「『南京大虐殺』の虚構」の完全証明 ①東京裁判と「南京安全区国際委員会」そして南京の人口

東京裁判の記録と1937年当時の同時代一次資料で、「『南京虐殺』など無かった」と証明できるにも拘らず、左翼反日プロパガンダを公式に排すべき立場にあるはずの文科省、外務省が、未だに「南京虐殺が在ったのは事実。問題は被害者の人数だけ」と思い込んでいる。日本の知識階層のエリートであるはずの彼らが、「南京事件」など代表的な反日プロパガンダの学術的な検証を放棄している。だが、そこを指摘できない政府の不勉強は不問に付して良いのか?

2016年度教科書検定に於ける「南京事件」「慰安婦問題」「中国人強制労働」「関東大震災時の朝鮮人虐殺」で「政府の主張反映」(朝日新聞2016年3月19日)とは、各々「被害者の人数は諸説ある」「法的に解決済み」「各国との条約で解決済み」「虐殺数・数千人は通説がない→数百人~数千人」___。これでは全く「東京裁判史観」の域を出ていない。

朝日新聞は「多様な見方 触れる必要」といいながら、「日本は完全に無実」という観点は全く欠落している。両論併記どころか、「『日本は無実』という説もある」とすら言及しない。「日本無罪論」の存在すら認められていない。これが公正な報道と言えるのか?

反日親中の牙城である朝日新聞はともかくとしても、「戦後レジーム脱却」のホープである安倍晋三首相を擁する政府自民党が、東京裁判史観を脱していない……。

日本悪玉史観で70年間教育された国民ではない、「戦後レジーム」を打破する内閣が、自分達が戦っている真の敵=プロパガンダについて無知とは、どういうことだろうか?

戦後70年の安倍談話にかなりの影響を与えた「21世紀構想懇談会」の座長代理、北岡伸一国際大学学長は談話発表前に、公然と「日本が中国を侵略したのは事実」「安倍首相にも談話で『侵略』と言って欲しい」といっていた。その5年前の「日中共同歴史研究」の頃、彼は次のように語っていた。


「日本に侵略を否定する声が大きいうちは、中国は、日本は反省していないと主張し続けることができる。」

「中国や韓国の歴史記述が過度にナショナリスティックになっていることは、よく知られたことである。(中略)しかし、日本のなかで侵略や虐殺の事実そのものを否認しているために、そこにふみこむことさえできなくなっている。道義的な優位性を失っているからである。」

(「共同歴史研究 『侵略』認め、日中攻守逆転」 2010年4月18日付読売新聞)


「侵略や虐殺の事実そのものを否認すること」で、日本が『道義的優位性』を失っている、と北岡氏はいっている。日本人は侵略者であるだけでなく、それを絶対に認めようとしない、反省しようとしない、道義的劣等民族である、と言っているのだ。『日本国憲法』前文の絶対的信奉者とお見受けする。

だが、日本が自身にかけられた冤罪を無実と証明することと、中国や韓国の自国の歴史への自己欺瞞と捏造を批判することを、同列に扱ってはならない。

北岡氏が完全に東京裁判史観を信じ切っていて思考停止し、それへの反論は一切耳に入らないのか、東大で法学博士となったにも拘らず、本当に東京裁判の実相について無知なのか、それとも本当は真実を知っていながら、ハニー・トラップにでもかかって脅されている故批判ができないのか、それは知らない。

だが、東京裁判の速記録を実際に読めば、東京裁判が実は「日本の戦争犯罪」など何ひとつ証明していないことが、誰にでも解る。

東京裁判は「『南京大虐殺』など起こっていたはずがない」という証拠を無視した

300px-International_Military_Tribunal_Ichigaya_Court

以下は、所謂「Nanking Atrocities=南京の暴虐」についての東京裁判における審議の一幕である。

MR. LEVIN: Mr. Brooks calls my attention to the fact that in another portion of the affidavit is contained the statement that 300,000 were killed in Nanking, and as I understand it the total population of Nanking is only 200,000.
THE PRESIDENT: Well, you may have evidence of that, but you cannot get it in at this stage. ”  

nanking-population-is-200000

p.4,551, “The Tokyo Major War Crimes Trial: the Transcripts of the Court Proceedings of the International Military Tribunal for the Far East” Edited by R. John Pritchard

ウェッブ裁判長はそれに対し「貴方はその証拠を持っているかもしれませんが、現段階でその提出はできません」と退けた。(裁判長は「現段階で」といったが、その後この件は二度と言及されなかったことは言うまでもない。)

「南京の人口20万人」説は、日本人被告側弁護人ブルックスとレヴィンの希望的観測等では勿論なく、「南京虐殺があった」と言っている当の中国側資料に、その典拠がある。

その資料とは、南京陥落時に南京に残り、「南京安全区国際委員会」を組織して「難民救援」を行った、米国人宣教師やドイツ・ジーメンス南京市所のジョン・ラ―べ国際委員会会長等が作成、日本大使館を通して日本軍当局と折衝するため提出した文書や書簡をまとめた『Documents of the Nanking Safety Zone=南京安全区[木當(一字)=とう]案』(Edited by Hsu Shuhsi, 1938年刊)、及びラ―べ等国際委員会メンバーの残した日記や手紙など(『Eyewitnesses to Massacre』『The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe』)である。

Rape of Nanking 3
The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998), Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999), Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)

「難民救援」に括弧をつけたのは、南京国際委員会が、難民救済を建前にしながらその実、中国国民党・蒋介石軍を利する反日宣伝活動に従事していたからである。

『南京安全区とう案』は、南京から後退し重慶に置かれた国民党政府の外事評議会の援助を受けながら、国民党顧問の徐淑希によって編集されている。

南京の人口「20万人」は日本軍の南京占領2週間で「25万人」に増加していた

その「南京安全区とう案」が、「南京に残った200,000人の難民」と繰り返し何度も言及するということは、1938年当時の国民党政府が「南京陥落時の南京の人口は200,000人」と認識していたことになる。

現在の中国共産党政府が最も重用する「『南京虐殺』の同時代一次資料」は、「偶然にも」日本の歴史教科書執筆者や文科省教科書検定官と同じく、「ジョン・ラ―べの日記」であるが、実はここにも「南京の人口200,000人」が何度も言及されている。その最も重要な言及が、日本軍の南京到達の2週間前に当たる1937年11月28日の記述である。

“Wang Kopang, the chief of police, has repeatedly declared that 200,000 Chinese are still living in the city.”   (p.39, The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe)

「警察長官の王固磐は、『20万人の中国人が未だ南京市内に居住している』と、繰り返し宣言している」と、反日宣伝活動・中国国民党軍後方支援を行っていた、ヒトラーに嫌われていた(隠れ親ソ派?)ナチス党員、ジョン・ラ―ベが証言しているのだ。

しかも、この「20万人」という数字は、「虐殺」などあったなら当然減っていくはずなのに、実際は5万人も増加している。

南京陥落から2週間が過ぎたクリスマスの頃には、『安全区とう案』や「国際委員会メンバーの日記・手紙」に言及される南京の人口は、「25万人」になっていくのである。

中国人難民には、南京市内と城外を自由に行き来できる証明書「良民証」が交付された

これは、陥落時に南京城内の安全区に逃げ込んだ中国軍の敗残兵を、正真正銘の中国市民と区別するため、日本軍が発行した「良民証」が、中国軍に拉致されて兵隊にさせられていた農夫たち(拉夫)や、大部分の反抗的でない元兵士にも与えられたからであった。

「良民証」の発行は、日本軍当局と中国人難民の代表の立会いの下で中国語で行われ、難民たちは若い女性も含め、これを貰う為に登録所へ殺到した。

Friday, December 31.   Registration took place this morning—not of 260 college women, but of about 1,000 refugee women between ages of 17 and 30. By 9 o’clock they were lined up in front of Central Building and given a discourse—first by the Japanese military official, and then by Mr. Jan Yung-gwang—both in Chinese. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.368)

“During the afternoon there was not a great deal to do at the office. Trucks were interfered with because coolies could not work until registered and I suppose the same will be true today. But after people once pass the bugbear of registration they feel much relieved. So far reports of any large numbers being taken off as soldiers, about 20 from the Middle School [MS].Fitch was told yesterday that even soldiers would be pardoned if they had families here to guarantee them and those who had not, would be taken for work corps, not shot.But the officer that took the 20 from the MS said they were to be shot. We certainly hope that will be kept to a minimum.” (Lewis S.C. Smythe, Sunday December 26, 1937, Eyewitnesses to Massacre, p.276)

「虐殺派」の人々から、「『南京虐殺』から中国人を救った南京の女神」とまでもてはやされている、国際委員会のメンバーで金陵女子学院教師の宣教師、ミニー・ヴォートリンは「今朝、良民証登録が行われた。260人の女子学院の女性たちでなく、1,000人もの難民の中国人女性たちが、朝の9時には既に学院中央棟の前に並んでおり、日本軍将校とジャン・ユングァン氏の中国語の講和を聞いた。」と日記に書いた。

「良民証登録の『bugbear=根拠のない恐れ』をやり過ごして、一旦良民証を手に入れると、人々は非常に安心した。」「(市民服に着替えた便衣兵=元)兵士ですら、ここ(安全区)に家族がいて身元を保障するならば免罪されるし、もし家族がいなくとも、射殺されるのでなく、労働部隊へ廻されるのだ、と(同僚の国際委員会メンバー)フィッチは聞かされた。」と同じく国際委員会のルイス・スマイスは自分の日記に書いた。

同じ文章中に「中等学校(Middle School)から20人の中国軍兵士が連行された……連行した将校によれば、彼らは射殺されるという。」とあるが、これは「例外的に」反抗的、敵対的敗残兵であったのだろう。この件が国際委員会にも納得されていたらしいのは、最後の一文に「我々国際委員会はそのこと(良民証を与えられず、銃殺刑にされる敗残兵がいること)が最小限にとどめられるよう強く希望する」とあるのみで、「安全区とう案」に、日本軍への抗議として記録されることは無かった、という事実で解る。

中国軍は国際法違反の「便衣兵」となって難民キャンプに潜伏していた

南京陥落直前の1937年12月12日夜。(1)南京防衛軍司令官唐生智は形勢絶対不利を見てとり、さっさと敵前逃亡した。(2)置き去りにされパニック状態になった中国軍は、武器を捨て、兵隊服を脱ぎ捨て、予め携帯していた「便衣服=市民服」に着替え、中国人非交戦者の為の安全区に、市民を装って入り込んだ。(3)彼らは「敗残兵と市民とを分ける能力のない」安全区国際委員会の目と鼻の先で、安全区内に潜伏し、武器を隠匿し、(4)機会を捉えて略奪、放火、強姦や殺人などを同胞である中国人難民に対して犯し、これを日本軍のせいにしようと企んでいた。

中国国民党軍のこれらの行動は完全な国際法違反であった。

1907年 ハーグ陸戦法規 第一章 交戦者の資格
第1条: 戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される。
(1) 部下の責任を負う指揮官が存在すること。
(2) 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること。
(3) 公然と兵器を携帯していること。
(4) その動作において、戦争法規を遵守していること。

これを証明する記事が1938年1月4日のニューヨーク・タイムズに掲載された。

NYT 4 JAN 1938 B
New York Times 4 JAN 1938

「元中国軍将校らが米国人の難民キャンプに:大佐とその部下達 南京での犯罪を日本軍のせいにしていたと白状」

「南京に留まって国際難民救済委員会を結成していた米国人大学教授達には非常に不面目なことに、彼ら自身の難民キャンプに敗軍の将校とその6人の部下を匿っていたことが発覚。」「しかも、あろうことかその大佐を、難民キャンプの幹部に据えていた。」「彼らは南京防衛戦で退却の際、軍服を捨て去り、大学構内に潜伏していた。」「彼らは、日本軍の掃討部隊に、建物内に隠匿した6丁のライフルと5丁の回転式拳銃、砲台から外した機関銃と弾薬を発見された後、自分たちの真の身元を白状した。」「これらの元中国軍将兵たちは、南京で略奪を働いたこと、そして或る夜、難民キャンプから女の子達を暗闇に引き摺り込み、翌日この暴行を日本軍のせいにしたことを、米国人をはじめとする外国人の面前で告白した」「この元将兵たちは逮捕された。そして軍法会議にかけられ、おそらくは処刑されることであろう。」(拙訳:筆者)

南京安全区国際委員会は中国国民党のプロパガンダ工作に携わっていた

この米国人宣教師らは、「知らずに」元中国軍将兵を難民キャンプに匿っていたのではない。東京裁判で証言したシャール・ベイツや『南京の日本軍暴行記録』を書いたルイス・スマイスは、国際プロパガンダ工作の為に国民党に雇われていたことが国民党極秘文書から明らかになっているし、南京YMCAのフィッチは「南京放送で国民党のプロパガンダを流している」と、当時中共軍と行動を共にしていたコミンテルン・スパイの米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーも自著に書いていた。ベイツとミニー・ヴォートリンは「秘密裏に」国民党・蒋介石からヒスイ勲章を貰っている

現中国共産党政府が「南京虐殺の生き証人」と持ち上げるジョン・ラ―べもまた、南京陥落直前の12月12日から、30,000ドルと引き換えに国民党軍将校「ラン」と「チャウ」の2人を自宅に匿い(『ラ―ベ日記』p.64)、翌年1938年2月23日にドイツへ帰国する為南京を離れる際には、やはり自宅に匿っていた「フアン空軍大佐」を自分の使用人と偽って帯同し、日本軍の警戒を潜り抜け、上海まで脱出させることに協力(同上p.202)している。

国際委員会の面々は、全員が程度の差こそあれ、反日的であった。日本軍は中国人難民による「自治委員会」を設立して、中国人自身の手による南京復興を奨励援助していたが、中国での布教活動がいまひとつ成功しておらず、本国からの助成金途絶の危機に直面していた米国人宣教師たちにとって、日本軍は「南京で難民を救済した」という「実績・手柄」を横取りする邪魔な存在であった。

南京の中国人は日本軍を慕っていた

南京を占領した日本軍の主力は、陥落後2週間で、重慶方面へ退却する中国軍を追跡し南京を後にした。残された1600人ほどで、南京市内の警備とインフラ復旧工事、遺棄された中国軍の分も含めた戦死体の埋葬・供養が行われ、南京の平和は急速に回復した。

Jan. 1, 1938—8:45 P.M.  New Year’s Day     Well, today has been the noisiest unhappy New Year I ever saw. Firecrackers began early this morning. But the barber was an hour late for his eight o’clock appointment and apologized by saying that he had to go out to fire firecrackers for the Japanese! Well, anyway the children had a grand time firing the crackers given out by the Japanese! (Lewis S.C. Smythe, Eyewitnesses to Massacre, p.284)

優しく礼儀正しい日本軍将兵から肉の塊を貰ったり、飾り付けをしたりして「穏やかなクリスマス」を過ごした国際委員会の宣教師たちは、正月には「日本軍からもらった爆竹を鳴らして、朝から非常に楽しい時を過ごした子供達」を目撃した。「今まで見たこともない騒々しい『嬉しくないお正月』だった」と書いたスマイスは、国民党のプロパガンダ要員としては、「敵」であるはずの日本軍と仲良くやっている南京市民の姿に素直によろこべなかったのであろう。

「南京で起こっている略奪・強姦・放火は中国軍の仕業で、日本軍ではない」と中国人

前述のニューヨーク・タイムズ1938年1月4日付記事のあと、1月9日の日記に、国際委員会のマッカラムは「いまや日本人は、安全区で努力している我々の信用を落とそうとしている。我々国際委員会が言ってきたこと(筆者注:日本軍の「悪行」を言い立てる「南京安全区とう案」のこと)を不当だと思わせようと、可哀想な中国人達を脅しているのだ」と書いた。

“Now the Japanese are trying to discredit our efforts in the Safety Zone. They threaten and intimidate the poor Chinese into repudiating what we have said.

Some of the Chinese are even ready to prove that the looting, raping and burning was done by the Chinese and not the Japanese.

I feel sometimes that we have been dealing with maniacs and idiots…” (James A. McCallum, Eyewitnesses to Massacre, p.238)

「何人かの中国人は、『略奪・強姦・放火は中国軍がやったのであって、日本軍ではない』と証明する準備がある、とまで言っている」時々、我々(外国人)は狂人や白痴を相手にしているのかと思うことがある……」(拙訳:筆者)

だが、中国人達は日本軍に脅されてこのようなことを言っているのではない。そして、国際委員会のメンバーが反日プロパガンダを拡散していると知っていたのは中国人だけではなかった。

マギー牧師は、「南京での日本軍の『残虐行為』の話は虚偽であり、本当の犯人は中国軍である」という手紙をタイムズ紙に複数回書き送っていた、ニューヨークのマッキム牧師宛てに、長い抗議の手紙を書いていた。

“Dear Mr. McKim,      It has been brought to my attention that you have been writing letters to the Times saying that the stories of Japanese atrocities in Nanking were false.

[…]  If I had not seen with my own eyes the things that I have seen I could not have believed that such things could have had happened in the modern world.” (John G. Magee, A Letter to The Rev. J. C. McKim, April 2nd, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.198)

「もし私が自分のこの目で見たのでなければ、こんな(日本軍の犯したようなおそろしい)ことが現代のこの世の中に起こるとは信じられたはずはありません」などとマギーはマッキム師を非難したが、聖職者にあるまじきことながら、マギーは嘘をついていた

南京の外国人達は、「虐殺」どころか一件の「殺人」も目撃していなかった

東京裁判で、『南京安全区とう案』の444件の事件報告を2日がかりで朗読したマギー牧師は、被告側弁護人ブルックス大尉に「今おっしゃった『殺人行為』のうち、何件をご自身で目撃されましたか?」と聞かれて答えた。

“I thought I made that clear in my testimony.
I only personally witnessed the killing of one man.”  (p.3,929, Pritchard前掲書)

「私の証言の中で明確に申し上げたつもりでしたが……一人の男が殺されたのを、自身で目撃したのみです。」と、マギーは証言した。

しかも、これは「殺人」ではなく、「誰何され逃げ出した怪しい男が警備兵に撃たれた」という、戦場では「正当な殺害」にあたる事件であった。

マギーは「一昨日の話」として、1937年12月19日の日記にその模様を書き残していた。

“Just day before yesterday we saw poor wretch killed very near the house where we are living. So many of Chinese are timid and when challenged foolishly start to run. This is what happened to that man. The actual killing we did not see as it took place just around the corner of a bamboo fence from where we could see.” (John G. Magee, Sunday-December 19, Eyewitnesses to Massacre, p.171)

「多くの中国人は臆病で、誰何されると愚かにも逃げ出してしまう。それがこの男に起こったことだ」とマギーは書くが、難民たちは日本軍に感謝し、慕いこそすれ、日本軍を恐れたりはしていなかった。そもそも、日本軍の方でも普通の難民を「怪しい奴」とみて誰何することもなかったであろう。

しかも、この件には落ちがあり、誰何されて逃げた男は、国際委員会の面々の視界を外れた竹の塀の向こう側へ逃げたところで撃たれたので、「我々(国際委員会)は殺害自体は目撃しなかった」(同上、p.171)のであった。

実際には見なかったことを「見た」と、マギー牧師は東京裁判で証言したことになる。

真っ当な裁判であれば、これは「偽証」になるはずであったが、東京裁判には偽証罪の適用は無かった。

国際委員会が、自分たちの目で本当に目撃した、日本軍による「殺害」はただ1件、そしてそれは「合法的な処刑」であった

『南京安全区とう案』ケース185、国際委員会のクルーガーとハッツが1938年1月9日に目撃した「市民服の男」=便衣兵の銃殺である。

“ 185.     On the morning of January 9, Mr. Kroeger and Mr. Hatz saw a Japanese officer and soldier executing a poor man in civilian clothes in a pond inside the Safety Zone on Shansi Road, just east of the Sino-British Boxer Indemnity Building.
The man was standing in the pond up to his waist in water on which the ice was broken and was wobbling around when Mr. Kroeger and Hatz arrived.
The officer gave an order and the soldier lay down behind a sandbag and fired a rifle at the man and hit him in one shoulder. He fired again and missed the man. The third shot killed him. (Kroeger, Hatz)

Note: We have no right to protest about legitimate executions by the Japanese army, but this certainly was carried out in an inefficient and brutal way. Furthermore, it brings up a matter we have mentioned many times in private conversation with the Japanese Embassy men: this killing of people in ponds within the Zone has spoiled and thereby seriously curtailed the reserve water supply for the people in the Zone. This is very serious in this long dry spell and with the city water coming so slowly.” (p.78, “Documents on the Rape of Nanking” edited by Timothy Brook)

我々には、日本軍の合法的処刑に抗議する権限は無いが」と前置きして、射撃手が経験不足からか2度も急所を外し、3度目でやっと件の男を射殺した事、氷の張った冷たい池の中での銃殺刑であったこと等を「要領が悪く残酷なやり方」と批判し、「安全区内の池での射殺は、飲み水を汚染し、安全区の人々への給水の深刻な制限につながる」と非難している。

『南京安全区とう案』に載っている444件の「事件」は、185番を除いて全てが「伝聞」、しかもその殆どは検証していない「また聞き」であった

Number 8

Cases of Disorder by Japanese Soldiers in the Safety Zone

Filed, December 16, 1937

Note: These are only sample cases we have had time to check upon more carefully. Many more have been reported to our workers.

[Cases number 1 to 15]

The above cases have been checked upon by foreign members of our Committee or Staff.

respectfully submitted,/ Lewis S. C. Smythe/ Secretary

(pp.9~11, Documents on the Rape of Nanking, edited by Timothy Brook)

南京国際委員会会長のジョン・ラ―べや同会セクレタリーのルイス・スマイスが日本大使館やアメリカ大使館との折衝等の為に書いた69通の手紙や覚書のうちの1通の、本文ではなく注意書きとして小さな字で書かれているものである。

「これらは、我々がきちんと裏付けを取る時間をとれた唯15件の事件報告である。更に多くの事件報告が、我々のスタッフに届けられている」と始まって、「上記の事件報告は、我々国際委員会のメンバー或いは事務員によって裏付けされている。」で終わっている。また、1938年1月31日の手紙「Number 56」にも、「以下にあげる事件(番号210から219)だけが、我々が事件当事者から直接聞くことの出来た事件である。(最初の2件は、以前の事件をタイプライターで清書する際に、見落としていたものである)」とスマイスが書いている。

The following cases are only the ones we have been able to get first hand reports of: (The first two are cases overlooked in typing up previous reports.) (p.116, Documents on the Rape of Nanking)

これらの注意書きは何を意味するのだろうか?その答えは、当時外交官補として在南京日本大使館に勤務し、国際委員会からの手紙にも数回その名が宛先として登場する、福田篤泰氏の証言によって明らかになる。


 当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。 「いま、上海路何号で10歳くらいの少女が5人の日本兵に強姦されている」あるいは「80歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。

(福田篤泰『一億人の昭和史』1979年版)


要するに、国際委員会の「事件報告」というのは、国際委員会の事務所に「中国人」が持ってきた「報告」を、検証もせずにタイプしてまとめているだけのものだった。

『南京安全区国際委員会報告書』は、「国民党プロパガンダ」であった

「報告者」の「中国人」が、国際委員会同様、中国国民党のプロパガンダ部隊か、その息のかかった人間であることはほぼ間違いない。

実のところ南京には、「米宣教師・国民党軍宣伝部隊」対「日本軍・中国人難民」の構図があった。

シャルフェンベルク・ドイツ大使館一等書記官が、1938年2月10日に書いた覚書がこの間の事情をよく説明している。

Memorandum of Chancellor Scharffenberg for the Embassy in Hankow

[……]

On 5 February, all officials were again invited to a tea [by the Japanese Embassy], as guests of garrison commander Major General Amaya.

We conversed very amiably for a good while, [then] Amaya…gave a speech…. His thesis was: Everything would have gone far better in Nanking without any Westerners. The Chinese had crept in under the Westerners’ coattails and by trusting in our intervention, had dared to defy the Japanese. In Yangchow…everything had fallen into place wonderfully after a few days, and commercial life had scarcely been interrupted.

The high point of of his speech was: “Please don’t interfere in my dealings with  the Chinese!” [……]

The Safety Committee has long been a thorn in the side of the Japanese, but since 4 February a large number of Chinese have in fact left the camps and found shelter somewhere in the city. In my view, Herr Rabe as its chairman has indeed achieved extraordinary things, but he has let himself be lulled far too much by the Americans and is helping promote American interests and missionaries who are out to catch souls en gros.

Rabe realises as much himself, and is trying to get Japanese permission to go to Shanghai, but he is still actively trying to counter the bloody excesses of Japanese looters, which have unfortunately increased of late. To my mind, this should not concern us Germans, particularly since one can clearly see that the Chinese, once left to depend solely on the Japanese, immediately fraternize. And as for all these excesses, one hears only one side of it, after all.

「(3日のディナー・パーティーに続いて)2月5日にも、全大使館職員が(日本大使館に)茶会に呼ばれた。」「しばらく談笑したあと、天谷少将がスピーチをした。」「彼の論旨は、『南京に西洋人が一人もいなければ、もっとずっと物事は上手くいったはずだ。中国人は西洋人達のコートの裾に隠れながら、いざとなれば西洋人が助けてくれると踏んで、平気で日本人を侮った。揚州では、陥落数日後に全ては収まるところに収まった。商業活動にも殆ど支障はなかった。』ということだった。」

「要は『日本軍と中国人との問題に口を挟まないでくれ!』といいたかったのだろう。」

シャルフェンべルクは続ける。「国際委員会はずっと日本人の咽喉に刺さった棘だった。が、2月4日には大部分の中国人難民は帰宅するか、南京市内のどこかに別の棲み家を見つけた。」(筆者注:日本軍の指導により、難民の安全区は1938年2月4日で解散。中国軍の清野作戦・拉夫〔農夫を誘拐して兵隊にする〕のせいで家を焼かれ、夫を失った女性には日本軍から見舞金が支給され、殆どの難民は帰宅した。そして貰った「良民証」を見せれば、郊外で作った農作物等を売りに、自由に南京城内へ入ることができた。)

「ラ―ベ氏は立派な仕事をしたと思う。だが、彼は寧ろ自ら進んでアメリカ人達にたらし込まれ、アメリカの国益と、大量に信徒を得ようとやっきになっている米宣教師達の利益を追求する手助けをしている。

「ラ―ベ氏は自分でも気付いている。そして(筆者注:ドイツへ帰国の為に)上海への渡航許可を日本当局に申請しているが、一方で、最近また増加している日本軍の略奪・残虐行為への対応に、今尚積極的に取り組んでいる。正直に言って、我々ドイツ人が心配することではないと思う。何故なら、誰にでも明らかなことだが、中国人は日本人だけを頼らねばならないと見るや、一瞬にして日本人と親しくなってしまった。そして、これら全ての「残虐行為」についていえば、誰かさん(ラ―ベ氏)は結局のところ片方(中国人)の話だけを聞いているのだから。

外国人宣教師達も、国際委員会の宣伝活動を非難していた

シャルフェンべルクだけではない、同じ宣教師仲間の外国人達も、国際委員会の「国民党宣伝活動」を批判していた。

The chief officer of the Embassy [of Japan] formally referred to me as “anti-Japanese” ……. Some of the foreign group here have continually besought me (and to a lesser extent Smythe and Mills)—Fitch also when he was here—to cease the thorough reporting and protesting and indirect publicity, lest all missionaries be excluded from Nanking. (Miner Searle Bates, letter to Timperly, March 3, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.31)

「日本大使館の主席官吏は、公に私を指して“反日”と呼びました。(中略)ここ南京にいる外国人グループのうちの何人かは、私に向かって(回数は少ないがスマイスやミルズにも)___そしてフィッチがいる時には彼にも___詳細な報告、抗議、間接的な宣伝を止めてくれ、と頻繁に嘆願するのです。(私達のせいで)全ての宣教師が南京から追い出されることを怖がっているのです。」

これはベイツが、ハロルド・ティンパーリーに宛てて書いた手紙である。ティンパーリーは、国民党が外国人を使った国際プロパガンダ工作の一環として出版させた『What War Means: Japanese Terror in China=戦争とは何か:中国における日本の暴虐』の著者で、ベイツとスマイスは上海を拠点とするティンパーリーに日本軍の情報、南京の状況を書き送って、英語による国際的な反日プロパガンダの発信に携わっていた。

ティンパーリーや、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダ―ディンなどの、上海にいる反日外国人記者により、英語で発信される「日本の残虐行為」に騙された人々が「残虐非道の日本を懲らしめろ!」という「国際世論」を形成し、その「国際世論」に騙された、或いは騙されたふりをした人々が、「『南京虐殺』があったのは事実」などといって思考停止し、大元の「日本の残虐行為」という嘘を「(第3者である外国人による客観的な)虐殺の証拠だ」といって、人々にも思考停止を強要している。それが今、世界規模で起こっている事である。

だが、南京の真実は「中国人の言うことだけ」を聞いていてはわからないのだ。その中国人が本当の「良民」なのか、プロパガンダ工作員なのかを見極めなければ。

とはいうものの、これまで挙げてきた3冊の本「The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998)」「 Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999)」「Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)」を精読するだけでも、南京攻略戦、南京陥落時とその後の様子は、映画を見るように鮮やかに見えてくる。肝心なのは、まず先入観を捨てることだ。

国際委員会は日本軍が安全区を砲撃しなかったことを感謝していた

Letter to Japanese Commander of Nanking

December 14, 1937

Honorable Sir,

We come to thank you for the fine way your artillery spared the Safety Zone and to establish contact with you for future plans for care of Chinese civilians in the Zone.

(p.1, Documents on the Rape of Nanking)

『南京安全区とう案』は、その最初の書簡、南京陥落翌日の、日本軍総司令官への手紙で、日本軍が南京攻略時に安全区を避けて砲撃を加えた「立派なやり方」と、そして、(「中国人を殺したこと」ではなく)「安全区にいる中国人非戦闘員の為の福祉についてこれからの計画を立てる為、〔日本軍〕との連絡の手段が確立されたこと」に感謝している。

これまで見てきたように、この後、国際委員会は444件もの(自分たちで目撃したのでない、検証もしていない)「事件」報告をしてゆくのだが、それと並行して、「安全区にいる(常に数の変わらない)20万人(後に25万人)の中国人」の為に、食糧(主に米)等を国際委員会が販売するため、日本軍に融通してくれるよう要請する手紙を、繰り返し出している。

難民の世話は、既に日本軍がきちんとやっていた。

1938年1月1日には難民たちの代表である紅卍字会を主体とする「中国人自治会」が日本軍の協力で発足し、同2月4日には早くも「安全区」を解散できるまでに南京復興は進んでいた。それを横から「手柄」だけさらおうとしていたのが国際委員会であり、その上日本軍について「あらぬことないこと」出鱈目ばかりを言い募ってくる厚い面の皮には、如何に「紳士的な日本軍将校(複数の国際委員会の外国人による評)」でも、少なからぬ苛立ちを覚えたことであろう。

陥落後3カ月で日本人婦女子も南京に帰還。南京の人口、陥落1年後には40万人に

南京の人口は、日本軍が南京に到達する以前の11月28日に警察長官・王固磐が発表した「20万人」から、12月24日から始まった「良民証」の発行により「25万人」に増加し、日本軍による戦場整理・インフラ復旧が着々と進み、市外に避難していた人々も帰還し始める。

1938年3月31日までには、600人の女性・子供を含む日本人居留民も戻ってきた。そして、1938年11月には、「南京の人口40万人」と、反日宣伝でヒスイ勲章も貰った国民党顧問のベイツが書くまでになる。

At this time of writing [march 31, 1938], we are connected by train, bus and merchant boat with Shanghai and it is said that 600 Japanese civilians including women and children are now here. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.345)

Nanking’s population has now come up to practically 400,000 (as compared with 250,000 in the Safety Zone period and just 1,000,000 before the war). Recent additions are largely refugees from the country, some of whom went there from the city in search of safety, but have now used or been deprived of all their money (and often of their clothes) in the precarious hinterland of guerrilas and punitive raids. (Miner Searle Bates, Eyewitnesses to Massacre, p.44)

ベイツは書く。「最近の帰還者は主に市外への避難者だ。(戦場となる)南京市から安全を求めて避難したにも拘らず、匪賊が過酷な取り立てを行う不安定な僻地で、お金を(そして多くの場合は着る物も)使い切ってしまったのだ。」

★中国の民衆が恐れていたのは、規律正しい日本軍でなく、寧ろ略奪する匪賊であり、戦時には撤退する中国兵の焦土作戦(三光作戦=全て焼き、奪い、殺し尽くす)であった。

★町に秩序を取り戻す日本軍の占領は、各地で歓迎されていた。

★南京は、陥落数日後には既に、大通りに難民による「泥棒市」が立って賑やかに混雑していた。(お人好しの日本兵がそのお客だった)

★難民は安全区に集中して居住しており、その安全区は日本軍が警備しているので匪賊の跋扈する城外よりも、遙かに安全だった。

安全区内での危険の全ては、難民に化けて敵対行動を続け、難民を襲ってその罪を日本軍になすりつけていた、便衣の敗残兵によるものであった。

その敗残兵が陥落時に安全区に入り込むのを黙認・或いは積極的に匿って安全区に(或る者達はなんと「武器格納庫」のある建物に)入れたのは、国際委員会の外国人達だった。

★東京裁判は中国人と、この国際委員会の外国人の言うことをろくに検証もせず、反対尋問による疑問点は全て無視して「南京虐殺」はあったことにした。

だが、東京裁判は松井石根大将が「『南京虐殺』を命令した事、認可したこと、許可した事」を証明できなかった。

松井大将は、「訴因54:残虐行為の命令・認可または許可」では不起訴になり、「訴因55:戦時国際法の徹底遵守・違反行為の防止義務の無視」、つまり「部下の監督不行届き」の罪で死刑になったのである。(他の訴因1、27、29、31、32、35、36;それぞれ「共同謀議」「中華民国・アメリカ合衆国・英連邦・オランダ・ソ連邦(張鼓峰事件・ノモンハン事件)に対する戦争の開始」も全て不起訴)

日本人が東京裁判史観から抜けきれないのは、東京裁判の実相を知らないからに他ならない。

「『南京大虐殺』が『中虐殺』だろうが『小虐殺』だろうが、『あった』ことには変わりない。」「証拠は山ほどある」と言う人は、本稿で挙げた一次資料を精読した経験がないのだろう。あれば恥ずかしくてそんなことは言えないはずである。

これらの本の序文、或いは裏表紙の「お勧めの言葉」などに、決まって「この本の中に『南京虐殺』の真実がある!」と書いてあるのは、実は「『南京虐殺』などなかった」という真実でしかないのだが、おそらく学者もジャーナリストも反日活動家も、「『南京虐殺』があった」という本が出ている、というそのことを以て「『南京虐殺』の証拠」としているのに違いない。序文や裏表紙だけを読んで、中身も読んだ気になっているのだろう。

「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍晋三首相と自民党政府にお願いしたい。

  • 日本の大学の法学部には、必ず国際法(平時・戦時)学科をおき、「東京裁判」「GHQ占領政策」研究室を設ける。
  • 法学部のある大学には必ずその図書館にR. John Pritchardの「 The Tokyo major war crimes trial: the transcripts of the court proceedings of the International Military Tribunal for the Far East」全124巻(速記録114巻とガイド10巻) を所蔵させる。
  • 「国際宣伝戦」についても大学に学部が欲しいところだが、(勿論、防衛大学には軍事情報学部が必須)少なくとも「東京裁判」「GHQ占領政策」とともに講座を設け、社会人も勉強し直せる体制をつくる。

学会もメディアも東京裁判史観で飽和している現状のままでは、いつまでたっても、国民はなぜ外国人がひそかに日本人を軽蔑しているのかが解らない。「一億総前科者」であるという事実を知らない。

彼らの日本人蔑視の理由をまず知る。そして、理論武装して反論する。論破する。

そして、連合国の誤謬を指摘する。徹底討論する。それで初めて、先の大戦の、本当の反省ができる。

「南京大虐殺」の嘘で、日本国民と中国の民衆との本当の友好が、破壊されている。

日中友好は、日中戦争で、日本軍が、もう成し遂げていた。そのことに気づくのが、「戦後レジーム」からの、本当の脱却の第一歩なのだと思う。

shanghai 1939 29 April
上海における天長節祝賀式場 1939年4月29日 『支那事変画報』昭和14年4月7日~5月3日

「日本人の魂の武装解除」:GHQ検閲リスト30項目で連合国が隠したかったこと

戦勝国アメリカは「封建主義によって抑圧された日本人を指導し、自由と民主主義への栄光ある道を歩ませる」と意気揚々と日本に乗り込んできた。「文明的支配者」として「野蛮な後進国・日本」を「調教」する為に、アメリカ占領軍はやってきた。

だが、実際にGHQが日本占領中に行ったことは、自らの戦争犯罪「無辜の非交戦者の非道な手段による殺害」=「人道に対する罪」を糊塗するために、検閲・洗脳を以て日本の歴史を捏造し、伝統を破壊すること、そして日本人が二度と米国と連合国に歯向かわないよう物理的・精神的に、永遠に武装解除することであった。

そのために占領軍はWar Guilt Information Programという洗脳工作を実施した。これは日本人に対するだけでなく、同時に国際社会に発信され、「世界のだれもがそう思っている」という相乗効果を生み、虚偽が事実として拡散された。

連合国は東京裁判で日本軍将兵・日本政府高官・官僚のみに留まらず、言外に日本人全体を犯罪者扱いし、「一億総前科者」の心理的刻印を押した。

GHQと極東委員会は、共産主義的国民主権を謳う日本国憲法を、天皇と日本政府・帝国議会の顔に押し付けるような非礼・無体なやり方で強要し、「徳の高い連合国に対し、道徳的最下層に位置する我々日本人は今後絶対に武器を取って歯向かうことはいたしません」と誓わせた。

連合国に対する反省と謝罪を永遠に続けるよう、「世界で一番立派な民主的進歩的平和憲法」を批判し捨て去ることは罪悪である、という教育を推進するため、破防法により収監中の共産主義者たちが釈放され、GHQ主導で日教組が組織された。

その他、占領軍が犯した諸々の日本に対する犯罪行為を隠蔽するため、GHQは自身が日本に押し付けた「日本国憲法」も禁止する「検閲」という言論弾圧を以てした。それは「プレス・コード」という、単なる「基準」のように錯覚する名で呼ばれたが、厳然たる言論弾圧であった。

以下に記すのが30項目に及ぶ「プレス・コード」=検閲の対象リストである。これを見れば、連合国が何を隠したがっていたのかがはっきりわかる。

  1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
  2. 軍事裁判(東京裁判)への批判
  3. SCAPが憲法を起草したことについての批判
  4. 検閲への言及
  5. アメリカ合衆国への批判
  6. ロシア(ソ連)への批判
  7. 英国への批判
  8. 朝鮮人への批判
  9. 中国への批判
  10. その他の連合国への批判
  11. (個々の連合国でなく)連合国全般への批判
  12. 満州における日本人の待遇への批判
  13. 連合国の戦前の政策への批判
  14. 第三次世界大戦への言及
  15. 西側世界対ロシアの問題(冷戦)に関する論評
  16. 直接・間接を問わず日本の戦争擁護のプロパガンダ
  17. 直接・間接を問わず日本と日本の天皇が神の子孫とその国であるというプロパガンダ
  18. 軍国主義的プロパガンダ
  19. 国粋主義的プロパガンダ
  20. 大東亜(共栄圏)プロパガンダ
  21. その他のプロパガンダ
  22. 戦争犯罪の正当化と戦犯の擁護
  23. (占領軍兵士と日本人女性の)交渉
  24. 闇市の状況
  25. 占領軍への批判
  26. (日本人の)飢餓の誇張
  27. 暴動・社会不安の扇動
  28. 虚偽の報道
  29. 不適切なSCAP(或いは地方軍政部)への言及
  30. 解禁されていない報道の公表

(The Censorship Operation in Occupied Japan  by Jun Eto; Press Control around the World  Edited by Jane Leftwich Curry and Joan R. Dassin 日本語訳: shiragamihiromi)

まずひと目見て判るのが、「日本が何故戦争へと向かって行ったか」や「日本の歴史・日本人のアイデンティティー」等に関する事柄は全て「プロパガンダ」と決め付けられている。

連合国や国際共産主義者は日本の「精神論」を毛嫌いしている。見下げている。怖がっている。それが日本の強さの源泉と解っているからだ。

その中心に在るのが天皇である。だからこそ、天皇の求心力を殺ぐ為に帝国憲法を、国際法を曲げてまでも始末しようとした。

連合国占領軍がした事が本当に「自由と民主主義の教導」であったのなら、このような言論弾圧が必要だったはずはない。

「日本国憲法」が本当に「日本人自らの意思で、帝国憲法を改正したもの」であったなら、「SCAPが『日本国憲法』草案を起草したことへの批判」を検閲で握りつぶす必要はなかった。

GHQは憲法草案の起草だけでなく、帝国議会議員選挙も統制し、また20万人(その家族を入れると100万人)が路頭に迷った「公職追放」で議会を脅迫した。

GHQは憲法「改正」と偽った「国体変更強要」が純然たる国際法(1907年ハーグ陸戦法規第43条 被占領地の法律尊重、占領中の法規改廃の禁止)違反であると知っていた。「日本人を奴隷にするものではない」とするポツダム宣言にも違反している。

そのポツダム宣言は「GHQの言うことを聞かねば原爆で日本全体が焦土と化す」とあからさまな脅しをかけていた。

占領政策の全ては、無知と曲解、捏造と欺瞞、謀略と暴力で成り立っていた。それを正当化する為の装置である「日本国憲法」は日本国民を騙しながら成立し、戦後70年を経た今でも多くの国民はその事実を知らされていない。

占領政策について少しでも調べたことのあるものなら、検閲と言う言論弾圧と洗脳を組み合わせたWar Guilt Information Programがいかに効果的に「日本人の魂の武装解除」を遂行したかに戦慄するだろう。

恐ろしいのは、占領が終わって60年以上が経過した今も、GHQの洗脳教育で育った世代が各界において自主検閲に勤しみ、戦前の日本を否定することを正義と感じるよう若い世代を教育し、先の戦争に関する「真実の探究」は悪魔の所業かのように宣伝している事である。

連合国も、学究派の真実追究を「歴史修正主義」というレッテル貼りで常に牽制している。上記検閲リストに見る「プロパガンダ」抑圧と同じ構造である。

イラク戦争終結の折、ブッシュ米国大統領は「イラク占領は『GHQ方式』でやる」といっていた。被占領国の国民を日本人のように洗脳するというのだろうか、と心配した事を思い出す。実際にどのような占領政策がとられたのかは知らない。が、日本占領が日本人に及ぼした影響、民族精神の衰退、国家の命運にまで甚大な影響を与えている、という事実を国際社会に周知することは、唯一の被爆国であるうえに、唯一の「国家ぐるみの洗脳実験体」となった国家としての、日本国の義務であると思う。

「一億総前科者」、もうやめませんか?

日本人が如何にのほほんと平和に過ごしていようがお構いなく、世界の人々は「日本は第二次世界大戦でアジアを侵略した。アジア人女性を拉致して性奴隷にした」と思っている。学校の授業で中高生にそう教えている。

世界の人々にとって、日本人は「今は更生した残虐非道な前科者」なのだ。

日本人は御人好しだから「気にしない」で済むと思うかもしれない。だが、大半の日本人が知らないうちに着せられている「道徳的下層民族」の汚名は、未来永劫・子々孫々日本人について回るのである・・・日本人が自ら声をあげて「私達は犯罪者ではない!」と言わない限り。

日本が現在その「道徳的・政治的最下位」に置かれている所謂「戦後レジーム」の役割というのはつまり、

「第二次世界大戦の戦勝者である連合国(特に国連安全保障理事会常任理事国・米英仏ロ中)が、永遠に『戦勝国』という特権階級に収まり他国を収奪したい。その為には、大戦中彼らの植民地を解放する等してその邪魔をした日本は『己の犯した罪を反省しない前科者』として永遠にその『罪科』を忘れぬよう釘を刺し続けなければならない」

ということである。だがその日本が犯したという「罪科」とは何か?日本は本当にそんな罪を犯したのか?答えは「否」である。

ナチスは戦争と関係ないところでホロコーストという民族浄化政策を行い、主としてその罪をニュルンベルク裁判で裁かれ、「人道に対する罪」によって12人が死刑、7人が終身禁錮刑となった。(注;無罪放免も3人) ここで特筆すべきは、ドイツは国家としては裁かれていない、ということである。裁かれたのはあくまでもナチス、ゲシュタポ(秘密警察)、ナチ親衛隊、保安隊という犯罪団体のみである。翻って・・・

東京裁判によって連合軍は日本国を、一般市民さえ含めた「全体として」裁いた。

「日本軍の中国大陸における最悪の所業」といわれる『南京大虐殺』を例にとろう。

中支那方面軍を率い南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、東京裁判で『南京大虐殺』の責を問われた。訴因は以下の二つ。

訴因54:残虐行為の命令・認可または許可

訴因55:戦時国際法遵守と違反行為防止の徹底不行届

松井石根大将は、他の訴因(米英蘭支ソへの戦争行為)とともに 「訴因54:残虐行為の命令・認可または許可」では不起訴になった。

東京裁判は、日本軍当局が『南京大虐殺』を命令したことを証明できなかったのである。

にも拘らず、松井大将は「訴因55:戦時国際法遵守と違反行為防止の徹底不行届」で有罪とされ死刑になった。東京裁判の冒頭陳述で日本の行為を「文明に対する挑戦」と呼んだ主席検察官ジョゼフ・キーナンですら、『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と憤ったという。

軍当局からの命令の事実が無かったとなれば、それはつまり『南京大虐殺』は松井大将の部下の「兵隊達が勝手にやった」ということになり、中国共産党が日本の世論分断の為よく使う「二分論」=「日本の中国侵略は支配階級である軍国主義者・帝国主義者の仕業であるから、日本軍の下級兵士は上官の命令に従っただけで、一般の日本人や中国人民と同じ被害者である」を完全否定している。

東京裁判は「『南京大虐殺』は支配層の日本軍国主義者でなく普通の日本人である兵隊達がやった」といっているのだ。

では、『南京大虐殺』はあったのか?

否、『南京大虐殺』などなかった。『バターン死の行進』も『田中上奏文』も『満州事変』も『中国侵略』も、東京裁判でその存在が証明されることはなかった。つまり、プロパガンダであった。

連合国は占領中、日本を「巨大な捕虜収容所」(マッカーサーの言)に変え、緻密な検閲による完全な言論統制を敷いたうえで、直接統治・公職追放・戦犯裁判の恐怖で天皇及び日本政府以下全ての日本人を強圧下におき、日本の歴史・文化・伝統の全てを否定し、東京裁判で連合国が決めた「日本人の犯罪」をWar Guilt Information Program という洗脳によって信じ込ませ、「自分達は犯罪者だから連合国の定めた憲法によって永久に武力を放棄せねばならない」として、明治維新の独立自尊の憲法である大日本帝国憲法を『日本国憲法』というものに『改正した』と騙した。

これは新しいタイプの「植民地経営」である。

日本国は独立しているようで独立出来ていない。自由に泳ぎ回っているようで、実は連合国の「戦後レジーム」という名の水槽の中で生殺与奪の権を握られているのだ。

この状況を打破し「戦後レジーム」から脱却するために必要なことは以下の通り。

1. 『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認・大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認

2. 東京裁判・『太平洋戦争史』への反論

3. 大東亜戦争と大東亜共栄圏の真実を周知

4. 以上の国民運動による推進

要するに、日本人が知らされていない事実・歴史の真実を、国民全員で取り戻そう、という話である。大日本帝国憲法現存確認によって、自衛隊は自動的に「国防軍」になり、「スパイ防止法」も「緊急事態法」も帝国憲法に準じて用い適時改正すれば足りる。

何より、日米同盟は対等化に向かい、日本の制空権問題集団的自衛権問題も解決する。

領土問題拉致問題も遙かに容易に対処・解決できるようになる。

生け簀の魚が飛び出して大海に戻ってしまえば、それは魚屋は怒るであろうが、魚にも元の棲み家の大海で泳ぎ回る権利があろう。

日本が真実を突きつけて困るのは、日本軍の援助によって独立した東アジアの植民地の宗主国達、極東の地に暗躍し日本を戦争に引きずり込んだ共産主義者達・・・。70年もの長きに亘って洗脳下にあった日本人は「アメリカが許さない」「中国との関係が悪化する」と真の独立を掴むのに二の足を踏むかもしれない。

だが、連合国が第二次世界大戦の開戦責任数世紀に亘る過酷な植民地政策、そして日本への占領政策の違法性を反省しないなら、国際社会に明るい未来はない。旧連合国による国際法の濫用、悪用、蹂躙と、国際機関の私物化・宣伝活動を指摘・糾弾しないなら、世界はテロや戦争を根絶する討議の席すら設けることを得ず破滅するだろう。

この問題は日本の誇りと誠の問題であり、同時に世界平和への希求の問題なのである。

(2017年10月9日、旧題「日本は侵略国家ではない。東京裁判を見直し、大東亜戦争の真実を、日本の誇りを、取り戻す。」を改題しました。)