日支事変の拡大と仏印進駐は自分の政治的誤りであった」との反省の辞を、「侵略戦争だったとの告白」と曲解するほど、GHQの洗脳教育はある人々の脊髄にまで浸透していた。

実のところその「近衛の反省」とは、コミンテルンのスパイであった尾崎秀実ら複数の国際共産主義者を側近に置き、軍部が必死で休戦協定を模索しているときに「国民党政府を対手とせず」声明を出してぶち壊し、満州の関東軍を集結するソ連軍の前から引きはがして、泥沼の中国戦線・飢餓の東南アジア戦線へ送り込んだことを、後に昭和天皇への上奏文で告白したように、「自分(近衛文麿)は共産主義者らにいいように操られていた」との反省のことであった。

だが、細川護熙はそれを「先の大戦は侵略戦争であったと裏付けるような発言」と曲解した。同様に、「慰安婦問題」で河野談話を出した河野洋平元官房長官も、「日本は侵略国だからそのぐらいのこと(慰安婦強制連行)はしたはず」という先入観で、日本の政府高官としてあまりに軽率に「在りもしない罪を認める」という重大な売国行為を犯してしまった。

 

左翼教育はカルト宗教と同じで、教祖の言うことだけを正しいと思い込むよう洗脳する。オウム真理教が「浅原教祖の教えに背けば無間地獄に落ちる」と信者に叩き込んだように。左翼の場合は「右翼の言うことに耳を傾ければ無間地獄に落ちる」だし、『日本国憲法9条』教は「日本国憲法の否定は平和の否定」「9条反対者は軍国主義者」と、完全に連合国史観の保存がその教条となり下がっている。

だが、カルト宗教は人類普遍の原理とはなりえない。国際共産主義者らが「人類普遍の原理」と呼ぶ「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の左翼三大原則は、一見誰も反対できない「正しい考え」のようであって、実は独裁者の台頭を招来する謀略三原則だ。

このような予備知識なしに、『日本国憲法』の7原則から、むしろ自由主義的な①間接民主主義又は議会政治②天皇制③三権分立④法治主義を差し引いて、上記の左翼三原則を残した、もっと国際共産主義寄りの「自民党憲法改正草案」を、『日本国憲法』を有効扱いして改正してまで選び取ることを、国民に半ば強制するようなことが、今行われている「美しい日本のための自主憲法制定」「憲法改正」推進運動の背後にある。

民主主義の根幹とは、国民の投票行動により、国民が正当に選ばれた代表を通じて、国民の意思決定を国政に反映することにある。これは、国民の「知る権利」の充足があって初めて成立することである。

政治の主体となる国民が、何かを選択するときに、それぞれの選択肢についての、必要不可欠な情報全てを開示され、充分な議論を経て熟考する時間が与えられて初めて、有意義な投票行動が可能となる。

翻って、日本の現状をみるに、いまだに連合国史観=東京裁判史観を信奉するものや、「天皇制打倒」を掲げる国際共産主義者とそのお先棒担ぎらによって、「『日本国憲法』無効論」というオプションの存在どころか、そもそも『日本国憲法』の成り立ちが連合国史観という嘘にまみれた恥ずかしい代物であるという事実すらも、国民から隠し通されている。

いまだ国際共産主義者による検閲と、プロパガンダによる洗脳が横行する日本には、自由主義的民主主義はない。

教科書検定官が、公権解釈も学習指導要領も、学説すらも無視して公民教科書執筆者に左翼全体主義的記述を強いるという、事実上の検閲が行われている日本は、「言論の自由」「教育の自由」を弾圧されている。しかもその事実の認識すら、国民にはない。

これはもう、ファッショだ。

戦後ずっと、日本が解放された、と言われたそのファッショに、連合国によって日本全体が沈められてきたのだ。ジョージ・オーウェルの『1984』の世界が、日本に半分実現している。

 

「『日本国憲法』無効論」を知ることは、日本国民の権利である。

「『日本国憲法』無効論」を知らせることは、日本国民の義務である。

「『日本国憲法』無効論」とは、『日本国憲法』の成立過程の真実など、日本国の命運に関わる核心的事実の数々を徹底検証することである。

国際共産主義者は、自らの思考停止癖を他人にも押しつけ、徹底討論を避ける傾向があるが、少なくとも以下に挙げる事実は周知され、公議公論に付されるのが民主主義というものである。国際共産主義者の反論、それへの再反論は、公開討論の場でなされるのが望ましい。

事実その① 連合国の中枢の本質が、国際共産主義者であるということ。国際共産主義者の本質は「詐欺師」「扇動家」である。お人好しでナイーブな日本人が想像もできないほどに悪辣で、しかも用意周到な、プロの犯罪者集団である。

事実その② ロシア革命以後の20世紀の戦争__特に満州事変に始まり、泥沼の支那事変を経て対米戦争に至り、日本に滅亡の淵をまざまざと見せつけた、「あの最後の戦争」___は、国際共産主義者が謀略により起こしたものであるということ。

事実その③ 連合国の日本占領の究極目的は、日本から「世界に比類なき2600年の歴史に裏打ちされた、万世一系の天皇」を奪い、日本を物質的・精神的に完全武装解除したうえで滅亡させることであった。

事実その④ その目的を遂行するために制定された『日本国憲法』と『占領典範』は、天皇弾圧・皇室断絶の装置である。

事実その⑤ 「象徴天皇制」「国民主権」は、事実上の「立憲君主国」である日本の元首(sovereign=主権者)即ち「立憲君主」である天皇から「至高の権威」を奪い、日本の政体を「疑似『無政府(アナーキー)』状態」といえる状態にしている。

事実その⑥ 『日本国憲法』の謳う空疎な「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の左翼三原則と、左翼の「立憲主義」・左翼の「民主主義」が、国際共産主義者独裁による世界制覇をひそかに推進している。

事実その⑦ 「日本の国体」=「万世一系の『至高の権威』であり、『仁政』を行う『万民の父母』である天皇を中心とした世俗国家」と、立憲君主制を融合した『大日本帝国憲法』下の日本こそが、国際共産主義独裁に対する最後の砦である。

「至高の権威」=天皇の存在が、日本の歴史上、独裁者の台頭を防いできたという事実は、日本が有色人種の国で初めて近代憲法を持ち、立憲君主国として「富国強兵」に成功した事実と相まって、日本を国際共産主義者の「排除すべき敵」となさしめたのは、当然といえば当然のことであった。

「第二次世界大戦は『ファシズム』対『民主主義』の戦いであった」と、最近とみに中国とロシアが喧伝している。が、それは「『国際共産主義者』対『自由主義』の戦い」或いは「知らないうちに進んでゆく『国際共産主義の世界侵食』と、それに対抗する勢力の抵抗」という裏の真実から人々の注意をそらすためのレトリックだ。

20世紀、戦争は思想戦・プロパガンダ戦・情報戦になった。

前世紀の戦争のように、「どの国とどの国が戦っているか」という表面に気を取られていると、本当の敵が誰かを見失う。日本国内の国際共産主義者が、「日本軍が日支事変前に中国にいたことが、『侵略』だった証拠」などと盛んに言うのも、実は国際共産主義者達は、既に日本政府の中枢に食い込んでおり、ソ連の南下政策を遂行しやすくするため、そして中国国民党に殲滅されかけていた中国共産党の延命を図るため、日本を広大な中国大陸で中国国民党と戦わせることが、コミンテルンの謀略であった、という事実を隠すための目くらましである。前述の近衛文麿の「政治上の誤り」はその氷山の小さな一角に過ぎない。

 「大日本帝国憲法は『天皇制強権支配』『侵略的軍国主義』など諸悪の根源である、だから日本は新しい、民主的な憲法を持たねばならない」という理由で、『日本国憲法』は制定された。だが、『天皇制強権支配』『侵略的軍国主義』など、根拠のない言いがかりに過ぎなかった。

ただの言いがかりを理由に、日本は大日本帝国憲法を簒奪されたのだ。国体改変を含んだ「まやかしの憲法」のお陰でGHQの洗脳も解けず、日本と日本の歴史と伝統を体現する天皇の存続を危うくしていることにも気が付かないでいる。ゆっくりと茹でられているのも知らず、「いいお湯だ」と、「お風呂を沸かしてくれた」連合国に感謝さえしている。

2016年5月18日に行われた安倍晋三首相との党首討論で、民進党の岡田克也代表は、憲法9条の平和主義について、「集団的自衛権の行使を全面的に認めることにしたとき、憲法の平和主義は壊れる。絶対に認めるわけにはいかない」と、自民党憲法改正草案が9条改正案が「自衛権の発動を妨げるものではない」と定めていることを批判した。(朝日新聞2016年5月19日『憲法9条の平和主義巡り党首討論』)

岡田氏の言っていることは、「全世界の如何なる国も当然持っている『自衛権』というものを、日本にだけは絶対に認めない」と言っているのと同じだ。連合国側に立って、傲慢至極に「厳命」しているのだ。

「(自衛権を認めてしまえば)『日本国憲法』の平和主義が壊れる」とは、言い換えれば、「連合国が持ってはいけないと命令した自衛権を持つ、つまり連合国の命令に逆らうと、日本の平和は壊れる=連合国が日本を攻撃し完全破壊する。(敵国条項により、国連決議なしですぐに攻撃できる)」という、ポツダム宣言にも見られた連合国お得意の脅迫である。まるで自分の所有する奴隷に対するかのごとき傲慢さではないか。それを岡田克也は偉そうに代弁しているわけである。

これに対する安倍晋三首相の反論も、「東京裁判史観」を踏襲しているという点で、岡田氏と五十歩百歩である。「必要な自衛の措置しか我々はとらない。侵略は二度としない」「自民党草案でも平和主義が貫かれていることは間違いない」……。

「必要な自衛の措置しか我々はとらない」の「必要な自衛」とは何だろうか?安倍氏が首相で自衛隊最高司令官の時は大丈夫かもしれない、だが菅直人ら民主党政権時代の悪夢を思い起こそう。鳩山由紀夫のように、「日本は日本人だけのものじゃない(だから中国が日本を盗ってもそれは侵略じゃない?)」「中国や韓国、北朝鮮に対する自衛は必要ない」と考える政権がまた出現しないと、誰に言えるのか?

賭けてもいいが、次に「失敗だった」と気づいたときは、日本は既に「中国領日本自治区」になっている。

『日本国憲法』の「平和主義」が日本を武装解除し、国際共産主義国の侵略に抵抗できない国にするための「戦争しない・侵略者に抵抗しない主義」であることは、国民の多くが気が付いている。

だが、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」が国際共産主義の全体主義的三大原則である、との認識はまだあまりない。

「国民主権」とは、国家統治の最高権力を、人気投票で選ばれた人物にも委ねる可能性を意味する。

ヒトラーが「民主的に、合法的に」ワイマール共和国憲法の「国民主権」の下で政権掌握した例が最もわかりやすい。

『日本国憲法』と「自民党憲法改正草案」によるその改正憲法は、独裁者を生む可能性があるが、『大日本帝国憲法』下の立憲君主であり、2600年の歴史に裏打ちされた「至高の権威」である天皇の存在はこれを許さない。

ワイマール憲法の「国民主権」は、日本の天皇のような最高権力を制することのできる最高権威の存在を持っていなかった。

それこそが、『日本国憲法』改正ではなく、『日本国憲法』無効宣言でなければならない最大の理由である。

「象徴天皇」という無力な存在でなく、「行使しないが『不裁可』できる、必要とあれば『拒否権』を行使できる」=「独裁者の台頭を阻止できる」立憲君主たる天皇の「至高の権威」を、『大日本帝国憲法』復原によって取り戻す。

国体そのものが主権であり、天皇がそれを体現する日本__日本の真実の姿__を、とりもどす。

劣化した国会議員の資質向上のためにも、「天皇の御前で議論する」という重圧感、責任感を持たせる以上に効果的なことはない。日本の国会議員は日本の為に仕事をするという、当たり前のことを思い出させる。(大日本帝国憲法復原によって刑法の「利敵行為」条項もまた復原できる。)

第一次安倍内閣で「戦後レジームからの脱却」を唱えた安倍首相は、戦後70年談話に続き、「東京裁判史観」踏襲へ舵を切った。「愛国的現実主義者」(田崎史郎『安倍官邸の正体』)である安倍首相は、「現実的に考えて、『日本国憲法』無効論は無理だから、祖父・岸信介元首相の悲願でもあり、なんとか9条だけでも改正を」と考えているのかもしれない。だが、これは菅原裕氏の言うところの「漸進的改憲論」であり、憲法無効論への「現実主義的反対論」である。

漸進的改憲論

一時に全面的改正では困難だから、少しずつ、改憲していって、漸次に帝国憲法に復活すればよい、という説である。すなわち根本的に無効だといっても、簡単に復元の実現はできないから、それよりも第九条とか、第九六条とかを逐次に改正して、帝国憲法復活の実効を挙げたがよいという考え方である。

これは自ら占領憲法無効という大義名分を放棄して、一つずつ改正して目的を遂げんとする現実主義的考え方だが、こと憲法に関する限り、こうした方便論はとるべきでない。

なんとなれば、憲法が筋道を立てないと、他の法律は、みな便宜主義に陥り、国家の正義も立たず、復興も期し難いからである。

ことにこの種の論者は、第九条だけに重きをおき、第一条の国体論に触れることを避けているところに、わが国の憲法に対する建設的意見とはいい難い。

(菅原裕『日本国憲法失効論』p.94-95)

民進党岡田代表との討論で、安倍首相は「侵略は二度としない」と言った。つまり、「先の大戦は日本の侵略戦争であった」という連合国史観に迎合してしまった、ということだろう。細川護熙元首相の自虐史観まで、日本は後退してしまったのだ。

安倍首相が、国際共産主義者の日本弱体化経済工作によって、窮地に陥った経済立て直しを優先しているのだということはわかる。アフリカ諸国やインド、東南アジアなど対中国で共闘できそうな国々との、中国を牽制するための全方位外交も、安倍首相ならでは。多くの保守論客が安倍晋三氏を傑出した宰相であると褒め称えることに、異論はない。

だが、第二次安倍内閣成立を喜んだ多くの日本人は、「美しい国、日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」を、安倍さんならやってくれる、それが実現する日が本当に来るのだ、と希望を抱いたはずだ。

それなのに、その希望はもろくも潰え去った。その代わりに憲法改正?それではだめなのだ。

安倍首相しかできないことが、まだある。天皇陛下に上奏して、『日本国憲法』と『占領典範』の無効宣言、『大日本帝国憲法』と明治の『皇室典範』の復原宣言を、お願い申し上げることである。

安倍首相の「変心」は外務省の「指示」であるらしい。藤岡信勝氏によると、外務省が「1998年の日中共同宣言の中に『村山談話』を『遵守』するという文言があるから、村山談話を否定することはできない」とレクチャーしたのだそうだ。(藤岡信勝 『誰が歪めた!!「安倍談話」』『歴史通』2016年1月号)

ここでも、自由主義的民主主義=議会制民主主義の大原則__国民の選んだ国会議員が国政の在り方を決め、官僚はそれを行政の場で実務的に実現する__が逆転現象を起こしている。

大臣=政治家より官僚のほうがカシコイから、大臣が国会で読み上げる答弁書を官僚が代筆する、とかいうレベルの話ではない。国民が望む「一億総前科者」からの脱却を、やっと実現してくれそうな首相が現れたと思ったら、役人の分際でそれを阻止している、というのだ。

こういうことを許していてはいけない。私は国民の一人として、異議を申し立てたい。

外務省は、1941年12月、ルーズベルトに「屈辱の日」演説の材料を与えた、「真珠湾攻撃の20分前になされるはずだった宣戦布告文書(「帝国政府の対米通牒覚書」)の手交の致命的な遅延」についての説明も国民にしていない。国会議員にはある説明責任はないが、日本の命運にかかわる事柄について、国民の要望にも反する「指示」を首相に出す権限はあるというのだろうか?

これは民主主義ではない。官僚独裁の寡頭政治・側近政治ではないのか?

『日本国憲法』と『占領典範』は、日本人を幸福にしてくれていない。寧ろ、天皇ともども日本国民の人権は蹂躙されている。

この軛を取り除いてくれるのは、ひとり、立憲君主としての天皇のみである。

立憲君主であり「万民の父母」である天皇を、日本は取り戻したい。

そのために、『日本国憲法』と『占領典範』の無効宣言は、なされなければならない。

(2016年10月8日編集)

 

 

【日本国憲法無効論】『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効理由__『日本国憲法』は「日本人のアイデンティティー喪失の呪文」である

「『日本国憲法』を改正」では、日本人が失わされた国家観も、誇りも、真実の歴史も取り戻せない

例え改正し、前文や9条を取り除いたところで、『日本国憲法』を憲法として戴いているという事実__「日本が連合国=米国の属国である」という「呪文」を自らにかけ続けている、という事実__になんら変わりはない。

なぜなら、私達の国「日本国」とは「大日本帝国」のことであり、私達が戴く憲法は『大日本帝国憲法』であるという真実を、『日本国憲法』という「偽憲法」が隠しているからである。

スタジオ・ジブリの人気アニメ『千と千尋の神隠し』には、人の本当の名を奪ってその人を支配する魔女が登場する。本当の名を奪われ、新しい名を魔女に与えられた人は、自分の本当の名を忘れてゆき、その名で歩んだ過去の人生の記憶をすっかり忘れると、魔女に全人格を支配され、奴隷にされてしまう。

連合国は「プレス・コード」という名の検閲__徹底した言論の大弾圧__のもと、日本から「大日本帝国」という名を奪い、日本が日本とアジアの国々の自由の為戦った「大東亜戦争」の名を奪い、日本人が崇敬する天皇の大権をことごとく簒奪して無力な「象徴天皇」とし、日本の悠久の歴史__日本人の誇りの源泉__である万世一系の天皇と、その臣民を、今もなお丸ごと支配している。

連合国は「自由なる世界人民の正義が裁く」と謳う東京裁判という偽裁判で、日本軍と日本政府、日本人全体に数々の冤罪を被せ、「一億総戦争犯罪人」のいわれなき汚名を着せた。

100万人余の無辜の人命を奪った日本全国への焼夷弾爆撃、広島・長崎への原爆投下は「東京裁判で明らかになった日本の犯罪への正当な報復・処罰」である、と世界と日本の人々に思い込ませるのが東京裁判の主たる目的であったが、検閲でこれら連合国側の戦争犯罪に言及することを禁止することで、自らの無法の自覚を曝した。(GHQ検閲項目の詳細については、本ブログ別稿:『「日本人の魂の武装解除」:GHQ検閲リスト30項目で連合国が隠したかったこと』を参照されたい)

天皇と日本国政府に対し、GHQは「米軍の圧倒的・破滅的破壊力を日本国本土全体・日本国民全体に対しいつでも使用することができる」「天皇制を廃絶する」「天皇の命を保証しない」とそれぞれを脅迫し、「有条件降伏」の事実を「無条件降伏」にすり替え、国際法上「一部占領」のみの占領権限を「全部占領」にすり替えた。

表向き「一部占領=間接統治」を謳いながら、その実「全日本列島は我が強制収容所」とマッカーサーが誇る、強権による「全部占領=直接統治」が行われた。

このように、GHQは数々の無法・違法行為を犯しながら、それらを徹底検閲で隠蔽し、且つNHKや新聞社など日本の全メディアを制圧し日本国民と世界の人民を洗脳した。

連合国は、「正義と民主主義の連合軍が打ち負かした日本は『悪の帝国』だった」という自己正当化の虚構を全世界に向けて宣伝した。

有色人種の国でただ一つ、欧米列強の植民地化を拒絶したうえ、近代国家化に成功し、あまつさえ中国・ロシアというユーラシア地域の2つの大国に打ち勝ってしまうほどに、国力を増進させた生意気な国、日本。

2600年以上も連綿と続く、比類なき万世一系の天皇を「至高の権威」として戴き、その統率のもと、心を一つにして勇敢に戦う大日本帝国の将兵はもとより、銃後の臣民、女子供に至るまで、誇りにその瞳輝く__。

アジアで、アフリカで、アメリカで、有色人種日本人の活躍に、喝采を送る声は膨れ上がってきていた。

「この日本人の心を折らねば。」

本当の侵略者、植民地搾取者である連合国・欧米列強の黒い腹の底もまた、一つの同じ考えで共通していた。

日本人の魂の永遠の武装解除。そのための呪いの軛。それが『日本国憲法』の正体である。

『日本国憲法』の基本精神は、「神国日本の『誇り』の否定」「万世一系の天皇の『独裁者の台頭を許さない統治』の否定」「営々と築かれてきた日本文明・伝統と歴史の否定」である。

日本的な生活態度に至るまで、すべての日本文化・日本精神を悪しきものとして断罪し、日本文化・伝統の対極にある国際共産主義の理念をバック・ボーンに誕生した『日本国憲法』は、その後ろ暗い生い立ちを隠すため、虚構・捏造・無法でもってその成立過程を糊塗されねばならなかった。

かくして、戦後70年を経過するも、連合国とその追従者が、尚も隠蔽し続けねばならない無法の数々は、その淵を覗き込む者にはハッキリとその姿を曝す。

以下に、菅原裕『日本国憲法失効論』・小山常実『憲法無効論とは何か』・南出喜久治『とこしへのみよ』による『日本国憲法』『GHQ皇室典範』の無効理由を、著作別に挙げる。

 

本 日本国憲法失効論

菅原裕『日本国憲法失効論』

■1 . 時期の問題 「およそ立法は、国民の自由、冷静なる意思の下に行わるべきことは申すまでもない。いわんや国家の最高組織法たる憲法の改正においては、国家主権が完全でかつ国民の意思が自由であることは、絶対的に必要な条件である。しかるに国家が、敵軍の占領下にあるときは、国家主権も完全でなく、国民の意思も自由でなく、国家意思の表現も自由でない。したがって占領中に、国家の基本法である憲法を、制定したり、改正したりすべきでないことは他言を要しない。故にかりにそれがなされたとしても当然無効であることは、憲法法理上、一点の疑いをもいれないところである。」(p.31)

帝国憲法第75条に、摂政時代の憲法改正を禁じたのも、(中略)国家の状態が、正常かつ平穏でなければ、憲法の改正を、なすべきではないという、憲法法理の大原則を示したものに他ならぬ。」(p.32)  「世界の憲法の立法例は、通常憲法の改正時期や方法について、ことさら、制限規定を設けたり、無効原因を列挙したりしないのが、一般的であるが、特殊の国においては、過去の体験によって、特記しておいた方が適当とするものに関しては、注意的に規定しておるものもある次第である。故にかかる特記のない憲法においては、自由に改正し得るように解すべきではないことはもちろんである。」(p.33)

「(占領下)日本の政府機構は、占領軍の間接統治の手段として利用されるべく、占領管理機構として、占領軍の下部組織に、編入された」「占領軍の日本管理の法体系は、当初は、占領独特のポツダム政令と、天皇の統治権を制限した帝国憲法に基く法令との二本建てでやっていたが、後では、改正名義で、日本固有の帝国憲法を廃棄して、それに代わる日本国憲法という、憲法を僭称する占領管理法を制定せしめたので、結局最高司令官の独裁専制を、法的にも確立したことになった」「この偽憲法の上に、占領軍の超憲法的軍権が、厳然と控えて、管理政策は進められた」(p.33)

■2.方法の問題 占領軍は、占領下において、日本国民の抗拒不能の状態に乗じて、更に強度の圧迫を加え、日本国政府ならびに諸機関の意思を抑圧し、最高司令官の至上命令として、わずか一週間で書き上げた英文の民政局草案を骨子として、日本の関係者をGHQに缶詰にし、徹夜して一日半で、日本政府の改正要綱を作成させ、それを議会に提出させて、憲法改正を強行した」(p.42)

美濃部達吉顧問官は『帝国憲法第七十三条によって、こんな改正を行うことは、法理上不可能である』と主張して最後まで反対し、ついに唯一人起立をされなかった」(p.44)

■3. 内容の問題 「いやしくも憲法の基本たる国家組織の根本を変革することが、その憲法の改正規定の範疇に属しないことは、当然首肯さるべき事理である」「現行の日本国憲法自体が、いわゆる改正の限界を逸脱して、帝国憲法の根本をなし、立国の大本を規定した、第一条ないし第四条を、抹消して改正されたものであることを、反省すべきであろう」(p.51)

我が国は万世一系の天皇を仰て終始し、天皇を以て統治権の主体なりと為す観念は歴史の成果、国民の確信にして千古動かず、憲法中、国体に関する規定ありと雖そは国体を創設したるものに非ずして唯国体を宣明したるに過ぎず、従って国体に関する憲法の規定は将来永久に其の変更を為すことを得ず、仮に之を変更したりとするもその変更は何等の効力をも発するものに非ず、即ち国体の根本は憲法の克く左右し得べき所に非ず、天皇の統治権は憲法によりて成立せず、何ぞ憲法を以て之を変更するを得んや」(清水澄博士『帝国憲法講義』p.525:カタカナ表記をひらかなにて表記、菅原裕前掲書p.52)

連合軍の「真実の目的は、日本国の崩壊乃至日本国民の奴隷的無力化にあ」り、「組織的に日本の根幹をなす民俗信仰の打破や、国体の変革に、重点を置き、道徳教育の破壊から、婦人、労働者、農民の解放に名を借る、従来の秩序の壊滅を目的とする赤色戦術までとり入れて、徹底的に実施した」(p.33)

労働組合法制定」「日本の教育制度の行政に関する覚書」「教職員の調査精選資格決定に関する覚書」「修身、日本歴史および地理の授業の停止」「国防保安法、軍機保護法、言論、出版、集会、結社等臨時取締法の廃止」「治安警察法の廃止」「国家神道の廃止」「陸海軍の解体」「警察の治安維持力破摧」「財閥解体」「没収に等しい農地改革」「公職追放」(p.37)

■4.国際法関係 「ハーグ陸戦法規」「大西洋憲章」「ポツダム宣言」「降伏文書」違反

本 憲法無効論とは何か

小山常実『憲法無効論とは何か』

■無効理由(Ⅰ)自由意思の欠如 「あらゆる法律行為は原則として行為主体に一定の自由意思があって初めて有効なものとなるし、独立国の憲法を作る行為ならば尚更、その国の自由意思が基本的に存在しなければならない。」(p.120)

■無効理由(Ⅱ)の1.明治憲法第七五条違反

■無効理由(Ⅱ)の2.明治憲法第七三条違反 「帝国議会の修正権も一切認めないのが、金森や佐々木を含めて、憲法学界の一般的立場であった」「修正権を認める美濃部学説にしても、帝国議会が発案権を持っていないことを理由に、『原案に含まれない条項に付いて修正を加へ又は新なる条項を之に加ふる』(美濃部達吉『逐条憲法精義』p.725)権限を帝国議会に認めていなかった」「ところが、天皇が発議した憲法改正案は、国体規定どころか、明治憲法の全文を廃止し、新たに全文を規定する内容であった。また、議会も、政府案の修正どころか、原案に含まれない条項を新たに提案することまで行っている。それゆえ、憲法改正限界説に立つ多数説に従っても、無限界に説に立つ佐々木学説に従っても、『日本国憲法』は明治憲法第七三条違反の手続きで作られた無効憲法ということになるのである」(p.123)

■無効理由(Ⅲ)の1.ポツダム宣言及びバーンズ回答違反  「『日本国憲法』は、第一に占領初期に、第二に政体だけでなく国体までも改正の対象としたし、第三に天皇とその政府も、国民の代表とされる帝国議会も完全統制した上で、つくられた」(p.126)

■無効理由(Ⅲ)の2.ハーグ陸戦法規違反

■無効理由(Ⅳ) (日本国憲法は)「保護国を目指す憲法」  「憲法とは独立国が持つものであり、自己決定できる国家の在り方を示すものである以上、『日本国憲法』は、内容面からしても総体としても無効な存在であると言わねばならない」(p.128)

■無効理由(Ⅴ)自然法違反  「第九条②の規定が自然法または条理に違反している」「国家は自衛戦争をする権利を保持し、自衛のための戦力を保持して初めて、対外主権を維持することが出来る」(p.128)

■無効理由(Ⅵ)国体法違反  「明治憲法制定以前から、成文法の如何にかかわらず、日本には国体というものがある。国体とは、〈日本国家の歴史上、万世一系の天皇が国家最高の地位にあり続け、国家権力の正当性・正統性を保障する最高の権威であり続けたこと〉を意味する。この国体は、少なくとも千五百年以上の重みを持ったものであり、日本国が守り続けなければならないものである。ところが、『日本国憲法』は、天皇から政治的権威を奪い、象徴天皇制を採用した。明らかに、象徴天皇制は、国体法違反と言えよう」(p.129)

■無効理由(Ⅶ)「日本国憲法」成立過程史の歴史捏造  「成立後の政治・教育面についていえば、社会党を中心とする議員たちも、衆議院小委員会議事録を一九九五(平成七)年まで秘密にし続けることで、GHQは議会による自由な審議と修正を許した、とする虚構を守り続けてきた。また、(中略)憲法学も公民教科書も、一貫して『日本国憲法』成立過程について史実を隠し続けてきた。」(p.129)

「しかも、一九九五年以降はなおさら、国民一般は、全くデタラメな『日本国憲法』成立過程史を教え込まれていることに注目されたい。いや、政治家さえも、正確な成立過程史を把握していないであろう。正確な情報が国民一般に明らかにされていないわけだから、時効・追認・定着のための期間は進行しようがないのである。」(p.129)

本 とこしへのみよ

南出喜久治『とこしへのみよ』

■無効理由その一 〈改正限界超越による無効〉 「当時の憲法学界の支配的見解は、国体を破壊する典憲の改正はできないとする典憲の『改正限界説』であった。」「立憲主義は、憲法改正限界説と一体のものと理解されてきた」「改正によっては変更し得ない典憲の根本規範(規範国体)の領域にまで踏み込んで、その改正権の限界を超えてなされたものであるから絶対無効である」(p.79)

■無効理由その二 〈「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」違反〉

■無効理由その三 〈軍事占領下における典憲改正の無効性〉 ポツダム宣言(は…)我が軍の一部の地域を占領し、その地域内における統治権を制限することを限度とする『一部占領』の趣旨であり、国土全部を占領し、統治権自体の全部の制限、即ち、『全部占領』を意味するものではなかった。」「我が国は、独立は喪失したものの連合国の『被保護国』の地位にある国家として講和条約を締結しうる当事国能力は降伏後も存続した」「(にも拘らず)我が国は、その全土が連合国の軍事占領下に置かれたが、統治権が全面的に制限されることを受忍してポツダム宣言を受託したのではないから、その後になされたデベラチオ(直接統治)に近い完全軍事占領は国際法上も違法である。」(p.87)「(占領軍は)公職追放(…)ニ・一ゼネスト中止命令(…)選挙干渉、議会審議干渉、法案制定指示、財閥解体、宮家皇籍剥奪(…)、ありとあらゆる事象において、実質的にはデベラチオ(直接統治)を実施」「ポツダム宣言の結語に『右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。』と言明され、原爆投下によってジェノサイドの危機に追い込まれ」「皇室を廃絶するという強迫も加わった状態が継続する中で、(…日本政府は)遂に抵抗を諦めて、占領典範と占領憲法を承諾したのである。」(p.89)

■無効理由その四 〈帝国憲法第七十五条違反〉 「伊藤博文著『憲法義解』の第七十五条の解説によれば、『恭(つつしみ)て按ずるに、摂政を置くは国の変局にして其の常に非ざるなり。故に摂政は統治権を行うこと天皇に異ならずと雖、憲法及皇室典範の何等の変更も之を摂政の断定に任ぜざるは、国家及皇室に於ける根本条則の至重なること固(もと)より仮摂の位置の上に在り、而して天皇の外何人も改正の大事を行うこと能わざるなり。』とあり、この規定が国の変局時に関する『例示規定』であることを認識している」(p.91)

■無効理由その五 〈典憲の改正義務の不存在〉 ポツダム宣言には、帝国憲法と明治典範の改正を義務づける条項が全く存在しなかった。もちろん、降伏文書にもそれを義務づける規定はなかった。」(p.99)「ポツダム宣言を起草した『三人委員会』(国務長官代理ジョゼフ・グル―、陸軍長官ヘンリー・スティムソン、海軍長官ジェームス・フォレスタル)の一人であるジョゼフ・グル―(元駐日大使)は、後になって、『新しく憲法を制定するというような根本的、全面的な憲法改正は考えられていなかった』と述懐していたのである。」(p.101)

■無効理由その六 〈法的連続性の保障声明違反〉 「昭和二十一年六月二十三日の『帝国憲法との完全な法的連続性を保障すること』とするマッカーサー声明と比較しても、『完全な法的連続性』を保障した結果にはなっておらず、改正の限界を保障した同声明の趣旨に自ら違反している。」(p.103)「法的連続性というのは、成立要件要素である合法性と正統性、効力要件である妥当性と実効性のいずれをも満たすことを意味するが、全くそのようなことになっていない」(p.103)

■無効理由その七 〈根本規範堅持の宣明〉 「ポツダム宣言受諾日の昭和二十年八月十四日の詔書によれば、『非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾』せんがためにポツダム宣言を『受諾』したものであり、敗戦後も『国体ヲ護持』すること、即ち、正統憲法と正統典範の上位に存在する根本規範である規範国体を堅持することを国家の要諦として宣明していた。」(p.104)「そして、政府は、その後においてこの『国体護持』の基本方針を撤回する宣明をした事実が全くない。それゆえ、規範国体を護持するという国家基本方針は、占領の前後において一貫して堅持されてきたことになる。従って、これを否定する宣明をすることもなく密かにこれを放棄することは許されず、あえてこれを否定する宣明をすることもなく、規範国体を否定する内容の占領典憲を制定することは、禁反言(エストッぺル)の法理に違反して無効である。」「そもそも、仮に、詔書において『国体護持』の宣明がなされていなかったとしても、規範国体に違反する規範は、いかなる形式のものであっても無効である」(p.105)

■無効理由その八 〈改正発議大権の侵害〉 改正発議が一身専属の天皇大権であるにもかかわらず、天皇が自発的かつ自律的に改正を発議せず、天皇と枢密院を差し置いて、GHQと占領下政府によって改正案が私議され、改正大権が簒奪されたことが明らかである。」(p.106)「占領憲法の発議は、昭和二十一年二月十三日、マッカーサーが同月三日にGHQ民政局(GS)へ『マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)』に沿って作成を指示したことに基いて完成した英文の『日本国憲法草案』(GHQ草案)を、GHQ民政局長ホイットニー准将とケーディス大佐から吉田茂外相と松本烝治国務大臣らに手交して、これに基づく帝国憲法の改正を強制したことに始まるのであって、天皇の発議とは全く無縁のものであった。この『大権の私議と簒奪』は、『統帥権干犯』というような非難の程度を遙かに超えたものである。」(p.107)「天皇が一切関与できない発議なるものは、発議大権の侵害と言うよりも、発議大権の簒奪に他ならず、これによる改正審議も議決もすべて無効である。」「このように発議大権を簒奪してなされた改正審議において、帝国議会が修正議決した事もまた、二重の意味で憲法改正発議大権の侵害となる。」(p.108)

■無効理由その九 〈詔勅違反〉 帝国憲法は欽定憲法であるから、告文(こうもん)、憲法発布勅語及び上諭という帝国憲法発布に際しての詔勅についても憲法典と同様に憲法規範を構成することになる。」(p.112)「その憲法発布勅語には『不磨の大典』とあり、さらに上諭には『将来若(モシ)此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルへシ』とあることから、これは、帝国憲法改正に関する形式的要件である第七十三条とは別個に、改正のための実質的要件を定めたものと解釈しうる。即ち、その実質的要件は『紛更ヲ試ミルコト』を禁止したことであるから、占領憲法の制定という方法による改正は『紛更』そのものに該当するので無効である。『天皇といえども国体の下にある』ことから、『紛更』が明らかな占領憲法と、皇室家法の『丕基』を破壊した占領典範とは、いずれも天皇による公布がなされたといえども完全に無効であることに変わりはない。」(p.113)

■無効理由その十 〈改正条項の不明確性〉 「(上諭及び第73条にある『憲法ノ或ル条章ヲ改正』『此ノ憲法ノ条項ヲ改正』)というのは、『憲法の全部の廃止又は停止を容認しない』趣旨である。(美濃部達吉) ところが、占領憲法は、帝国憲法の各条項を改正するという手続をとらず、差換え的な全面改正を行ったのである。(…)帝国憲法と占領憲法とは条文の条項毎に一対一に対応しておらず、占領憲法の各条項が帝国憲法の、いずれの条項を改廃したのかが不明である。また、帝国憲法に規定のある機関(帝国議会、枢密顧問、行政裁判所など)や兵役の義務などを廃止するとの規定もないので、これらの機関や義務などは事実上停止されているに過ぎないこととなり、廃止されたのではないことになる。さらに、占領憲法が真に帝国憲法の改正法であれば、『大日本帝国憲法の昭和二十一年改正』として表示すべきであり、あくまでも法規名称は『帝国憲法(大日本帝国憲法)』のままであるはずである。しかし、新たにこれを『日本国憲法』と改称するとの規定すらないまま、『日本国憲法』と呼称することのいかがわしさは拭えない。」(p.115)「(公布の詔勅にも『帝国憲法』という略称が用いられているが)法文、しかも憲法の改正において正式名称を用いずに、慣例的な略取表記を用いることはあってはならないのである。それゆえ、厳密に云えば、『大日本帝国憲法』改正の公布は存在していないことになる。このような不手際は前代未聞のことであり、このことからしても、占領憲法は先帝陛下のご叡智に基づいていないことを推認しうるのである。」(p.116)

■無効理由その十一 〈典憲としての妥当性及び実効性の不存在〉 昭和天皇は、占領典範によって『初代天皇』として選定されたのではなく、明治典範に準拠して昭和三年十一月の即位礼により第百ニ十四代天皇として践祚され、崩御されるまで一度も退位されたことはない。つまり、明治典範の廃止による退位には全く実効性がなく、占領典範の『初代天皇』ではない。そのことは第百ニ十五代天皇である今上陛下についても同様であり、占領典範は、その意味においても、皇位の継承と選定の本質に関して、いまもなお全く実効性を備えてはいないのである。」(p.118)「さらに、(…)占領憲法の核心条項である第九条には実効性がな(い。『陸海空軍その他の戦力』に該当することが明らかな)自衛隊が存続している事実は、明らかに『違憲状態』の継続であるから、第九条は実効性を完全に喪失している。そして、第九条に実効性がないのであれば、これと一体となる占領憲法全体についても実効性がないのである。」(p.119)

■無効理由その十二 〈政治的意志形成の瑕疵〉 「(占領憲法の)改正過程において、プレスコード指令や神道指令などによる完全な言論統制と厳格な検閲がなされていた」「表現の自由(知る権利)は、民主社会を維持し育成する上で極めて重要な機能を有し、実質的には政治参加の機能を持っている。いわば、参政権行使の前提となる権利であって、この行使が妨げられることは実質的に参政権の行使が妨げられたと同視されるから、言論統制下での改正行為自体が違憲無効なのである。」(p.123)「(…)国民の政治的意志を決定するために不可欠な『知る権利』は全く否定されて徹底した検閲がなされた状況での帝国憲法の改正が有効と肯定されるはずはない。」(p.125)

■無効理由その十三 〈帝国議会審議手続の重大な瑕疵〉 「平成七年になってようやく公開された衆議院憲法改正委員会小委員会の議事録によると、小委員会とは名ばかりで、その審議と称するものの実態は、GHQの求めに従って、英文の翻訳を忠実に行う『翻訳委員会』の翻訳作業手続きに過ぎず、憲法改正手続きとしての実体がなかったことが明らかになった。(…つまり、)帝国憲法の改正を拒否しうることも、その改正案審議に自主性を持つことも全くあり得なかったのである。」(p.147-148)「(昭和二十一年十月六日、貴族院は審議に時間をかけて審議未了により憲法改正案を廃案にしようと画策したが、)GHQは(…)帝国議会の大時計が午後十一時五十五分を指した時に、この大時計を止めて、名目上は同日(六日)に可決させることを強要した。」(p.148)「従って、このような諸事情からすれば、帝国議会の帝国憲法改正案審議自体に実質上も手続き上も著しく重大な瑕疵があったことになり、占領下の憲法制定ないし改正としての占領憲法は、帝国憲法の改正として、かつ、実質的意味の憲法(規範国体)としては絶対的に無効である。」(p.149)

(上記南出喜久治氏の無効理由その一からその十一までは、占領典範、占領憲法共通の無効理由。その十二と十三は占領憲法固有の無効理由である。)

『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』は無効である

「『憲法無効論』は感情論だ」とか「『日本国憲法には妥当性・実効性があるので有効である(天皇陛下をはじめ、内閣、国会、裁判所といった国家機能の三権が『日本国憲法』を憲法という前提で動き、いろいろな法律がそれを基に作られている)」という人がいるが、そのような人は上記三氏の無効理由に見るような、『日本国憲法』制定過程の戦慄すべき実相について無知であるか、あるいはそれらを故意に無視して「ロシアやフランスの憲法は…」と見当違いの議論に終始するきらいがある。

数学者であり思想家であった岡潔は「西ドイツは進駐軍治下の憲法というものはありえないといって毅然としてその憲法を変えることを拒否したのに、日本は唯々諾々として進駐軍治下で憲法を変えた。(…)政府はそうしなければ万世一系の皇統を断絶するぞといって恐喝されたからであって、政府はそのとき国民にはかったわけではないが、私はそれが国民過半の感情だったからであると思う。」(南出喜久治『とこしへのみよ』p.131)といったが、日本占領をめぐっての米国とソ連の確執・覇権競争の実相を知らずして、また彼らが日本に新憲法を与えたことの本当の意味を知らずして、『日本国憲法』の正体を正確に見破ることはできない。

一旦『日本国憲法』制定過程の真実を知ったなら、普通の日本の庶民なら誰でも、連合国の無法と卑怯にいまだ蹂躙され続けている我が国の実情に、悔し涙をこらえることができないであろう。

『日本国憲法』を「天皇陛下のご詔勅がついているから本物」と信じてきたのに、実はその『日本国憲法』『GHQ皇室典範』こそが、天皇の大権を簒奪し、「国民主権」という一見正しそうな、実は「『主権者』国民を支配することによって国全体を支配する」独裁主義・全体主義を招来する悪魔の思想でもって、私たちが敬愛する天皇陛下を「主権者国民の下位」に置き、天皇陛下とその御先祖・御子孫までも侮辱しているのだと知ったら…。

いったい誰がこのような代物を、詭弁を弄してまで擁護しなければならないのか?

「偽憲法」=『日本国憲法』の「有効性」を認めるかのように、その改正方式で改正してまで、おこがましい「国民主権」を守り続けなければならないのはなぜか?___そういう疑念に誰もが苛まれることであろう。

そもそも「国民主権」といいながら、マッカーサーの後任マシュー・リッジウェイは、昭和二十六(1951)年五月一日、「GHQから日本政府へ占領下法規再検討の権限を移譲する」と声明、同月六日に政令諮問委員会を設置、その後に移譲手続きとその実施をおこなった。

「主権」は『日本国憲法』公布・施行後も、この時まで日本政府をその代表者とした日本国民にはなく、GHQにあった。なんという茶番か?

また、サンフランシスコ講和条約に署名せず、当事国とならなかった連合国の一部の国とは「戦争状態が継続」しており、日本はずっと「交戦権を行使」し続けている。

『日本国憲法』の「戦力不所持・交戦権否定」は幻に過ぎない。

これでなお『日本国憲法』に実効性があると言い張る人は、左翼思想に脳髄を侵され思考が停止しているとしかいいようがない。

もしも『日本国憲法』が無効でないならば、「交戦権」を否定した『日本国憲法』では戦争行為の一環である講和条約を結ぶことはできず、サンフランシスコ平和条約が無効ということになってしまい、日本は未だ戦争状態(休戦状態)であり、「独立」できていないことになるが、そうではなく、日本は確かに講和条約を結んで法的に独立を果たした。

つまり、日本は無効な『日本国憲法』でなく、日本の憲法であり続けている『大日本帝国憲法』の、「天皇の講和大権」により講和条約を締結したのである。


日本人は、末端に至るまで向上心、向学心に満ち溢れた国民である。

「無知の知」を知り、我が国がいま置かれている、戦後ずっと置かれ続けてきた状況の真実を、『日本国憲法』の正体を、「知りたい」と、日本人なら思うはずだ。

「占領憲法」である『日本国憲法』と「占領典範」の無効確認、大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認・復原宣言を、天皇陛下にしていただくこと__即ち「日本の至高の権威」たる天皇の無効確認・復原宣言だけが、我等日本人皆に、「無知の知」を謙虚に思い知らせてくれるのである。

『日本国憲法=占領憲法』と『GHQ皇室典範=占領典範』の無効を宣言し、同時に大日本帝国憲法・明治の皇室典範復原宣言を。

その日を日本の真の「独立記念日」として、歴史に「戦後レジームからの完全脱却」を刻む。

(2016年10月5日、2017年9月6日に加筆しました)