フィリピン人「元慰安婦」の語る「性奴隷(?)生活」……「見張り」の日本兵は一人だけ、そしていつも慰安婦の代わりに四つん這いになって床をゴシゴシ掃除してくれた……。

マリア・ロサ・へンソン “Comfort Woman: A Filipina’s Story of Prostitution and Slavery Under the Japanese Military” を読む

maria rosa henson

兵隊さん達が毎朝の体操の時いつも「見よ東海の空明けて!」と叫んだとか、終了後には「万歳三唱」したとか、またヘンソンさんが「強制連行」されたのち無理やり「慰安婦」にさせられたという「慰安所」が「日本軍司令部の2階」にあったとか、少々不思議な記述にも出くわすが、まっさらな気持ちで読めば、1943年当時のフィリピンでの慰安所の様子がわかって興味深い。

ヘンソンさんは当時、フィリピン最大級の反日共産ゲリラ、「フク」の一員として医薬品や武器・弾薬を密輸送する役目を果たしていた。ヘンソンさんの村は丸ごとゲリラ或いは親ゲリラであり、「フク」のリーダーはヘンソンさんの母親の従兄弟であった。へンソンさんは1943年4月、 (「知らずに」とへンソンさんは言うが) トウモロコシの袋に隠した銃や弾丸を牛車に乗せて、ゲリラのアジトに運んでいて日本軍の検問に引っかかった。

へンソンさんは「検問は無事パスしたかに見えたが、呼びとめられて一緒にいた男の人は帰され、私だけ日本軍の『司令部』に連れて行かれた」という。

「尋問された」「拷問された」とへンソンさんは言うが、ゲリラの疑いをかけられていたのならそれは当然尋問するだろう。「拷問」「強姦」に関しては、日本軍に敵対していた共産ゲリラであるから、共産主義者の常套手段である「プロパガンダ」の線は常に疑ってかからなければならない。

とにもかくにも、このケースを「強制連行」「集団強姦」「性奴隷」として見ようとするには、矛盾が多過ぎる。例えば、

  • へンソンさんは「司令部の2階」で「午後2時から10時まで」「外で順番待ちする兵隊に」「強姦された」といっているが、毎回終了後は「熱いお湯で局所を洗い」「毎週水曜日に日本人軍医が検診に来た」「時々はフィリピン人の医者も来た」「生理の時には4・5日休みをもらえた」とも言っている。
  • 食事は一日三食。ご飯と黒豆、たくあん。時々茹で卵。小さなフライド・チキンがつくこともあった。時々黒砂糖の塊がもらえた。「私はそれをキャンディのようにしゃぶったり、ご飯にまぜたりした。すごくうれしかった。私はそれを自分の部屋に取っておいた」
  • 「見張りの兵隊」は「私達が欲しい時はいつでもお茶を持ってきてくれた」「お茶で顔を洗うとすべすべになるよと教えてくれた」「彼は(そこにいた7人の)全ての女達に優しかった」「朝食後はいつも部屋の掃除をしたが、彼は時々手伝ってくれた。ベッドをきれいに直し、床を消毒薬でゴシゴシ拭いてくれた。」
  • 新しく来た「タナカ大尉」はへンソンさんに「2年前フォート・マッキンリーで会ったことがあった」(慰安所か?だがへンソンさんは「2年前に『強姦された』人だ」という)「前に会ったことがあったね」といって、「タナカ大尉」はへンソンさんに優しくしてくれた。よく話すようになり、へンソンさんを「バラ(ロサ)」と呼んだ。病気になった時には自分の部屋にへンソンさんを寝かせ、薬を飲ませてくれた。上司の大佐がそれを知り、その日は休んでよいと言ってくれた。

「タナカ大尉」はへンソンさんに日本語も教えてくれ、とても優しかった。へンソンさんはその後自分の娘や孫にも「タナカ大尉」の話をした。彼女らはへンソンさんの事を本名のロラ・ロサでなく「ロラ・バラ」と呼んだ。どうみてもロマンティックな関係だったとしか思えない。

その「タナカ大尉」もある日の朝(営業時間外に)へンソンさんを急に抱き締め、「レイプ」し、「ありがとう」と言って去った。この描写はまるで恋人同士の逢引のようだが、へンソンさんは「レイプ」だったと強調する。

ヘンソンさんの母の、金持ちの地主ドン・ぺぺによる強姦被害、その結果としてのヘンソンさんの私生児としての辛い少女時代はこの上なく悲惨な身の上だ。日本兵に輪姦されたのも気の毒だ(本当なら)。

しかし、副題 [A Filipina’s Story of Prostitution] がいみじくも言うように、「慰安所」での体験はヘンソンさんが言うような「強姦」ではなく、「売春」だったのではないか?

1945年に、同じ共産ゲリラであり、その父も共産ゲリラで日本軍に殺されたというドミンゴから結婚の申し込みを受けたとき、日本兵に「強姦」されたことは打ち明けても「慰安婦」になったことだけはどうしても言いたくなかったのは、そのせいではないだろうか?

「セカンド・レイプ」だと非難されそうだが、これだけ不審な点が揃えば、鵜呑みにする前にまず検証してみるべき、と主張することは常識の範囲であろう。

ちなみにこの本が出版される2年前ヘンソンさんは民間支援団体から一時金として百万円もらっているが、そのことに言及はない。

この本の前書きを、南京大虐殺ものや「日本軍の太平洋戦争における悪行」ものでも有名なYuki Tanaka氏が書いている。へンソンさんのこの本はマニラを本拠地とするNGOのAsian Women Human Rights Councilや、Task Force on Filipino Comfort Womenなど左翼活動家集団の支援によって作られた。

慰安婦の強制連行・性奴隷状態を証明し、旧日本軍の罪を裁くのなら、彼らはまず「被害者の言うことは100%正しい」「検証の必要もない」という思い込みを捨て、へンソンさんの供述が完全に正しいことを証明しなければならない。

(2016年10月10日編集)

「慰安婦『強制連行・性奴隷』説」は完全に破綻している__慰安婦には「職業選択・廃業・外出・外泊の自由」があった。__唯一客観的に検証された朝鮮人元慰安婦・文玉珠の体験記を精読する①

慰安婦募集記事 良

「慰安婦急遽大募集」「『軍』慰安婦急募」

この募集広告をみて「カフェのウェイトレスの仕事だ」と勘違いするほど世間知らずの女性は、そうはいないだろう。なにしろ約束された給料は「月収三〇〇円以上(前借三〇〇〇円許可)」、朝鮮半島では女性の月収20円の時代に、である。(右側写真『京城日報』1944年7月26日付広告)

日本では公娼制があり(1958年全面廃止)、旱魃等に見舞われた貧しい農村部での娘達の「親孝行」の手段としての身売りは珍しいことではなかった。

ビルマ戦線楯師団の慰安婦だった私大東亜戦争当時、大日本帝国の一部であった朝鮮半島、大邱出身の文玉珠(ムン・オクチュ)も、両親が両班(ヤンバン、李氏朝鮮の貴族・支配階級)ながら、父が亡くなった後の食うや食わずの貧乏暮しに耐えかね、子供時代から「キーセン(妓生)になって、歌や踊りをじょうずにすれば金持ちになれる」と考えていた。「そのころは、女が金を稼ごうと思ったら、家業を手伝うか、このキーセンになるか、それとも身を売る女郎になるくらいしか方法はなかった」からである。

金を稼ぐため」、文玉珠は年若い時から3度、母親にも内緒で故郷を離れ働きに出ている。

文玉珠の「ビルマ戦線楯師団の『慰安婦』だった私」は、河野談話の根拠となった元慰安婦たちの証言の中で、唯一客観的検証がなされている、希少で詳細な、重要証言である。

文玉珠を1992年から3年半インタビューした森川万智子は、ビルマでの現地調査で、オクチュが「慰安婦として属していた」楯師団及び慰安所「オトメ」を知る、現地人協力者(通訳)のウ・サンぺ氏や朝鮮人慰安所経営者朴氏の証言などから、文玉珠の証言の裏付けをとった。

この資料こそを、外務省は「慰安婦合意」の際提示すべきであった。

何の検証もされていない北朝鮮の「元慰安婦」の、「日本兵は強姦して殺した慰安婦を煮て食べた」などと言う荒唐無稽な証言や、それに全面的に依拠して書かれた『クマラスワミ報告』をきちんと否定せず、「性奴隷」「強制連行」を国際社会に定着させた「日韓慰安婦合意」は、日本軍将兵と日本の名誉を棄損し、日本人全ての人権を侵害している。

以下は「ビルマ戦線楯師団の『慰安婦』だった私」から抜粋した、文玉珠の三度の「慰安所」体験の顛末である。

日本軍の「強制連行」「性奴隷」の罪の挙証たりうるか、よく考えながら読んでほしい。

1.朝鮮人夫婦に「学校に行かせる」「嫁に出す」と言われて大牟田で「子守に」

  • 一度目は12歳のとき。九州の大牟田で料理屋をしているという朝鮮人夫婦が家に訪ねてきて「商売が繁盛していて人手が足りない。子守に来てくれれば学校にもやってゆくゆくは自分の家から嫁にも出してやる」と申し出た。母は「行くな」とだけ言った。オクチュは「食べるものも満足に無い家にいるのはごめんだった」ので、釜山の役所に一人で行って「大人びた言葉遣いをして」年上に見せてまで、日本行きの許可を貰った。結局そこは、日本人経営の遊郭街にある、唯一つの朝鮮人経営の、日本人の芸者が来て働く売春宿であると判明。13歳のとき、何年か後には自分も身を売らされると知って貯金を持って逃げて帰る。

2.日本人と朝鮮人の憲兵二人と朝鮮人の刑事に道で呼び止められてそのまま満州へ

  • 二度目は16歳のとき。歩いて20分のところにある朝鮮人の友人アライハルコの家に遊びに行った帰りに、日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事に「ちょっとこい」と呼びとめられ、憲兵の詰め所に連れて行かれる。事務所の椅子に座らされ「住所、名前、家族」の事を聞かれた。刑事達はあちこちに電話していた。そのまま椅子に座ってうたた寝しながら夜を明かした。翌朝もう一人の朝鮮人少女と共に汽車に乗せられ、丸三日かかって満州北部の東安省(トアンショウ)へ。中国側国境の安東(アンドン)ではパスポートもなかったが、「見張り」の日本人憲兵と朝鮮人刑事、中国人警官が話をつけ、何事もなく通過できた。朝鮮人の主人のいる「グンポール」という名の「慰安所」に着き、オクチュと同じく朝鮮・大邱からきた20人ほどの女達と日本兵相手の「慰安婦」に。17歳になり、煙草を吸い酒を飲むようになり、心が荒んでいく。オクチュを特別に可愛がってくれている、帰省許可証明書を発行する権限を持つ憲兵に「母が病気だから大邱に帰って看病したい」と嘘をつき、証明書を発行してもらう。肺病を病んだ二人と仮病を使った一人と4人で列車に乗った。「兵士に貰った天皇陛下の菊のマーク付きの煙草をふかし、大声ではしゃいで笑いながら」旅していると、憲兵がしょっちゅう見回りに来る。仮病の女はばれて連れ戻された。安東(アンドン)あたりでオクチュも逃亡を疑われ詰め所に連れて行かれるが、「目の澄んだ」若い日本人憲兵が自分の家に連れ帰り、1週間一緒に過ごすことで見逃してくれた。

3.満州の慰安所で一緒に働いた友達の朝鮮人姉妹に誘われてビルマに

  • 三度目は18歳のとき。普通は3年かかるキーセン学校を1年半で修了し、お座敷やヌードモデルを経験したのち、「トアンショウのグンポールで働いたときの友達で、その時は近所に住んでいた」朝鮮人・ヒトミとキファの姉妹が「日本軍の食堂に働きに行こうよ、金もうけができるよ」と誘いに来たのだ。「その頃は、朝鮮人もみんな先を争って軍属になりたがっていた。」「軍隊の食堂で給仕か皿洗いをすれば、決まった収入があって、母に少しは仕送りできるかもしれない。キーセンよりは絶対に堅実な仕事だ。」「二日後、母には言わず、ヒトミとキファと三人で列車で釜山に向かった。いえば反対されるにきまっている。」指定された旅館に行ってみると、トアンショウで一緒だった別の二人の友達、アキミとヒフミがいた。奇遇を喜び合った。顔見知りのマツモトという朝鮮人の男と60歳過ぎの朝鮮人の男とその甥の三人が引率をした。1942年7月10日、釜山の軍専用の岸壁から150人から200人ほどの娘達(15~20人くらいに一人か二人、マツモトのような中年男がついていた)と、他に商売人のような朝鮮人の男女数十人、日本の娘5,6人、軍人6人と一緒に南洋へ向かった。船酔いに苦しむ他の女達を助けながら台湾(台湾バナナを初めて買って食べる)、シンガポール(3,4時間上陸して辺りを見学)からビルマ・ラングーンへ着いたのは2カ月後。オクチュ達マツモト・グループはマンダレーへ行くことにくじ引きで決まり、兵隊の運転するトラックで将校1人、下士官1人とともに移動。マンダレーでは庭付きの、高床式の大きな木造民家。翌朝軍人たちが大工道具を持ってきて「アッと言う間に器用に」大きな部屋を半分に仕切って部屋数を多く作り直した。その中に朝鮮人兵士がおり「だまされたんだなぁ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ」と教えてくれた。娘達は仰天し、泣いたが、オクチュは「驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうか、と妙に納得した」。マツモトは泣いている娘達に「軍人の相手をすれば金になるのだから我慢して働くこと、軍人は切符を持ってくるからそれを受け取って、一日分ずつを自分に渡すこと、朝鮮に帰るときに切符を合計した額を四分六に分けて、六分をわたしたちに渡すからしっかり働くように、等と説明した。」「まだ泣いている娘もいるけれど、わたしはもう泣かなかった。いくら泣いても同じだという事はわかっている。」「ああ、ここで戦争をやっているんだな、だから軍人たちの為に慰安所があるんだな、と思った。」

この三度の体験のうち、最初と最後は文玉珠自身の意思で行ったことが明白である。最後は「食堂で働く」と言う嘘には引っ掛かったが、オクチュもいうように、薄々気づいていたのだ。誘ってきた友人も「慰安所」経験者であり、その手口に全く不慣れなウブな娘たちではない。

問題は「憲兵たちに道で呼び止められて連れて行かれた」=「連行」という体をとっている二度目のケースだが、

  1. 「連行」=「誘拐」ならば、「憲兵隊の詰め所で『住所・名前・家族』について聞かれ、女の子たちを椅子に座らせたまま、憲兵たちはあちこち電話連絡していた」事の説明がつかない。(ケース3のときに、ヒトミとキファ姉妹について「トアンショウで『働いた』時の友達」と説明している。)
  2. 最初から最後まで、賢く、機転が利き、度胸もあるオクチュが逃げる努力をしている様子も、憲兵側が二人の少女が逃げないよう監禁・監視している様子もない。
  3. 「病気の母の看病のため帰郷したい」という希望は「オクチュを可愛がってくれていた憲兵」によって簡単に叶えられた。オクチュは他の3人の慰安婦仲間と一緒に堂々と列車に乗り「煙草をふかし、はしゃいで笑い」他の乗客から奇異の目で見られている。

つまり、オクチュは憲兵によって「連行」されたのではなく、「契約によって働いていた」のであり、「休暇を取る許可をもらって」慰安所を脱け出し、二度とそこへ帰るつもりはなかった。

オクチュら慰安婦は「外出・外泊の自由」「廃業の自由」があり、外泊許可をもらってそのまま慰安所に帰らない慰安婦を、日本軍はそれと知りつつ見逃してやっていた。

娼婦稼業という「醜業」を、「お金のため」と割り切って、逞しく働く慰安婦と、それを寧ろ優しい眼差しで見つめる日本兵の姿が、ここにはある。

 

(この文章は、2016年9月11日に一部改訂、2017年8月14日に改題しました。)

 

「一億総前科者」、もうやめませんか?

日本人が如何にのほほんと平和に過ごしていようがお構いなく、世界の人々は「日本は第二次世界大戦でアジアを侵略した。アジア人女性を拉致して性奴隷にした」と思っている。学校の授業で中高生にそう教えている。

世界の人々にとって、日本人は「今は更生した残虐非道な前科者」なのだ。

日本人は御人好しだから「気にしない」で済むと思うかもしれない。だが、大半の日本人が知らないうちに着せられている「道徳的下層民族」の汚名は、未来永劫・子々孫々日本人について回るのである・・・日本人が自ら声をあげて「私達は犯罪者ではない!」と言わない限り。

日本が現在その「道徳的・政治的最下位」に置かれている所謂「戦後レジーム」の役割というのはつまり、

「第二次世界大戦の戦勝者である連合国(特に国連安全保障理事会常任理事国・米英仏ロ中)が、永遠に『戦勝国』という特権階級に収まり他国を収奪したい。その為には、大戦中彼らの植民地を解放する等してその邪魔をした日本は『己の犯した罪を反省しない前科者』として永遠にその『罪科』を忘れぬよう釘を刺し続けなければならない」

ということである。だがその日本が犯したという「罪科」とは何か?日本は本当にそんな罪を犯したのか?答えは「否」である。

ナチスは戦争と関係ないところでホロコーストという民族浄化政策を行い、主としてその罪をニュルンベルク裁判で裁かれ、「人道に対する罪」によって12人が死刑、7人が終身禁錮刑となった。(注;無罪放免も3人) ここで特筆すべきは、ドイツは国家としては裁かれていない、ということである。裁かれたのはあくまでもナチス、ゲシュタポ(秘密警察)、ナチ親衛隊、保安隊という犯罪団体のみである。翻って・・・

東京裁判によって連合軍は日本国を、一般市民さえ含めた「全体として」裁いた。

「日本軍の中国大陸における最悪の所業」といわれる『南京大虐殺』を例にとろう。

中支那方面軍を率い南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、東京裁判で『南京大虐殺』の責を問われた。訴因は以下の二つ。

訴因54:残虐行為の命令・認可または許可

訴因55:戦時国際法遵守と違反行為防止の徹底不行届

松井石根大将は、他の訴因(米英蘭支ソへの戦争行為)とともに 「訴因54:残虐行為の命令・認可または許可」では不起訴になった。

東京裁判は、日本軍当局が『南京大虐殺』を命令したことを証明できなかったのである。

にも拘らず、松井大将は「訴因55:戦時国際法遵守と違反行為防止の徹底不行届」で有罪とされ死刑になった。東京裁判の冒頭陳述で日本の行為を「文明に対する挑戦」と呼んだ主席検察官ジョゼフ・キーナンですら、『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と憤ったという。

軍当局からの命令の事実が無かったとなれば、それはつまり『南京大虐殺』は松井大将の部下の「兵隊達が勝手にやった」ということになり、中国共産党が日本の世論分断の為よく使う「二分論」=「日本の中国侵略は支配階級である軍国主義者・帝国主義者の仕業であるから、日本軍の下級兵士は上官の命令に従っただけで、一般の日本人や中国人民と同じ被害者である」を完全否定している。

東京裁判は「『南京大虐殺』は支配層の日本軍国主義者でなく普通の日本人である兵隊達がやった」といっているのだ。

では、『南京大虐殺』はあったのか?

否、『南京大虐殺』などなかった。『バターン死の行進』も『田中上奏文』も『満州事変』も『中国侵略』も、東京裁判でその存在が証明されることはなかった。つまり、プロパガンダであった。

連合国は占領中、日本を「巨大な捕虜収容所」(マッカーサーの言)に変え、緻密な検閲による完全な言論統制を敷いたうえで、直接統治・公職追放・戦犯裁判の恐怖で天皇及び日本政府以下全ての日本人を強圧下におき、日本の歴史・文化・伝統の全てを否定し、東京裁判で連合国が決めた「日本人の犯罪」をWar Guilt Information Program という洗脳によって信じ込ませ、「自分達は犯罪者だから連合国の定めた憲法によって永久に武力を放棄せねばならない」として、明治維新の独立自尊の憲法である大日本帝国憲法を『日本国憲法』というものに『改正した』と騙した。

これは新しいタイプの「植民地経営」である。

日本国は独立しているようで独立出来ていない。自由に泳ぎ回っているようで、実は連合国の「戦後レジーム」という名の水槽の中で生殺与奪の権を握られているのだ。

この状況を打破し「戦後レジーム」から脱却するために必要なことは以下の通り。

1. 『日本国憲法』とGHQ『皇室典範』の無効確認・大日本帝国憲法と明治の皇室典範の現存確認

2. 東京裁判・『太平洋戦争史』への反論

3. 大東亜戦争と大東亜共栄圏の真実を周知

4. 以上の国民運動による推進

要するに、日本人が知らされていない事実・歴史の真実を、国民全員で取り戻そう、という話である。大日本帝国憲法現存確認によって、自衛隊は自動的に「国防軍」になり、「スパイ防止法」も「緊急事態法」も帝国憲法に準じて用い適時改正すれば足りる。

何より、日米同盟は対等化に向かい、日本の制空権問題集団的自衛権問題も解決する。

領土問題拉致問題も遙かに容易に対処・解決できるようになる。

生け簀の魚が飛び出して大海に戻ってしまえば、それは魚屋は怒るであろうが、魚にも元の棲み家の大海で泳ぎ回る権利があろう。

日本が真実を突きつけて困るのは、日本軍の援助によって独立した東アジアの植民地の宗主国達、極東の地に暗躍し日本を戦争に引きずり込んだ共産主義者達・・・。70年もの長きに亘って洗脳下にあった日本人は「アメリカが許さない」「中国との関係が悪化する」と真の独立を掴むのに二の足を踏むかもしれない。

だが、連合国が第二次世界大戦の開戦責任数世紀に亘る過酷な植民地政策、そして日本への占領政策の違法性を反省しないなら、国際社会に明るい未来はない。旧連合国による国際法の濫用、悪用、蹂躙と、国際機関の私物化・宣伝活動を指摘・糾弾しないなら、世界はテロや戦争を根絶する討議の席すら設けることを得ず破滅するだろう。

この問題は日本の誇りと誠の問題であり、同時に世界平和への希求の問題なのである。

(2017年10月9日、旧題「日本は侵略国家ではない。東京裁判を見直し、大東亜戦争の真実を、日本の誇りを、取り戻す。」を改題しました。)

 

1940年10月7日付け、マッカラム覚書『日本に最初の一撃を撃たせる』ための8項目の提案。『経済制裁は戦争行為』であり、『侵略』したのは米国の方だった。

アンチ「ルーズベルトの対日開戦陰謀論」半藤一利著『「真珠湾」の日』を読む

 

「あの時代の日本と日本人の行動や感情や心理を、できる限り丁寧に描き出そう」とした著者の意図は、成功していると思う。しかし、「Day of Deceit」のスティネットが発掘した『対日開戦促進計画』文書の価値を、「何でいまさら」の一言であっさり片付けたことには首をかしげる。

日本に勝算の無い戦争を始めさせた直接の原因の一つ、ABCD包囲網を「日本を『挑発して』あからさまな戦争行動を『先に』起こさせるための計画」の一環として提示したこの文書は、「ルーズベルトのお気に入り」海軍情報部極東部長マッカラムによって書かれた物である。

チャーチルの要請を受けてヨーロッパ戦線に参戦したいが、「戦争はしない」とした選挙公約の手前、日本に第一撃を打たせて国民を説得する必要がある、とルーズベルトが考えていたことを傍証する政府・軍関係者の証言はいくらもある。その点「何をいまさら」なのは本当だが、半藤氏が『この文書が対日参戦への許しがたいシナリオとは到底思えない。』というのは的外れだ。なぜなら、この文書が証明するものは、そこにはっきりと書かれているとおり、「日本を『挑発して』戦争行為を起こさせる」意図とそれを実行に移す意思が米国にあった、ということである。

すなわち、真珠湾奇襲によって確かに日本は戦争を「始めた」が、それは「挑発されない戦争行動」、即ち東京裁判が断定したような、国際法上に言うところの「侵略戦争」ではなかった、ということに他ならない。

スティネット本は2万以上に及ぶ、反論不能なほどに出所の明確な政府内資料とインタビューによって構成されている。(日本語版はどうか知らないが、英語版には百ページ以上の詳細なリストが巻末にある。)半藤氏がうそぶくように「確証の無いこと」などではないのだ。

日本に有利な新情報が出る度に『陰謀説』『リビジョニスト』のレッテルを貼って鼻で笑って無視するような態度もいい加減にしたらどうかと思う。

米国側の行為は単に「日本を経済的に窮地に追い込み、『先手必勝』に賭けさせ最初の一撃を打たせた」だけではない。ルーズベルトは1919年に立案された対日戦争計画「オレンジ」に則って、彼の所謂「日本の『宣戦布告せず交戦する技術』」に「宣戦布告せず経済制裁する技術」を以て対抗した。

  • 1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」
  • 1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告
  • 1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
  • 1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効
  • 1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
  • 1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
  • 1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
  • 1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
  • 1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令
  • 1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

(「ABCD包囲網」Wikipediaより)

明治維新以来、欧米列強に対抗する為の「富国強兵」策の地盤固めとして欠かせなかった重工業の継続的発展が、これら一連の禁輸措置によって「停滞」するどころか、「日本に1000万人から1200万人の失業者を生じさせるおそれがあった」(1951年5月3日、米国上院軍事外交共同委員会におけるマッカーサー証言)すなわち、

「日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(Security)によるものだった」(同上)

「日本のアジアでの戦争は『パリ不戦条約』違反の侵略戦争」とカン違いしている左翼の御仁が多いが、不戦条約=ケロッグ・ブリアン協定の一角である米国国務長官ケロッグは、米国議会上院の不戦条約批准の是非を巡る討議(1928年12月7日)に於いて、

「経済封鎖は戦争行為そのもの」と断言した。

また、不戦条約では「その戦争が自衛かどうかを決定するのは各国の判断に委ねる」としており、日本が「大東亜戦争は自衛戦争であった」、或いは「大東亜全域の欧米列強の侵略・植民地化に対する集団的自衛権の行使だった」と事実を述べることに対して反論する権利は本来どの国にも無いはずである。

侵略国は米国の方だった。

70年前の一つの戦争における「戦勝国」という地位を限りなく拡大解釈し、国連安保理常任理事国という独裁的地位に居座り、民主的淘汰を「拒否権」によって拒絶する5人のギャング達に、その事実を認めさせ、国際社会を「人治」から「法治」に変える。世界の平和はそのことによってしかもたらされないであろう。

325機のB29爆撃機が投下した、36万1855発のナパーム弾により、26万7171軒の建物が消失、100万8千人がホームレスに。8万3793人が死亡、4万918人負傷。1945年3月10日夜の東京大空襲。

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『東京大空襲―B29から見た三月十日の真実』を読む

東京大空襲

著者・E.バートレット・カーは、朝鮮戦争にも従軍経験のある戦史家である。元軍人らしい緻密で正確な描写で、1945年3月10日の東京大空襲とそれに至るナパーム弾M-69や戦略爆撃機B-29の開発過程、爆撃作戦の立案と遂行という「報告書」を作成した。

M-69が如何に日本中を火炎地獄に陥れるのに効果的であるかの説明はもちろんのこと、この都市爆撃案を支持していたのが軍人ではなく、NDRC(国家防衛調査委員会)やCOA(作戦分析者委員会)の顧問等民間人であった、という事実に戦慄した。グアムの基地の病院に新鮮なミルクを提供するため乳牛数十頭を本土から運ぶとはさすが物量のアメリカ、等と感心しているどころではない。

訳者の計算によると、東京大空襲における「焼夷弾の雨」とは、36万1855発のナパームが325機のB-29から2時間15分に亘って降り注いだものだそうだ。一夜にして26万7171件の建物が焼失、100万8千人の家が奪われ、8万3793人が死亡、4万918人が負傷したことを思えば、2時間15分「も」なのか「たった」なのか、言葉を失う。合掌。