「『南京大虐殺』の虚構」の完全証明 ①東京裁判と「南京安全区国際委員会」そして南京の人口

東京裁判の記録と1937年当時の同時代一次資料で、「『南京虐殺』など無かった」と証明できるにも拘らず、左翼反日プロパガンダを公式に排すべき立場にあるはずの文科省、外務省が、未だに「南京虐殺が在ったのは事実。問題は被害者の人数だけ」と思い込んでいる。日本の知識階層のエリートであるはずの彼らが、「南京事件」など代表的な反日プロパガンダの学術的な検証を放棄している。だが、そこを指摘できない政府の不勉強は不問に付して良いのか?

2016年度教科書検定に於ける「南京事件」「慰安婦問題」「中国人強制労働」「関東大震災時の朝鮮人虐殺」で「政府の主張反映」(朝日新聞2016年3月19日)とは、各々「被害者の人数は諸説ある」「法的に解決済み」「各国との条約で解決済み」「虐殺数・数千人は通説がない→数百人~数千人」___。これでは全く「東京裁判史観」の域を出ていない。

朝日新聞は「多様な見方 触れる必要」といいながら、「日本は完全に無実」という観点は全く欠落している。両論併記どころか、「『日本は無実』という説もある」とすら言及しない。「日本無罪論」の存在すら認められていない。これが公正な報道と言えるのか?

反日親中の牙城である朝日新聞はともかくとしても、「戦後レジーム脱却」のホープである安倍晋三首相を擁する政府自民党が、東京裁判史観を脱していない……。

日本悪玉史観で70年間教育された国民ではない、「戦後レジーム」を打破する内閣が、自分達が戦っている真の敵=プロパガンダについて無知とは、どういうことだろうか?

戦後70年の安倍談話にかなりの影響を与えた「21世紀構想懇談会」の座長代理、北岡伸一国際大学学長は談話発表前に、公然と「日本が中国を侵略したのは事実」「安倍首相にも談話で『侵略』と言って欲しい」といっていた。その5年前の「日中共同歴史研究」の頃、彼は次のように語っていた。


「日本に侵略を否定する声が大きいうちは、中国は、日本は反省していないと主張し続けることができる。」

「中国や韓国の歴史記述が過度にナショナリスティックになっていることは、よく知られたことである。(中略)しかし、日本のなかで侵略や虐殺の事実そのものを否認しているために、そこにふみこむことさえできなくなっている。道義的な優位性を失っているからである。」

(「共同歴史研究 『侵略』認め、日中攻守逆転」 2010年4月18日付読売新聞)


「侵略や虐殺の事実そのものを否認すること」で、日本が『道義的優位性』を失っている、と北岡氏はいっている。日本人は侵略者であるだけでなく、それを絶対に認めようとしない、反省しようとしない、道義的劣等民族である、と言っているのだ。『日本国憲法』前文の絶対的信奉者とお見受けする。

だが、日本が自身にかけられた冤罪を無実と証明することと、中国や韓国の自国の歴史への自己欺瞞と捏造を批判することを、同列に扱ってはならない。

北岡氏が完全に東京裁判史観を信じ切っていて思考停止し、それへの反論は一切耳に入らないのか、東大で法学博士となったにも拘らず、本当に東京裁判の実相について無知なのか、それとも本当は真実を知っていながら、ハニー・トラップにでもかかって脅されている故批判ができないのか、それは知らない。

だが、東京裁判の速記録を実際に読めば、東京裁判が実は「日本の戦争犯罪」など何ひとつ証明していないことが、誰にでも解る。

東京裁判は「『南京大虐殺』など起こっていたはずがない」という証拠を無視した

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以下は、所謂「Nanking Atrocities=南京の暴虐」についての東京裁判における審議の一幕である。

MR. LEVIN: Mr. Brooks calls my attention to the fact that in another portion of the affidavit is contained the statement that 300,000 were killed in Nanking, and as I understand it the total population of Nanking is only 200,000.
THE PRESIDENT: Well, you may have evidence of that, but you cannot get it in at this stage. ”  

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p.4,551, “The Tokyo Major War Crimes Trial: the Transcripts of the Court Proceedings of the International Military Tribunal for the Far East” Edited by R. John Pritchard

ウェッブ裁判長はそれに対し「貴方はその証拠を持っているかもしれませんが、現段階でその提出はできません」と退けた。(裁判長は「現段階で」といったが、その後この件は二度と言及されなかったことは言うまでもない。)

「南京の人口20万人」説は、日本人被告側弁護人ブルックスとレヴィンの希望的観測等では勿論なく、「南京虐殺があった」と言っている当の中国側資料に、その典拠がある。

その資料とは、南京陥落時に南京に残り、「南京安全区国際委員会」を組織して「難民救援」を行った、米国人宣教師やドイツ・ジーメンス南京市所のジョン・ラ―べ国際委員会会長等が作成、日本大使館を通して日本軍当局と折衝するため提出した文書や書簡をまとめた『Documents of the Nanking Safety Zone=南京安全区[木當(一字)=とう]案』(Edited by Hsu Shuhsi, 1938年刊)、及びラ―べ等国際委員会メンバーの残した日記や手紙など(『Eyewitnesses to Massacre』『The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe』)である。

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The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998), Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999), Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)

「難民救援」に括弧をつけたのは、南京国際委員会が、難民救済を建前にしながらその実、中国国民党・蒋介石軍を利する反日宣伝活動に従事していたからである。

『南京安全区とう案』は、南京から後退し重慶に置かれた国民党政府の外事評議会の援助を受けながら、国民党顧問の徐淑希によって編集されている。

南京の人口「20万人」は日本軍の南京占領2週間で「25万人」に増加していた

その「南京安全区とう案」が、「南京に残った200,000人の難民」と繰り返し何度も言及するということは、1938年当時の国民党政府が「南京陥落時の南京の人口は200,000人」と認識していたことになる。

現在の中国共産党政府が最も重用する「『南京虐殺』の同時代一次資料」は、「偶然にも」日本の歴史教科書執筆者や文科省教科書検定官と同じく、「ジョン・ラ―べの日記」であるが、実はここにも「南京の人口200,000人」が何度も言及されている。その最も重要な言及が、日本軍の南京到達の2週間前に当たる1937年11月28日の記述である。

“Wang Kopang, the chief of police, has repeatedly declared that 200,000 Chinese are still living in the city.”   (p.39, The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe)

「警察長官の王固磐は、『20万人の中国人が未だ南京市内に居住している』と、繰り返し宣言している」と、反日宣伝活動・中国国民党軍後方支援を行っていた、ヒトラーに嫌われていた(隠れ親ソ派?)ナチス党員、ジョン・ラ―ベが証言しているのだ。

しかも、この「20万人」という数字は、「虐殺」などあったなら当然減っていくはずなのに、実際は5万人も増加している。

南京陥落から2週間が過ぎたクリスマスの頃には、『安全区とう案』や「国際委員会メンバーの日記・手紙」に言及される南京の人口は、「25万人」になっていくのである。

中国人難民には、南京市内と城外を自由に行き来できる証明書「良民証」が交付された

これは、陥落時に南京城内の安全区に逃げ込んだ中国軍の敗残兵を、正真正銘の中国市民と区別するため、日本軍が発行した「良民証」が、中国軍に拉致されて兵隊にさせられていた農夫たち(拉夫)や、大部分の反抗的でない元兵士にも与えられたからであった。

「良民証」の発行は、日本軍当局と中国人難民の代表の立会いの下で中国語で行われ、難民たちは若い女性も含め、これを貰う為に登録所へ殺到した。

Friday, December 31.   Registration took place this morning—not of 260 college women, but of about 1,000 refugee women between ages of 17 and 30. By 9 o’clock they were lined up in front of Central Building and given a discourse—first by the Japanese military official, and then by Mr. Jan Yung-gwang—both in Chinese. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.368)

“During the afternoon there was not a great deal to do at the office. Trucks were interfered with because coolies could not work until registered and I suppose the same will be true today. But after people once pass the bugbear of registration they feel much relieved. So far reports of any large numbers being taken off as soldiers, about 20 from the Middle School [MS].Fitch was told yesterday that even soldiers would be pardoned if they had families here to guarantee them and those who had not, would be taken for work corps, not shot.But the officer that took the 20 from the MS said they were to be shot. We certainly hope that will be kept to a minimum.” (Lewis S.C. Smythe, Sunday December 26, 1937, Eyewitnesses to Massacre, p.276)

「虐殺派」の人々から、「『南京虐殺』から中国人を救った南京の女神」とまでもてはやされている、国際委員会のメンバーで金陵女子学院教師の宣教師、ミニー・ヴォートリンは「今朝、良民証登録が行われた。260人の女子学院の女性たちでなく、1,000人もの難民の中国人女性たちが、朝の9時には既に学院中央棟の前に並んでおり、日本軍将校とジャン・ユングァン氏の中国語の講和を聞いた。」と日記に書いた。

「良民証登録の『bugbear=根拠のない恐れ』をやり過ごして、一旦良民証を手に入れると、人々は非常に安心した。」「(市民服に着替えた便衣兵=元)兵士ですら、ここ(安全区)に家族がいて身元を保障するならば免罪されるし、もし家族がいなくとも、射殺されるのでなく、労働部隊へ廻されるのだ、と(同僚の国際委員会メンバー)フィッチは聞かされた。」と同じく国際委員会のルイス・スマイスは自分の日記に書いた。

同じ文章中に「中等学校(Middle School)から20人の中国軍兵士が連行された……連行した将校によれば、彼らは射殺されるという。」とあるが、これは「例外的に」反抗的、敵対的敗残兵であったのだろう。この件が国際委員会にも納得されていたらしいのは、最後の一文に「我々国際委員会はそのこと(良民証を与えられず、銃殺刑にされる敗残兵がいること)が最小限にとどめられるよう強く希望する」とあるのみで、「安全区とう案」に、日本軍への抗議として記録されることは無かった、という事実で解る。

中国軍は国際法違反の「便衣兵」となって難民キャンプに潜伏していた

南京陥落直前の1937年12月12日夜。(1)南京防衛軍司令官唐生智は形勢絶対不利を見てとり、さっさと敵前逃亡した。(2)置き去りにされパニック状態になった中国軍は、武器を捨て、兵隊服を脱ぎ捨て、予め携帯していた「便衣服=市民服」に着替え、中国人非交戦者の為の安全区に、市民を装って入り込んだ。(3)彼らは「敗残兵と市民とを分ける能力のない」安全区国際委員会の目と鼻の先で、安全区内に潜伏し、武器を隠匿し、(4)機会を捉えて略奪、放火、強姦や殺人などを同胞である中国人難民に対して犯し、これを日本軍のせいにしようと企んでいた。

中国国民党軍のこれらの行動は完全な国際法違反であった。

1907年 ハーグ陸戦法規 第一章 交戦者の資格
第1条: 戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される。
(1) 部下の責任を負う指揮官が存在すること。
(2) 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること。
(3) 公然と兵器を携帯していること。
(4) その動作において、戦争法規を遵守していること。

これを証明する記事が1938年1月4日のニューヨーク・タイムズに掲載された。

NYT 4 JAN 1938 B
New York Times 4 JAN 1938

「元中国軍将校らが米国人の難民キャンプに:大佐とその部下達 南京での犯罪を日本軍のせいにしていたと白状」

「南京に留まって国際難民救済委員会を結成していた米国人大学教授達には非常に不面目なことに、彼ら自身の難民キャンプに敗軍の将校とその6人の部下を匿っていたことが発覚。」「しかも、あろうことかその大佐を、難民キャンプの幹部に据えていた。」「彼らは南京防衛戦で退却の際、軍服を捨て去り、大学構内に潜伏していた。」「彼らは、日本軍の掃討部隊に、建物内に隠匿した6丁のライフルと5丁の回転式拳銃、砲台から外した機関銃と弾薬を発見された後、自分たちの真の身元を白状した。」「これらの元中国軍将兵たちは、南京で略奪を働いたこと、そして或る夜、難民キャンプから女の子達を暗闇に引き摺り込み、翌日この暴行を日本軍のせいにしたことを、米国人をはじめとする外国人の面前で告白した」「この元将兵たちは逮捕された。そして軍法会議にかけられ、おそらくは処刑されることであろう。」(拙訳:筆者)

南京安全区国際委員会は中国国民党のプロパガンダ工作に携わっていた

この米国人宣教師らは、「知らずに」元中国軍将兵を難民キャンプに匿っていたのではない。東京裁判で証言したシャール・ベイツや『南京の日本軍暴行記録』を書いたルイス・スマイスは、国際プロパガンダ工作の為に国民党に雇われていたことが国民党極秘文書から明らかになっているし、南京YMCAのフィッチは「南京放送で国民党のプロパガンダを流している」と、当時中共軍と行動を共にしていたコミンテルン・スパイの米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーも自著に書いていた。ベイツとミニー・ヴォートリンは「秘密裏に」国民党・蒋介石からヒスイ勲章を貰っている

現中国共産党政府が「南京虐殺の生き証人」と持ち上げるジョン・ラ―べもまた、南京陥落直前の12月12日から、30,000ドルと引き換えに国民党軍将校「ラン」と「チャウ」の2人を自宅に匿い(『ラ―ベ日記』p.64)、翌年1938年2月23日にドイツへ帰国する為南京を離れる際には、やはり自宅に匿っていた「フアン空軍大佐」を自分の使用人と偽って帯同し、日本軍の警戒を潜り抜け、上海まで脱出させることに協力(同上p.202)している。

国際委員会の面々は、全員が程度の差こそあれ、反日的であった。日本軍は中国人難民による「自治委員会」を設立して、中国人自身の手による南京復興を奨励援助していたが、中国での布教活動がいまひとつ成功しておらず、本国からの助成金途絶の危機に直面していた米国人宣教師たちにとって、日本軍は「南京で難民を救済した」という「実績・手柄」を横取りする邪魔な存在であった。

南京の中国人は日本軍を慕っていた

南京を占領した日本軍の主力は、陥落後2週間で、重慶方面へ退却する中国軍を追跡し南京を後にした。残された1600人ほどで、南京市内の警備とインフラ復旧工事、遺棄された中国軍の分も含めた戦死体の埋葬・供養が行われ、南京の平和は急速に回復した。

Jan. 1, 1938—8:45 P.M.  New Year’s Day     Well, today has been the noisiest unhappy New Year I ever saw. Firecrackers began early this morning. But the barber was an hour late for his eight o’clock appointment and apologized by saying that he had to go out to fire firecrackers for the Japanese! Well, anyway the children had a grand time firing the crackers given out by the Japanese! (Lewis S.C. Smythe, Eyewitnesses to Massacre, p.284)

優しく礼儀正しい日本軍将兵から肉の塊を貰ったり、飾り付けをしたりして「穏やかなクリスマス」を過ごした国際委員会の宣教師たちは、正月には「日本軍からもらった爆竹を鳴らして、朝から非常に楽しい時を過ごした子供達」を目撃した。「今まで見たこともない騒々しい『嬉しくないお正月』だった」と書いたスマイスは、国民党のプロパガンダ要員としては、「敵」であるはずの日本軍と仲良くやっている南京市民の姿に素直によろこべなかったのであろう。

「南京で起こっている略奪・強姦・放火は中国軍の仕業で、日本軍ではない」と中国人

前述のニューヨーク・タイムズ1938年1月4日付記事のあと、1月9日の日記に、国際委員会のマッカラムは「いまや日本人は、安全区で努力している我々の信用を落とそうとしている。我々国際委員会が言ってきたこと(筆者注:日本軍の「悪行」を言い立てる「南京安全区とう案」のこと)を不当だと思わせようと、可哀想な中国人達を脅しているのだ」と書いた。

“Now the Japanese are trying to discredit our efforts in the Safety Zone. They threaten and intimidate the poor Chinese into repudiating what we have said.

Some of the Chinese are even ready to prove that the looting, raping and burning was done by the Chinese and not the Japanese.

I feel sometimes that we have been dealing with maniacs and idiots…” (James A. McCallum, Eyewitnesses to Massacre, p.238)

「何人かの中国人は、『略奪・強姦・放火は中国軍がやったのであって、日本軍ではない』と証明する準備がある、とまで言っている」時々、我々(外国人)は狂人や白痴を相手にしているのかと思うことがある……」(拙訳:筆者)

だが、中国人達は日本軍に脅されてこのようなことを言っているのではない。そして、国際委員会のメンバーが反日プロパガンダを拡散していると知っていたのは中国人だけではなかった。

マギー牧師は、「南京での日本軍の『残虐行為』の話は虚偽であり、本当の犯人は中国軍である」という手紙をタイムズ紙に複数回書き送っていた、ニューヨークのマッキム牧師宛てに、長い抗議の手紙を書いていた。

“Dear Mr. McKim,      It has been brought to my attention that you have been writing letters to the Times saying that the stories of Japanese atrocities in Nanking were false.

[…]  If I had not seen with my own eyes the things that I have seen I could not have believed that such things could have had happened in the modern world.” (John G. Magee, A Letter to The Rev. J. C. McKim, April 2nd, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.198)

「もし私が自分のこの目で見たのでなければ、こんな(日本軍の犯したようなおそろしい)ことが現代のこの世の中に起こるとは信じられたはずはありません」などとマギーはマッキム師を非難したが、聖職者にあるまじきことながら、マギーは嘘をついていた

南京の外国人達は、「虐殺」どころか一件の「殺人」も目撃していなかった

東京裁判で、『南京安全区とう案』の444件の事件報告を2日がかりで朗読したマギー牧師は、被告側弁護人ブルックス大尉に「今おっしゃった『殺人行為』のうち、何件をご自身で目撃されましたか?」と聞かれて答えた。

“I thought I made that clear in my testimony.
I only personally witnessed the killing of one man.”  (p.3,929, Pritchard前掲書)

「私の証言の中で明確に申し上げたつもりでしたが……一人の男が殺されたのを、自身で目撃したのみです。」と、マギーは証言した。

しかも、これは「殺人」ではなく、「誰何され逃げ出した怪しい男が警備兵に撃たれた」という、戦場では「正当な殺害」にあたる事件であった。

マギーは「一昨日の話」として、1937年12月19日の日記にその模様を書き残していた。

“Just day before yesterday we saw poor wretch killed very near the house where we are living. So many of Chinese are timid and when challenged foolishly start to run. This is what happened to that man. The actual killing we did not see as it took place just around the corner of a bamboo fence from where we could see.” (John G. Magee, Sunday-December 19, Eyewitnesses to Massacre, p.171)

「多くの中国人は臆病で、誰何されると愚かにも逃げ出してしまう。それがこの男に起こったことだ」とマギーは書くが、難民たちは日本軍に感謝し、慕いこそすれ、日本軍を恐れたりはしていなかった。そもそも、日本軍の方でも普通の難民を「怪しい奴」とみて誰何することもなかったであろう。

しかも、この件には落ちがあり、誰何されて逃げた男は、国際委員会の面々の視界を外れた竹の塀の向こう側へ逃げたところで撃たれたので、「我々(国際委員会)は殺害自体は目撃しなかった」(同上、p.171)のであった。

実際には見なかったことを「見た」と、マギー牧師は東京裁判で証言したことになる。

真っ当な裁判であれば、これは「偽証」になるはずであったが、東京裁判には偽証罪の適用は無かった。

国際委員会が、自分たちの目で本当に目撃した、日本軍による「殺害」はただ1件、そしてそれは「合法的な処刑」であった

『南京安全区とう案』ケース185、国際委員会のクルーガーとハッツが1938年1月9日に目撃した「市民服の男」=便衣兵の銃殺である。

“ 185.     On the morning of January 9, Mr. Kroeger and Mr. Hatz saw a Japanese officer and soldier executing a poor man in civilian clothes in a pond inside the Safety Zone on Shansi Road, just east of the Sino-British Boxer Indemnity Building.
The man was standing in the pond up to his waist in water on which the ice was broken and was wobbling around when Mr. Kroeger and Hatz arrived.
The officer gave an order and the soldier lay down behind a sandbag and fired a rifle at the man and hit him in one shoulder. He fired again and missed the man. The third shot killed him. (Kroeger, Hatz)

Note: We have no right to protest about legitimate executions by the Japanese army, but this certainly was carried out in an inefficient and brutal way. Furthermore, it brings up a matter we have mentioned many times in private conversation with the Japanese Embassy men: this killing of people in ponds within the Zone has spoiled and thereby seriously curtailed the reserve water supply for the people in the Zone. This is very serious in this long dry spell and with the city water coming so slowly.” (p.78, “Documents on the Rape of Nanking” edited by Timothy Brook)

我々には、日本軍の合法的処刑に抗議する権限は無いが」と前置きして、射撃手が経験不足からか2度も急所を外し、3度目でやっと件の男を射殺した事、氷の張った冷たい池の中での銃殺刑であったこと等を「要領が悪く残酷なやり方」と批判し、「安全区内の池での射殺は、飲み水を汚染し、安全区の人々への給水の深刻な制限につながる」と非難している。

『南京安全区とう案』に載っている444件の「事件」は、185番を除いて全てが「伝聞」、しかもその殆どは検証していない「また聞き」であった

Number 8

Cases of Disorder by Japanese Soldiers in the Safety Zone

Filed, December 16, 1937

Note: These are only sample cases we have had time to check upon more carefully. Many more have been reported to our workers.

[Cases number 1 to 15]

The above cases have been checked upon by foreign members of our Committee or Staff.

respectfully submitted,/ Lewis S. C. Smythe/ Secretary

(pp.9~11, Documents on the Rape of Nanking, edited by Timothy Brook)

南京国際委員会会長のジョン・ラ―べや同会セクレタリーのルイス・スマイスが日本大使館やアメリカ大使館との折衝等の為に書いた69通の手紙や覚書のうちの1通の、本文ではなく注意書きとして小さな字で書かれているものである。

「これらは、我々がきちんと裏付けを取る時間をとれた唯15件の事件報告である。更に多くの事件報告が、我々のスタッフに届けられている」と始まって、「上記の事件報告は、我々国際委員会のメンバー或いは事務員によって裏付けされている。」で終わっている。また、1938年1月31日の手紙「Number 56」にも、「以下にあげる事件(番号210から219)だけが、我々が事件当事者から直接聞くことの出来た事件である。(最初の2件は、以前の事件をタイプライターで清書する際に、見落としていたものである)」とスマイスが書いている。

The following cases are only the ones we have been able to get first hand reports of: (The first two are cases overlooked in typing up previous reports.) (p.116, Documents on the Rape of Nanking)

これらの注意書きは何を意味するのだろうか?その答えは、当時外交官補として在南京日本大使館に勤務し、国際委員会からの手紙にも数回その名が宛先として登場する、福田篤泰氏の証言によって明らかになる。


 当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。 「いま、上海路何号で10歳くらいの少女が5人の日本兵に強姦されている」あるいは「80歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。

(福田篤泰『一億人の昭和史』1979年版)


要するに、国際委員会の「事件報告」というのは、国際委員会の事務所に「中国人」が持ってきた「報告」を、検証もせずにタイプしてまとめているだけのものだった。

『南京安全区国際委員会報告書』は、「国民党プロパガンダ」であった

「報告者」の「中国人」が、国際委員会同様、中国国民党のプロパガンダ部隊か、その息のかかった人間であることはほぼ間違いない。

実のところ南京には、「米宣教師・国民党軍宣伝部隊」対「日本軍・中国人難民」の構図があった。

シャルフェンベルク・ドイツ大使館一等書記官が、1938年2月10日に書いた覚書がこの間の事情をよく説明している。

Memorandum of Chancellor Scharffenberg for the Embassy in Hankow

[……]

On 5 February, all officials were again invited to a tea [by the Japanese Embassy], as guests of garrison commander Major General Amaya.

We conversed very amiably for a good while, [then] Amaya…gave a speech…. His thesis was: Everything would have gone far better in Nanking without any Westerners. The Chinese had crept in under the Westerners’ coattails and by trusting in our intervention, had dared to defy the Japanese. In Yangchow…everything had fallen into place wonderfully after a few days, and commercial life had scarcely been interrupted.

The high point of of his speech was: “Please don’t interfere in my dealings with  the Chinese!” [……]

The Safety Committee has long been a thorn in the side of the Japanese, but since 4 February a large number of Chinese have in fact left the camps and found shelter somewhere in the city. In my view, Herr Rabe as its chairman has indeed achieved extraordinary things, but he has let himself be lulled far too much by the Americans and is helping promote American interests and missionaries who are out to catch souls en gros.

Rabe realises as much himself, and is trying to get Japanese permission to go to Shanghai, but he is still actively trying to counter the bloody excesses of Japanese looters, which have unfortunately increased of late. To my mind, this should not concern us Germans, particularly since one can clearly see that the Chinese, once left to depend solely on the Japanese, immediately fraternize. And as for all these excesses, one hears only one side of it, after all.

「(3日のディナー・パーティーに続いて)2月5日にも、全大使館職員が(日本大使館に)茶会に呼ばれた。」「しばらく談笑したあと、天谷少将がスピーチをした。」「彼の論旨は、『南京に西洋人が一人もいなければ、もっとずっと物事は上手くいったはずだ。中国人は西洋人達のコートの裾に隠れながら、いざとなれば西洋人が助けてくれると踏んで、平気で日本人を侮った。揚州では、陥落数日後に全ては収まるところに収まった。商業活動にも殆ど支障はなかった。』ということだった。」

「要は『日本軍と中国人との問題に口を挟まないでくれ!』といいたかったのだろう。」

シャルフェンべルクは続ける。「国際委員会はずっと日本人の咽喉に刺さった棘だった。が、2月4日には大部分の中国人難民は帰宅するか、南京市内のどこかに別の棲み家を見つけた。」(筆者注:日本軍の指導により、難民の安全区は1938年2月4日で解散。中国軍の清野作戦・拉夫〔農夫を誘拐して兵隊にする〕のせいで家を焼かれ、夫を失った女性には日本軍から見舞金が支給され、殆どの難民は帰宅した。そして貰った「良民証」を見せれば、郊外で作った農作物等を売りに、自由に南京城内へ入ることができた。)

「ラ―ベ氏は立派な仕事をしたと思う。だが、彼は寧ろ自ら進んでアメリカ人達にたらし込まれ、アメリカの国益と、大量に信徒を得ようとやっきになっている米宣教師達の利益を追求する手助けをしている。

「ラ―ベ氏は自分でも気付いている。そして(筆者注:ドイツへ帰国の為に)上海への渡航許可を日本当局に申請しているが、一方で、最近また増加している日本軍の略奪・残虐行為への対応に、今尚積極的に取り組んでいる。正直に言って、我々ドイツ人が心配することではないと思う。何故なら、誰にでも明らかなことだが、中国人は日本人だけを頼らねばならないと見るや、一瞬にして日本人と親しくなってしまった。そして、これら全ての「残虐行為」についていえば、誰かさん(ラ―ベ氏)は結局のところ片方(中国人)の話だけを聞いているのだから。

外国人宣教師達も、国際委員会の宣伝活動を非難していた

シャルフェンべルクだけではない、同じ宣教師仲間の外国人達も、国際委員会の「国民党宣伝活動」を批判していた。

The chief officer of the Embassy [of Japan] formally referred to me as “anti-Japanese” ……. Some of the foreign group here have continually besought me (and to a lesser extent Smythe and Mills)—Fitch also when he was here—to cease the thorough reporting and protesting and indirect publicity, lest all missionaries be excluded from Nanking. (Miner Searle Bates, letter to Timperly, March 3, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.31)

「日本大使館の主席官吏は、公に私を指して“反日”と呼びました。(中略)ここ南京にいる外国人グループのうちの何人かは、私に向かって(回数は少ないがスマイスやミルズにも)___そしてフィッチがいる時には彼にも___詳細な報告、抗議、間接的な宣伝を止めてくれ、と頻繁に嘆願するのです。(私達のせいで)全ての宣教師が南京から追い出されることを怖がっているのです。」

これはベイツが、ハロルド・ティンパーリーに宛てて書いた手紙である。ティンパーリーは、国民党が外国人を使った国際プロパガンダ工作の一環として出版させた『What War Means: Japanese Terror in China=戦争とは何か:中国における日本の暴虐』の著者で、ベイツとスマイスは上海を拠点とするティンパーリーに日本軍の情報、南京の状況を書き送って、英語による国際的な反日プロパガンダの発信に携わっていた。

ティンパーリーや、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダ―ディンなどの、上海にいる反日外国人記者により、英語で発信される「日本の残虐行為」に騙された人々が「残虐非道の日本を懲らしめろ!」という「国際世論」を形成し、その「国際世論」に騙された、或いは騙されたふりをした人々が、「『南京虐殺』があったのは事実」などといって思考停止し、大元の「日本の残虐行為」という嘘を「(第3者である外国人による客観的な)虐殺の証拠だ」といって、人々にも思考停止を強要している。それが今、世界規模で起こっている事である。

だが、南京の真実は「中国人の言うことだけ」を聞いていてはわからないのだ。その中国人が本当の「良民」なのか、プロパガンダ工作員なのかを見極めなければ。

とはいうものの、これまで挙げてきた3冊の本「The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998)」「 Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999)」「Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)」を精読するだけでも、南京攻略戦、南京陥落時とその後の様子は、映画を見るように鮮やかに見えてくる。肝心なのは、まず先入観を捨てることだ。

国際委員会は日本軍が安全区を砲撃しなかったことを感謝していた

Letter to Japanese Commander of Nanking

December 14, 1937

Honorable Sir,

We come to thank you for the fine way your artillery spared the Safety Zone and to establish contact with you for future plans for care of Chinese civilians in the Zone.

(p.1, Documents on the Rape of Nanking)

『南京安全区とう案』は、その最初の書簡、南京陥落翌日の、日本軍総司令官への手紙で、日本軍が南京攻略時に安全区を避けて砲撃を加えた「立派なやり方」と、そして、(「中国人を殺したこと」ではなく)「安全区にいる中国人非戦闘員の為の福祉についてこれからの計画を立てる為、〔日本軍〕との連絡の手段が確立されたこと」に感謝している。

これまで見てきたように、この後、国際委員会は444件もの(自分たちで目撃したのでない、検証もしていない)「事件」報告をしてゆくのだが、それと並行して、「安全区にいる(常に数の変わらない)20万人(後に25万人)の中国人」の為に、食糧(主に米)等を国際委員会が販売するため、日本軍に融通してくれるよう要請する手紙を、繰り返し出している。

難民の世話は、既に日本軍がきちんとやっていた。

1938年1月1日には難民たちの代表である紅卍字会を主体とする「中国人自治会」が日本軍の協力で発足し、同2月4日には早くも「安全区」を解散できるまでに南京復興は進んでいた。それを横から「手柄」だけさらおうとしていたのが国際委員会であり、その上日本軍について「あらぬことないこと」出鱈目ばかりを言い募ってくる厚い面の皮には、如何に「紳士的な日本軍将校(複数の国際委員会の外国人による評)」でも、少なからぬ苛立ちを覚えたことであろう。

陥落後3カ月で日本人婦女子も南京に帰還。南京の人口、陥落1年後には40万人に

南京の人口は、日本軍が南京に到達する以前の11月28日に警察長官・王固磐が発表した「20万人」から、12月24日から始まった「良民証」の発行により「25万人」に増加し、日本軍による戦場整理・インフラ復旧が着々と進み、市外に避難していた人々も帰還し始める。

1938年3月31日までには、600人の女性・子供を含む日本人居留民も戻ってきた。そして、1938年11月には、「南京の人口40万人」と、反日宣伝でヒスイ勲章も貰った国民党顧問のベイツが書くまでになる。

At this time of writing [march 31, 1938], we are connected by train, bus and merchant boat with Shanghai and it is said that 600 Japanese civilians including women and children are now here. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.345)

Nanking’s population has now come up to practically 400,000 (as compared with 250,000 in the Safety Zone period and just 1,000,000 before the war). Recent additions are largely refugees from the country, some of whom went there from the city in search of safety, but have now used or been deprived of all their money (and often of their clothes) in the precarious hinterland of guerrilas and punitive raids. (Miner Searle Bates, Eyewitnesses to Massacre, p.44)

ベイツは書く。「最近の帰還者は主に市外への避難者だ。(戦場となる)南京市から安全を求めて避難したにも拘らず、匪賊が過酷な取り立てを行う不安定な僻地で、お金を(そして多くの場合は着る物も)使い切ってしまったのだ。」

★中国の民衆が恐れていたのは、規律正しい日本軍でなく、寧ろ略奪する匪賊であり、戦時には撤退する中国兵の焦土作戦(三光作戦=全て焼き、奪い、殺し尽くす)であった。

★町に秩序を取り戻す日本軍の占領は、各地で歓迎されていた。

★南京は、陥落数日後には既に、大通りに難民による「泥棒市」が立って賑やかに混雑していた。(お人好しの日本兵がそのお客だった)

★難民は安全区に集中して居住しており、その安全区は日本軍が警備しているので匪賊の跋扈する城外よりも、遙かに安全だった。

安全区内での危険の全ては、難民に化けて敵対行動を続け、難民を襲ってその罪を日本軍になすりつけていた、便衣の敗残兵によるものであった。

その敗残兵が陥落時に安全区に入り込むのを黙認・或いは積極的に匿って安全区に(或る者達はなんと「武器格納庫」のある建物に)入れたのは、国際委員会の外国人達だった。

★東京裁判は中国人と、この国際委員会の外国人の言うことをろくに検証もせず、反対尋問による疑問点は全て無視して「南京虐殺」はあったことにした。

だが、東京裁判は松井石根大将が「『南京虐殺』を命令した事、認可したこと、許可した事」を証明できなかった。

松井大将は、「訴因54:残虐行為の命令・認可または許可」では不起訴になり、「訴因55:戦時国際法の徹底遵守・違反行為の防止義務の無視」、つまり「部下の監督不行届き」の罪で死刑になったのである。(他の訴因1、27、29、31、32、35、36;それぞれ「共同謀議」「中華民国・アメリカ合衆国・英連邦・オランダ・ソ連邦(張鼓峰事件・ノモンハン事件)に対する戦争の開始」も全て不起訴)

日本人が東京裁判史観から抜けきれないのは、東京裁判の実相を知らないからに他ならない。

「『南京大虐殺』が『中虐殺』だろうが『小虐殺』だろうが、『あった』ことには変わりない。」「証拠は山ほどある」と言う人は、本稿で挙げた一次資料を精読した経験がないのだろう。あれば恥ずかしくてそんなことは言えないはずである。

これらの本の序文、或いは裏表紙の「お勧めの言葉」などに、決まって「この本の中に『南京虐殺』の真実がある!」と書いてあるのは、実は「『南京虐殺』などなかった」という真実でしかないのだが、おそらく学者もジャーナリストも反日活動家も、「『南京虐殺』があった」という本が出ている、というそのことを以て「『南京虐殺』の証拠」としているのに違いない。序文や裏表紙だけを読んで、中身も読んだ気になっているのだろう。

「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍晋三首相と自民党政府にお願いしたい。

  • 日本の大学の法学部には、必ず国際法(平時・戦時)学科をおき、「東京裁判」「GHQ占領政策」研究室を設ける。
  • 法学部のある大学には必ずその図書館にR. John Pritchardの「 The Tokyo major war crimes trial: the transcripts of the court proceedings of the International Military Tribunal for the Far East」全124巻(速記録114巻とガイド10巻) を所蔵させる。
  • 「国際宣伝戦」についても大学に学部が欲しいところだが、(勿論、防衛大学には軍事情報学部が必須)少なくとも「東京裁判」「GHQ占領政策」とともに講座を設け、社会人も勉強し直せる体制をつくる。

学会もメディアも東京裁判史観で飽和している現状のままでは、いつまでたっても、国民はなぜ外国人がひそかに日本人を軽蔑しているのかが解らない。「一億総前科者」であるという事実を知らない。

彼らの日本人蔑視の理由をまず知る。そして、理論武装して反論する。論破する。

そして、連合国の誤謬を指摘する。徹底討論する。それで初めて、先の大戦の、本当の反省ができる。

「南京大虐殺」の嘘で、日本国民と中国の民衆との本当の友好が、破壊されている。

日中友好は、日中戦争で、日本軍が、もう成し遂げていた。そのことに気づくのが、「戦後レジーム」からの、本当の脱却の第一歩なのだと思う。

shanghai 1939 29 April
上海における天長節祝賀式場 1939年4月29日 『支那事変画報』昭和14年4月7日~5月3日

「『日本国憲法』無効論」を、知っていますか?

 

「『日本国憲法』無効論」とは、私達日本人が『日本国憲法』と呼んでいるこの「占領憲法」が、その実態は「憲法として『無効』」であり、大日本帝国憲法及び明治の皇室典範が現存している、という事実の確認・宣言による国民の「意識改革」の提唱である。

●その「意識改革」とは、自分達が戦後「真実」と思ってきたことのすべてが「真実」というわけではない、という事実に気付くことである。

●「『真実ではないこと=虚偽』を『真実』であると思い込まされてきた」という事実を悟ることである。

●東京裁判を始めとして占領下にスタートし、今も続いている『ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム』と言う名の「日本国民の思想改造」=「洗脳」によって、日本人は「大日本帝国憲法下=『天皇制』下の日本は悪かった」と思い込まされた。その、今では日本人の無意識化に浸透した「一億総前科者」意識を直視し、認識することと、それからの脱却を目指す心構えである。

●そして私達の父祖が命懸けで成そうとした「大東亜共栄圏」の真実と、その真実を隠す為に「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えることを、GHQによって強要された事実を知ることである。

●「日本は侵略国」と繰り返し叫ぶ勢力こそが、本当の「侵略者」とその手先、或いは利得者であり、極東・太平洋に於ける第二次世界大戦の開戦責任はこの者達が擁護する「誰か」或いは「何か」にある、という事実を世界に周知することである。


今、第三次安倍内閣は「『日本国憲法』有効論」方式によって、「憲法改正」を成そうとしている。

安倍内閣は「『日本国憲法』無効論」を知らないのだろうか?それとも、その存在を知ってはいるが、GHQに培養された「戦後憲法学」を信奉する「戦後憲法学者」の言うことを真に受けて、「憲法無効論は既に解決済みの論題」であるから、その存在を周知し「戦後憲法学者」と「無効論者」による国民の面前での公開討論にも意味はない、と考えているのだろうか?

「『日本国憲法』無効論」の存在すら国民に周知せずに、政府がその是非を一存で判断し、「『日本国憲法』有効論」の方式で「憲法改正」を行うということは、第二次世界大戦戦勝国が敗戦国日本に対して犯した罪を、日本人自ら日本国に対して行うに等しい。なぜなら、

「『日本国憲法』有効論」方式による「憲法改正」を行うという事は、「占領憲法『有効』論」の、日本国と日本人による積極的認定、即ち「日本の連合国への隷属状態の恒久化」の積極的容認ということだからである。

そして、それはとりもなおさず、連合国によって日本と日本国民全体に掛けられた「侵略国」「虐殺者」という冤罪を「冤罪である」「真の犯罪者は他にいる」と国際社会に訴える機会を自ら放棄するということである。

私達は、占領下と何も変わらず、何も真実について知らされないままに、日本国の命運にかかわる重大な事柄について、急かされながら決定を下そうとしている。

「『日本国憲法』無効論」は、なんとしてでも国民に周知されねばならない。

占領軍
マッカーサー、専用機バターン号で 厚木飛行場に降り立つ

「憲法無効論」はなぜ周知されないのか?

左翼憲法学者らが「既に解決済みの論題」と退けるのはともかく、「保守論客」までが「破綻した論理」「感情論」と見下して無視するのはなぜか?

全てのカギは「占領政策の検証」にある。

「なぜ日本国憲法は無効か」を問うこと、そのこと自体が、「占領軍・GHQは、戦勝連合国は、敗戦国日本に何をしたのか」を問うことに繋がるからである。

●『日本国憲法』制定の真の目的は、「日本の国体の違法な改変」に在った。

●その違法行為の隠蔽に『日本国憲法』そのものが禁止する「検閲」が使われ、日本国民の「知る権利」は完全に抹殺された。

●『日本国憲法』の内容に関する最終決定権は、「天皇制を廃止し日本を共和国にする」という目的を持つ極東委員会にあった。

●東京裁判により「日本軍の戦争犯罪」と「日本国の世界侵略」が捏造され、「拡張主義的帝国主義の根源であった『大日本帝国憲法』を、天皇制下の軍国主義者の圧政から連合国により解放された、自由な日本国民の総意により『改正した』清く正しい『日本国憲法』」という虚構の「裏付け」とされた。

●大日本帝国憲法に於いては「憲法改正」の発議の大権は天皇に在ったが、その天皇以下、日本国政府も帝国議会も、「日本国土と日本国民の完全なる殲滅」「日本の国体の核心である万世一系の天皇の絶対的権威の排除」という究極的脅迫を受けており、反抗は全く許されなかった。

●憲法制定議会構成のための昭和21年4月の衆議院総選挙で、GHQは反抗が予想される代議士を全て排除した。

●占領軍命令により(天皇を通じて)組織された「帝国憲法改正案委員会」も、「公職追放」という至近な脅迫を受けており、GHQ草案を変更することは困難な状況に在った。

以上の事実は、『日本国憲法』の無効理由の一部(全部ではない!)を成すものであるが、『日本国憲法』が「GHQから押し付けられた」状況が国際法違反であり、連合国自らが高らかに謳う「人道」にも遠く外れている事が明白である。

日本と日本人がされたこと、そして未だに、そのこと自体を忘れさせられている事を思う時、一人の日本人として、人は胸の奥から沸々と湧き起こる感情を抑えることができない。だとしても、それは「『日本国憲法』無効論」自体が「感情論」であるということにはならないであろう。

寧ろ、これらの事実を知って尚「胸の奥から沸々と湧き起こる感情」と無縁の日本人がいたら、その日本人の「愛国心」を疑う方が正しいとも思える。

日本人の受けた侮辱・無体を知り、尚「無感情」で、平気な日本人とは、つまり「日本が日本でなくなっても構わない人間」「万世一系の天皇を戴く日本という国に興味のない人間」であろう。

つまり、「『日本国憲法』無効論」を「破綻した論理」「感情論」と退ける人は、上記の事実を知らないか、でなければ「積極的に無効論の存在を日本国民から隠そうとしているもの=GHQと極東委員会の意思を継ぐもの」なのである。

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占領中も、占領終了後も、GHQの完全無欠の検閲システムによって、日本人は「日本国憲法」は日本国の代表者たる衆議院が「帝国憲法の改正方式に正しく則り」「自由な議論の末」「自由な世界人民」を代表する連合国の代表たるGHQからの「民主主義的なアドバイス」に答える形で「日本国民の総意を反映して」「天皇陛下の御裁可=勅語を頂き」「法的に正当に」成立したものであると信じ込まされ、全く疑わずにきた。

当然、戦後の「憲法学」も、「『日本国憲法』が日本の正当な憲法である」との錯誤の上に成り立っている。

だがその実、憲法学者が「憲法無効論」をまともに取りあげないのは、そもそも「有効論」が「無効論」に対して有効な論証をしえないからである。破綻しているのは「有効論」の方なのだ。

GHQ占領政策=「日本人の魂の永久的非武装化」の恒久的維持の要である「『日本国憲法』有効論」が、その軛の破壊者たる「『日本国憲法』無効論」を必死で攻撃するのは当然である。

積極的に「無効論」の国民への周知を阻止しようとする左翼憲法学者は勿論、保守を自認する人々までもが「無効論は感情論。破綻している」と攻撃し、「無効論」を矮小化しようとするのは、「自分が信じてきたことを否定されることへの拒絶反応」か、「故意・無意識の如何にかかわらず、悪意に満ちた『反日キャンペーン』に加担したことへの罪悪感の裏返し」か、はたまた「核攻撃能力を持った『国際広域暴力団』に睨まれることへの怯儒」か、単なる「思考停止」か?

いずれにせよ、「『日本国憲法』無効論」の国民への周知が喫緊の課題である。

真実を知れば、日本国民はいままた天皇陛下の下に団結し、国際社会の不正に対し声を挙げることができる。

「『日本国憲法』無効論」を圧殺しようとしている勢力が、一番恐れている事がそれなのである。

MacArthur and Emperor Showa

1945年9月27日、マッカーサーと昭和天皇の会見に通訳として同席したバワーズ少佐は、昭和天皇が「Kill me, but not those who acted in my name. (私はどうなってもよいが、私の名の下に行動した人々は救って欲しい)」と仰って元帥を感動させた、と証言している。

だが、米国政府はその感動を共有しないばかりか、GHQ・SCAPをその天皇の頭上に据え、日本国全体に君臨させた。マッカーサー自身の言の通り、「(終戦の日から)日本はいわば、大きな強制収容所になった・・・。そして現在も、その状態を続けている。占領軍は八千万日本人の看守となった・・・」(マッカーサー、「新憲法」発効3年後=1950年、「フォーチュン」誌)

Atom Bomb

ポツダム宣言が日本に突き付けた「日本国本土の完全なる破壊」の恐怖は、同宣言が「現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ」とドイツを例にとってみせるまでもなく、1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ、東京大空襲に代表される灼熱地獄のような日本本土空襲と、たった二発で瞬時に20万近くの人命を奪った広島、長崎への原爆投下によって、日本国民全員が骨の髄まで思い知らされていた。

マッカーサーに国民の命乞いをなさった昭和天皇始め、「国体護持」を条件にポツダム宣言を呑んだ日本政府も、「帝国憲法『改正』を強要された」枢密院、帝国議会も、「日本国土の完全なる破壊」と「日本民族の滅亡」の絶体絶命の危機を前に、GHQの無法に抗う術はなかった。

GHQ当局は「(憲法改正の)松本案は絶対に承認できない」と内閣に言い渡し「民政局草案の根本精神にそい、徹底的改正でないもの(引用者注:改正案)は一切承諾されない」と言明した。「帝国憲法及び国体を護持しようとする唯一の反抗も、完全に抑圧された」(菅原裕『日本国憲法失効論』)のである。

「もし総司令部案に沿った憲法改正が行われなければ、総司令部としては天皇の身体を保障することができない」-1946年2月13日の米国側との会談で発せられたホイットニー准将の言葉は、日本側に「憲法と天皇の身体との引き換え」と映った。

SWANCC 初期の対日方針

GHQのいう「民政局草案の根本精神」とは、「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」(SWNCC150)「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)がいうように、「天皇制の廃止、もしくは天皇の政治的権威の剥奪」「軍国主義の殲滅」であったが、それはポツダム宣言がおためごかしに言ったような「日本の民主化の為」などではなかった。

「新憲法」の内容に関してはソ連の操る極東委員会に最終決定権があり、極東委員会は「日本の共和国化」=「『主権者』人民を支配することによる国家全体の支配」を目論んでいた。

何のことはない、トンビ(米国)があぶらげ(日本の支配権)をさらった、という話であった。

「当初、ソ連は北海道に侵入して、朝鮮やドイツ同様に、日本分割のいわゆる38度線を引こうとしたが、日本が無血進駐を許したため、マッカーサー元帥の出足が早く、ソ連に乗ずる隙を与えなかった。そこでソ連は今度は、手を変えて、翌年2月26日に第一回総会の開会を予定されていた最初の極東委員会において、日本に共和制を布くことを決定させて、日本を混乱に陥れ、それに乗じて北海道侵入を敢行しようと策動した。(中略)この情報をいちはやくキャッチしたGHQでは、これは一大事と驚き、直ちにその阻止に乗り出したのである。GHQは、占領以来半年、日本の天皇制がいかに根強いものであるかを知りつくしていた。それだけに、もしこの天皇制を廃止して、共和制を実施せんとすれば、大混乱をきたし、アメリカの占領統治が、収拾不能に陥ることは、火を見るより明らかである。したがってこれは絶対に拒否しなければならぬ。(中略)これを回避するにはどうしても、こちらから先手を打って、日本の憲法を早急に改正し、天皇の機能を全面的に剥奪して、極東委員会に対しては、日本は既に民主化を終わった、あえて共和制を布く必要はないとの了解を求め、他方、日本国民に対しては、象徴天皇の名称を憲法に残すことによって、天皇制は存続された、日本の国体は変革されない、と納得させる以外に手はないとの結論に達し、急速にこの謀略憲法草案を作成したものである。(菅原裕『日本国憲法失効論』)

ソ連の日本支配の芽を摘み、「日本征服」の独占を目論む米国・GHQは「極東委員会が日本を共和国化しようとしている」「国民投票にかける」と脅し、「日本の米国への隷属化」に有利なGHQ「新憲法」制定を急かした。

「(ホイットニー)将軍は『もしあなた方(日本政府代表)がこの憲法草案を、即座に、われわれと協議をせずに、また日本側としての提案もしないで拒否するならば、マッカーサー司令官は今度の日本の選挙で、その草案を直接、日本国民に示し、国民投票によって国民が憲法改正について日本政府に賛成するか、GHQに同意するかを問う事になる』と告げたのです。これがその会談(引用者注:1946年2月13日、ホイットニー准将やケーディスをはじめとするGHQの代表4人と、吉田茂外相をはじめとする日本政府代表4人の外務大臣公邸での会談)での唯一の威圧でした。」(民政局ホイットニー将軍の言についての次官ケーディスの証言。古森義久『憲法が日本を滅ぼす』)

国民投票」をちらつかせることが、帝国憲法改正を渋る日本政府への、GHQと極東委員会による「威圧」として効果を発揮した、とはどういうことだろうか。

「日本は敗北せる敵である。そこには交渉というものは存在しない。GHQは、日本政府に対し命令はする。しかし交渉するのではない。交渉は対等者間に行われるのである。しかして日本人には、彼らがすでに世界の尊敬や、あるいは最高司令官の命令に対して折衝することができる地位を獲得したと信じさせてはならない。」(GHQ訓示、1945年9月15日放送。菅原裕「日本国憲法失効論」)

占領軍のこの訓示は国民に聞かせたものであり、ほぼ同時に開始された日本国全土を覆い尽くす「プレス・コード=検閲」という名の言論弾圧で、批判精神の翼をもぎ取られたマス・メディアの様や、21万人に及んだ「公職追放」者とその家族百数十万人が路頭に迷う様を、国民は「明日は我が身」と怯えながら見ていた。

元々従順な性質の日本人は、いまや占領軍に服従する奴隷的無力感に捉われつつあった。

GHQと「進駐軍」は日本人全体の上に文字通り君臨していた。

この状態で「国民投票」をすればどうなるか、火を見るより明らかであろう。

現在も、その状況は変わっていない。ここ数年の、中国や南北朝鮮のあまりにアグレッシブな領土侵犯と敵対的態度に、「さすがにこの期に及んで空疎な『平和憲法』の9条・前文では日本を護れない」と、国民は正しく憂慮している。

だが、日本国民は「『日本国憲法』無効論」を知らない。前文と9条を始末するには「改正」しかない、と思い込んでいる。

その「憲法改正」が「精神を非武装化され、自力で何も決めることができない日本」の恒久化に繋がるという事実を知らない。

カイロ宣言の「暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取」「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態」、ポツダム宣言の「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者」「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤」等はすべて虚偽、少なくとも所謂「allegation=十分な根拠のない申し立て」に過ぎない。

にも拘らず、敗戦したというだけの理由で、戦勝国の言うなりにこの「根拠のない申し立て」を全て「真実」として信じ込まされ受け入れさせられ、戦犯として1,000人近くが死刑判決を受け、国際社会に於いても日本国全体をして「犯罪者」の烙印を押され、現在に至るも、その冤罪の事実を訴える努力すら「無反省」として謗られている。

「日本国憲法」とは、「連合国=蹶起セル世界ノ自由ナル人民」が、「犯罪国家=日本」を「他の諸国家にとって危険な存在たらしめた同国の慣行および制度を永久に除去しようと」与えた「punishment=罰」であった。

連合国は、根拠のない申し立てを、無法な私刑裁判=東京裁判で正当化し、日本国民全体に冤罪を着せた。

検閲と言論弾圧で日本国民を騙し、洗脳によって虚偽の日本悪玉史観を信じ込ませた。

国民と国土の完全破壊と、世界最古不二の「万世一系の天皇の統治する」日本の国体の破壊をほのめかして脅迫し、帝国憲法を「改正した」と国民を騙して、天皇の大権を剥奪し、「限りなく左翼全体主義に近い国民主権」を謳う『日本国憲法』に挿げ替えた。

他のアジアの国々のように欧米列強の植民地にされる運命を拒絶するため、国際社会から尊敬される強く豊かな国家を目指して、明治の日本が作り上げた大日本帝国憲法は、かくして強奪された。

当時、憲法問題調査委員会顧問であった美濃部達吉博士は:

憲法の全部の廃止又は停止は、国家存立の基礎を根本的に覆すもので、それは絶対に許されるべきものではない」(『逐条憲法精義』)とし、「帝国憲法第73条によって、こんな改正を行うことは、法理上不可能である」と主張して最後まで反対し、ついに唯一人起立をしなかった。(菅原裕『日本国憲法失効論』)

枢密院議長・清水澄博士は新憲法実施の日に「自決の辞」を認め、9月25日、抗議の入水をした。

「自決の辞」

新日本憲法ノ発布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル団体及個人アリタリ、其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ、或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ、我国ノ将来ヲ考へ憂慮ノ至リニ堪ヘズ、併シ小生微力ニシテ之カ対策ナシ、依リテ自決シ幽界ヨリ我国体ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈念セント欲ス、之小生ノ自決スル所以ナリ、而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ、楚ノ名臣屈原ニ倣イタルナリ

昭和二十二年五月新憲法実施ノ日認ム

元枢密院議長 八十翁 法学博士 清水澄

「天皇陛下、国会、内閣、司法、行政のすべてが日本国憲法を憲法という前提で動き、国民の99%以上が憲法だと認識している。これを法学的に妥当性・実効性を満たしているといいます。」(谷田川惣『決定版・憲法無効論は破綻した論理:質疑応答(スマホ版)』)というのは詭弁である。

これまで縷々例を挙げて説明したように、GHQ・SCAP=マッカーサーは、天皇陛下、日本政府、帝国議会、日本国を司る全ての機関の頂点に君臨し、「いうことを聞かなければ、いつでも直接軍制に変える」「天皇の安全保証せず」「日本を共和国=共産主義国にする」「日本全土を焦土に変える」と脅迫しながら、表向きは「日本人が自発的に憲法を改正した」風を装った。

自らの占領政策の違法性を自覚していたからである。

また、「『日本国憲法』には『日本国憲法公布記念式典の勅語』『憲法改正の勅語』があり、それは天皇のご裁可を頂いた証拠であるので、『無効論』は正しくない」というのも同様の無知或いは詭弁である。

無法者のような暴力と強圧で、「連合国=戦勝国」が「日本人を奴隷にするつもりはない」という自らの約束も反故にし、その伝統・文化と国体をも破壊するという犯罪行為の帰結である『日本国憲法』のどこに「妥当性」があるのか?

『日本国憲法』でも禁止している検閲を徹底的に行って言論弾圧をしながら、リンチ裁判である東京裁判で日本人全体に冤罪をかぶせ、自らを「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」と持ち上げてみせる偽善的輩の作った勘違い「憲法」の、どこに「妥当性」があるのか?

全世界のどの国も持っている自然権たる「自衛権」「(自衛戦争を行う為の)交戦権」を認めず、放棄するなどという「日本人蔑視」の「憲法」の、一体どこに「妥当性」があるというのか?

「憲法」で「保持しない」と明言した「戦力」を実は持っている事、持ち続けている事の、どこに「実効性」があるのか?

このようなまがいものを天皇陛下が心底お認めになり、本心からご勅語を発せられたと考えること自体、「妥当性」がないではないか。

当時の法制局長官であった入江俊郎氏の自民党憲法調査会における告白によると、

「・・・結局はこの前文は一字一句も変えちゃ困るということをいわれて、そのままの前文をつけて要綱として発表することになったわけであります。・・・ところがその前文を見ますと、ご承知のように、『日本国民が、その代表者である国会議員を選挙して、それによって、憲法を制定する』と書いてあります。そうすると帝国憲法では、天皇が憲法改正案を提案することになっておりますし、明治憲法のもとで新憲法をつくって行くということであるとするならば、どうもそういう前文では非常に困るじゃないかということを、三月五日の閣議で幣原さんが発言されまして、それはもっともだ、その点どういうふうに直したらよかろうかということが問題になりましたが、これもいろいろ相談の結果、そういう前文のついたような憲法草案を天皇が是認されまして、天皇の意思においてそういう前文のついた憲法を発議するということにすれば、明治憲法七十三条の憲法改正の手続きとも違背しないし、また実質からいって司令部側との関係も円満に行くんじゃないかと考えたわけです。それじゃまずその案を総理大臣から内奏して天皇の御了承を得て、あわせてこういったような内容の憲法をつくることについて内閣として努力せよというふうな意味の勅語をいただくことにしたらどうであろうかということになったわけであります。

松本国務大臣なんぞは、なんだか三百代言みたいな議論だといっておられましたけれども、しかしどうもやむを得ない、そういうことにしようというので、三月五日急遽総理大臣が参内されて天皇に申し上げて、翌六日の要項発表と同時に、そういう意味における勅語をいただいて、これもあわせて発表しております。

近頃この憲法はマッカーサー憲法であって、帝国憲法は依然として生きているんだから、マッカーサー憲法がなくなれば、当然に帝国憲法が生き返るんだというような議論があるそうでありますが、そういったこととかあるいはまた、あの当時日本は革命があったので憲法改正じゃないのだ、明治憲法はそのまま消滅して新しい憲法ができたんで、憲法七十三条によって改正したなんということは非常に間違っているという議論もありましたがそういう議論が起こるであろうということを十分考えた上で、政府の責任としては明治憲法から新憲法に移行するのになんとかつじつまを合わせようというので勅語を受けたのであります。之は当時の内輪話として申し上げたわけであります。そこで司令部の案に対していろいろ折衝したのでありますが、だいたい司令部側は非常に強い意見で、たとえば天皇とか、戦争放棄の条文は全然手を触れちゃならぬ、こういう強い意向を示されたのであります。・・・」(全文、自由党憲法調査会、特別資料(一)、73ページ以下。太字引用者)

「これによれば、占領軍の不合理な無理強いに対し、政府としては、占領軍に対して堂々と職を賭して争うこともせず、また法理論をもって相手を説得することもできず、ただ日本国民に対して、一切の矛盾を袞龍の袖にかくれて、勅語を利用することによって糊塗せんと画策したにすぎなかったようである。ことに後でおこるであろう無効論を押えるためにも、勅語を戴いておいたというにいたっては、滑稽至極である。当時の責任者たちが、占領軍の横暴に対し、万策尽きて、当面の糊塗を、天皇にお願いし、おすがりした醜状は、まさに世紀の悲喜劇であった。(菅原裕『日本国憲法失効論』)

日本国憲法公布記念祝賀 宮城前 天皇皇后両陛下
日本国憲法公布祝賀都民大会

「日本の侵略的軍国主義・帝国主義の培養源が帝国憲法であった」という虚構に基づく告発によって「帝国憲法は改変せねばならない」「天皇制は廃止せねばならない」「日本精神を破壊しなければならない」という自己欺瞞的な結論に達し、法理を無視して日本国民を脅迫しながら、欺きながら実行に移した、その結果が『日本国憲法』である、という事実を国民に知らせる。それが「無効論」の使命である。

「『日本国憲法』を無効にする」のではない、「『日本国憲法』は無効である、という事実の確認」であるから、天皇陛下が国会に於いて「『日本国憲法』無効」「大日本帝国憲法現存」を宣言されるだけでよい。

これにより、日本国と日本人を縛り続けてきた『日本国憲法』の前文・9条をはじめとするGHQの軛は、瞬時に解かれる。

「『日本国憲法』を70年も使ってきて、沢山の法律も派生している。これが全部無効になったら大変なことになる」という者は、『日本国憲法』の制定によって「57年使ってきた」大日本帝国憲法が停止され、GHQの命令によって刑法の「利敵行為条項」も削除されるなど、当時のあらゆる現行法律が影響を受け、「大変なことになった」ことを失念していないか?

『日本国憲法』施行時、昭和の日本人は1年半で調整を終えた。平成の日本人が同じことができないわけはあるまい。(洗脳のせいで国会議員や官僚の多くが無能化しているということはあるかもしれないが…。)

具体的にどんな問題があるのか、リストアップして公開討論に付し、丹念に国民全体で考えてゆけばいい。

忘れてはならないことは、独立国には自国の行き方を自律的・自主的に決定する権利が備わっているということである。

『日本国憲法』無効確認・大日本帝国憲法現存確認の後、両方の「良いとこ取り」をする権利も、当然ある。

時代の要請により改正が必要な場合は、大日本帝国憲法の改正方式に則って、天皇の御発議を頂き、改正するのが法的に正統・正当である。

最も重要なことは、無効確認・現存確認によって、日本は「仁政を行う『万民の父母』『至高の権威』天皇」を取り戻す、ということである。何も、心配する必要はないのである。

GHQ憲法下の「象徴天皇」は、左翼の「天皇の戦争責任追及キャンペーン」=「天皇の権威剥奪工作」にも拘らず、戦前と変わらぬ「精神的権威」を保持し続けた。

それは「天皇制廃止」を掲げる共産主義への、国民の拒絶の表明であり、「万世一系の天皇がこれを統治する」日本の国柄への、日本人の支持の表明である。

『日本国憲法』と対で押し付けられた「法律」の『皇室典範』も当然無効であるから、日本は「『日本国憲法』無効宣言」により、『大日本帝国憲法』と明治の『皇室典範』をふたつながらに取り戻すことができる。

これにより、GHQに剥奪された「天皇大権=天皇の『政治的権威』」を天皇にお返しすると同時に、皇室の「家憲」である『皇室典範』(1889年)も天皇家にお返しすることができる。

つまり、皇統の問題など、天皇家の方々が一般国民よりも当然熟知しておられる問題を、国会等の不明な横槍なしに、天皇家で解決して頂くことができるのである。

『日本国憲法』は前文で日本を道徳的下層国と位置付け、「連合国の属国化」「国際社会の保護国化」宣言をしている。

また連合国戦勝国クラブである国連の「国連憲章」は、日本とドイツを未だ「敵国条項」で縛り、日本は、分担金を22%で1位の米国に次いで11%(2位)、ドイツは3位で7%も拠出しているが、両国を「国際社会」の最下層国として扱い、侮辱し続けている。

この「国際社会」の中でも、特にソ連(後にロシア)・中国・北朝鮮ら国際共産主義国家群と、近年ではそれらに支持或いは煽動された韓国が、日本の国土と社会を傍若無人の振る舞いで浸食している。

この「日本は道徳的下層国」の根拠になっている「戦前の『天皇強制崇拝』『軍国教育』が日本を世界侵略の道に進ませた」という連合国の告発が、歴史偽造に基く虚構であった、誣告であった、と全国民が理解し、世界に周知されることで、日本人が戦後持ち続けることを強要された「一億総前科者」の幻の負い目は消える。

それが現在、過去、未来の日本人にどんなに重要なことか、言葉では表しきれないものがある。

「『日本国憲法』無効宣言」によって、日本は戦後初めて、まっとうな国家意識・国防観念を取り戻すことができるのである。

北朝鮮による拉致被害者を全員奪還、北方領土と尖閣、竹島など、ロ中韓によって不法に占領されている、或いは占領されかけている領土の奪還・保全も、国際標準のネガティブ・リストの「交戦規定」を持つことで、完全な軍隊として機動力の増す「新国防軍」と新設「情報省」がやり遂げるであろう。

「『日本国憲法』無効確認」及び「大日本帝国憲法復原確認」は、国際法の発展に寄与する。

「日本国憲法」の無効確認と帝国憲法復原は、ドイツ・ボン基本法やフランス・ビシー憲法の例に見るように、占領中の憲法改廃に関する国際法の一つの先例となるからである。

連合国が戦後行った「東京裁判・太平洋戦争史観」プロパガンダとそれを強化するために行われた検閲・洗脳は、総合的に見て日本国と日本国民に対して犯された「誣告罪」である。

「誣告」も「被占領国の憲法・国体改変」も、戦後日本が今もって脱却できないでいるほどに、前代未聞のスケールで行われた。その影響の大きさは計り知れなく、政治、経済、歴史、教育の問題を超えて、日本国全体の「アイデンティティ・クライシス」をもたらしている。

だとすれば、当然この「誣告」の禁止も、国際法の未来の為、国際社会の平和の為には必要となるのではないか?

1919年のパリ講和会議で日本が提唱した「人種差別撤廃提案」は白人列強に握り潰され、大東亜戦争敗戦と共に「大東亜共栄圏構想」もあえなく潰えた。

「『日本国憲法』無効宣言」には、暴力と強権で日本国の歴史と文化を蹂躙した連合国列強への、明確な拒絶の意味が込められている。

逆にいえば、「『日本国憲法』を『憲法』として受け入れる」ということは、つまるところ、暴力と強権の容認に他ならない。

だからこそ、日本と日本人は、「『日本国憲法』は無効である」と、「我々の独立自尊を目指す『大日本帝国憲法』は現存している」と、声高らかに、堂々と、宣言しなければならない。

世界の全ての国々が、暴力と強権で頭を押さえつけられることなく、世界中の誰もが公正な法により、自由と平和を享受できる、そのような世界を作る為に、日本と日本人は立ち上がらなければならない。

参考文献

日本国憲法無効論1

  • 「憲法が日本を亡ぼす」古森義久
  • 「日本国憲法を考える」西修
  • 「日本国憲法はどう生まれたか」青木高夫
  • 「明治憲法の思想」八木秀次
  • 「日本国憲法」講談社学術文庫
  • 「日本国憲法失効論」菅原裕
  • 「憲法無効論とは何か」小山常実
  • 「とこしへのみよ」「はらひしたまへ」南出喜久治
  • 「正当憲法復原改正への道標」小森義峯
  • 「The United States and Japan」Edwin O. Reischauer
  • 「戦争と検閲 石川達三を読み直す」河原理子
  • 「ひと目でわかる『GHQの日本人洗脳計画』の真実」水間政憲
  • 「Press Control Around the World」Curry and Dassin
  • 「衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録」衆栄会発行
  • 「Political Reorientation of Japan; September 1945 – September 1948, Volume Ⅰ and Ⅱ」Supreme Commander for the Allied Powers

(2017年9月6日に加筆しました。)